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夜だけ味方の侯爵閣下  作者: 九葉(くずは)


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9/12

第9話 仮面の裏、暗号の奥

シャルロッテの情報は本物だった。


三日後、約束通り届けられた封筒の中に、ギュンターの帳簿の写しが入っていた。数字の羅列。走り書きのメモ。シャルロッテの手が震えていた痕跡が、筆跡の乱れに残っている。


暗号日誌の解読結果と照合した。矛盾はない。むしろ、暗号日誌が示す不正の規模が、この帳簿によって裏づけられた。


「確定だ」とクラウスが言った。「これで十分な証拠になる」


隠し書庫のテーブルに、全ての資料が広げられている。父の暗号日誌の解読結果。クラウスの財務資料。シャルロッテの帳簿の写し。三つの資料が一つの結論を指し示している。


ギュンター・ヴァレス侯爵は、二十年にわたって公金を横領していた。


「王妃ルートへの提出準備は?」


「ヨーゼフが明日、ルシア殿に面会する。一週間以内に証拠が王妃の手に届く」


一週間。


あと一週間で、この長い戦いが終わるかもしれない。


◇◇◇


終わらなかった。少なくとも、その日のうちには。


帳簿の写しを安全な場所に移すため、夜の王都を移動する必要があった。クラウスが一部を、私が一部を、別々のルートで運ぶ。合流地点は橋の東側、鐘楼の裏。


問題は、私が運ぶルートだ。


歩きながら、第三層の暗号が頭を離れなかった。


帳簿の数字を照合した時に気づいた違和感。父の暗号日誌の第三層には、まだ解けていない部分がある。第二層までの解読で証拠としては十分だが、第三層には父が本当に伝えたかったことが眠っているはずだ。


鍵の構造が見え始めていた。ヴィジュネル暗号の変形ではない。もっと個人的な——父と私だけの——


右に曲がった。


いや、左だったか。苔のある壁を右、煉瓦の壁を左。クラウスに教わった道順。


煉瓦の壁。ここを左。


考え続けていた。第三層の鍵が多表式ではなく単一置換の変形だとすると、鍵長は——


……煉瓦の壁がない。


石の壁が続いている。見覚えのない通り。街灯もない。冬の夜風が吹き抜けて、ドレスの裾が翻る。


暗号のことしか考えていなかった。道順を頭で追うべき注意が、全部第三層に吸い取られていた。何回角を曲がったかも、いつ知らない通りに入り込んだかも、わからない。


足を止めた。周囲を見回す。暗い路地。どちらから来たのかもわからない。


背中を汗が伝った。


足音が聞こえた。


自分の足音ではない。後ろから。複数。


肩甲骨の間が強張った。追手。ギュンターの部下か。暗号に没頭して周囲を見失った、最悪の状況。


「こっちだ」


暗がりから手が伸びてきた。


反射的に体が動いた。前世の合気道が、考えるより先に反応する。手首を掴み返し、関節を——


「俺だ。俺」


クラウスの声。


手を離した。暗闘の中で、クラウスの顔が至近距離にある。息がかかるほどの距離。


「……ごめん」


「肩が外れるかと思った」


「ごめんって言ってるでしょう」


「いいから走れ。追手が二人いる」


走った。クラウスの手が私の手首を掴んでいた。引っ張られるように、狭い路地を駆け抜ける。


クラウスは迷わない。角を曲がり、階段を駆け下り、橋の下をくぐる。足が速い。私も走るのは得意だけれど、この男の土地勘にはかなわない。


「ここだ」


建物の隙間に滑り込んだ。息を殺す。壁に背中を押しつけ、追手の足音が通り過ぎるのを待つ。


暗闇の中。二人の呼吸だけが聞こえる。


足音が遠ざかった。


「……撒いた」


クラウスの声。息が荒い。


「帳簿は無事?」


「ある。鞄の中に」


「よかった」


クラウスが、壁にもたれかかった。少し笑った。いや、笑ったように見えた。暗くて表情がわからない。


「暗号を考えながら歩いていただろう」


「……わかるの」


「合流地点に来なかった。あの状態の君が注意散漫になる理由は一つだ」


耳の奥が熱くなった。見抜かれている。完全に。


◇◇◇


証拠の受け渡しは、翌日ヨーゼフの手で無事に完了した。


王妃の筆頭侍女ルシアが、証拠を受け取った。王妃の反応はまだわからない。だが、歯車は動き始めた。


その夜。隠し書庫。


証拠の提出が終わり、いつもの椅子に腰を下ろした。背中合わせ。蝋燭が静かに燃えている。カモミール茶。


いつもと同じはずなのに、空気が違った。


「……言わなければいけないことがある」


「何だ」


両手を膝の上で握った。指が白くなるまで。


「信じないかもしれない。頭がおかしいと思うかもしれない。でも、この先のことを考えると、隠し続けるのは不公平だと思った」


待っている気配。


「私には、前世の記憶がある」


テーブルの上の蝋燭が、芯の端で小さく弾けた。


「前世。別の世界で生きていた記憶。そこでは暗号学を学んでいて。この世界とは全然違う文明があって。それが、暗号を解ける理由」


長い間、何も聞こえなかった。


背中合わせの椅子の向こうで、クラウスが何を考えているか見えない。


「信じてもらえなくても」


「信じる」


「……え」


「君が嘘をつく時の癖は知っている」


左手の薬指。私は触っていなかった。


「今、君は嘘をついていない」


耳の後ろが冷たくなった。受け入れられるとは思っていなかった。少なくとも、こんなにあっさりