第9話 仮面の裏、暗号の奥
シャルロッテの情報は本物だった。
三日後、約束通り届けられた封筒の中に、ギュンターの帳簿の写しが入っていた。数字の羅列。走り書きのメモ。シャルロッテの手が震えていた痕跡が、筆跡の乱れに残っている。
暗号日誌の解読結果と照合した。矛盾はない。むしろ、暗号日誌が示す不正の規模が、この帳簿によって裏づけられた。
「確定だ」とクラウスが言った。「これで十分な証拠になる」
隠し書庫のテーブルに、全ての資料が広げられている。父の暗号日誌の解読結果。クラウスの財務資料。シャルロッテの帳簿の写し。三つの資料が一つの結論を指し示している。
ギュンター・ヴァレス侯爵は、二十年にわたって公金を横領していた。
「王妃ルートへの提出準備は?」
「ヨーゼフが明日、ルシア殿に面会する。一週間以内に証拠が王妃の手に届く」
一週間。
あと一週間で、この長い戦いが終わるかもしれない。
◇◇◇
終わらなかった。少なくとも、その日のうちには。
帳簿の写しを安全な場所に移すため、夜の王都を移動する必要があった。クラウスが一部を、私が一部を、別々のルートで運ぶ。合流地点は橋の東側、鐘楼の裏。
問題は、私が運ぶルートだ。
歩きながら、第三層の暗号が頭を離れなかった。
帳簿の数字を照合した時に気づいた違和感。父の暗号日誌の第三層には、まだ解けていない部分がある。第二層までの解読で証拠としては十分だが、第三層には父が本当に伝えたかったことが眠っているはずだ。
鍵の構造が見え始めていた。ヴィジュネル暗号の変形ではない。もっと個人的な——父と私だけの——
右に曲がった。
いや、左だったか。苔のある壁を右、煉瓦の壁を左。クラウスに教わった道順。
煉瓦の壁。ここを左。
考え続けていた。第三層の鍵が多表式ではなく単一置換の変形だとすると、鍵長は——
……煉瓦の壁がない。
石の壁が続いている。見覚えのない通り。街灯もない。冬の夜風が吹き抜けて、ドレスの裾が翻る。
暗号のことしか考えていなかった。道順を頭で追うべき注意が、全部第三層に吸い取られていた。何回角を曲がったかも、いつ知らない通りに入り込んだかも、わからない。
足を止めた。周囲を見回す。暗い路地。どちらから来たのかもわからない。
背中を汗が伝った。
足音が聞こえた。
自分の足音ではない。後ろから。複数。
肩甲骨の間が強張った。追手。ギュンターの部下か。暗号に没頭して周囲を見失った、最悪の状況。
「こっちだ」
暗がりから手が伸びてきた。
反射的に体が動いた。前世の合気道が、考えるより先に反応する。手首を掴み返し、関節を——
「俺だ。俺」
クラウスの声。
手を離した。暗闘の中で、クラウスの顔が至近距離にある。息がかかるほどの距離。
「……ごめん」
「肩が外れるかと思った」
「ごめんって言ってるでしょう」
「いいから走れ。追手が二人いる」
走った。クラウスの手が私の手首を掴んでいた。引っ張られるように、狭い路地を駆け抜ける。
クラウスは迷わない。角を曲がり、階段を駆け下り、橋の下をくぐる。足が速い。私も走るのは得意だけれど、この男の土地勘にはかなわない。
「ここだ」
建物の隙間に滑り込んだ。息を殺す。壁に背中を押しつけ、追手の足音が通り過ぎるのを待つ。
暗闇の中。二人の呼吸だけが聞こえる。
足音が遠ざかった。
「……撒いた」
クラウスの声。息が荒い。
「帳簿は無事?」
「ある。鞄の中に」
「よかった」
クラウスが、壁にもたれかかった。少し笑った。いや、笑ったように見えた。暗くて表情がわからない。
「暗号を考えながら歩いていただろう」
「……わかるの」
「合流地点に来なかった。あの状態の君が注意散漫になる理由は一つだ」
耳の奥が熱くなった。見抜かれている。完全に。
◇◇◇
証拠の受け渡しは、翌日ヨーゼフの手で無事に完了した。
王妃の筆頭侍女ルシアが、証拠を受け取った。王妃の反応はまだわからない。だが、歯車は動き始めた。
その夜。隠し書庫。
証拠の提出が終わり、いつもの椅子に腰を下ろした。背中合わせ。蝋燭が静かに燃えている。カモミール茶。
いつもと同じはずなのに、空気が違った。
「……言わなければいけないことがある」
「何だ」
両手を膝の上で握った。指が白くなるまで。
「信じないかもしれない。頭がおかしいと思うかもしれない。でも、この先のことを考えると、隠し続けるのは不公平だと思った」
待っている気配。
「私には、前世の記憶がある」
テーブルの上の蝋燭が、芯の端で小さく弾けた。
「前世。別の世界で生きていた記憶。そこでは暗号学を学んでいて。この世界とは全然違う文明があって。それが、暗号を解ける理由」
長い間、何も聞こえなかった。
背中合わせの椅子の向こうで、クラウスが何を考えているか見えない。
「信じてもらえなくても」
「信じる」
「……え」
「君が嘘をつく時の癖は知っている」
左手の薬指。私は触っていなかった。
「今、君は嘘をついていない」
耳の後ろが冷たくなった。受け入れられるとは思っていなかった。少なくとも、こんなにあっさりとは。
「……聞かないの? 前世のこととか、どんな世界だったとか」
「聞きたいことはある。だが、今は別の話がある」
クラウスが立ち上がった。テーブルの前に回り込み、私の正面に立った。蝋燭の灯りに照らされた顔。いつもの皮肉を含んだ表情ではない。
「俺が宮廷の腐敗を追っている理由を、話す」
「……」
「父が死んだのは事故ではない。父は生前、ある人物と共に宮廷浄化を志していた。証拠を集め、王に直訴する計画を立てていた。だがその直前に、事故で死んだ」
「ある人物?」
「レーマン子爵だ」
指先の感覚が消えた。膝から下が別の人間のものになったような、奇妙な遠さ。
「俺の父と君の父は、同志だった。共に宮廷の不正を追い、共に証拠を集めていた。父が死に、レーマン子爵が投獄されたのは、偶然ではない」
蝋燭の灯りが、ぼやけて見えた。
「だから、あなたは最初から私のことを知っていた」
「ああ。父の遺品の中に、レーマン子爵への手紙があった。そこに君の名前が出ていた」
「先に知っていた」。あの日の言葉が、今繋がった。
「……なぜ最初に言わなかったの」
「信用できるかわからなかった。レーマン子爵の娘が、父の同志の子だという保証はなかった。だが」
クラウスの視線が、まっすぐに私を見た。
「今は違う」
椅子から立ち上がった。足が震えている。
父が一人ではなかった。同志がいた。ブラント先代侯爵という同志が。
そして、その息子が、今、目の前にいる。
「計算が合わない」と呟いた。
「何がだ」
「こんな偶然が、偶然なわけがない。あなたと私がここで出会ったことが」
「偶然ではなかったかもしれない。だが、結果的に、ここにいる」
それだけ。
それだけで、十分だった。
蝋燭が一本、静かに燃え尽きた。残りの灯りの中で、二人は向かい合ったまま座った。
暗号日誌の第三層の鍵。父が私にだけ解けるようにした暗号。
もしかしたら。
鍵は、暗号学の理論ではなく、もっと個人的なもの。父と私にしかわからない何か。
子供の頃の暗号遊び。
『テレ、世界で一つだけの鍵を作ってごらん』
私は、あの時、何を答えた?
答えが、もう少しで見えそうだった。
灯りが揺れる。冬の夜。
でも、書庫の中は温かかった。




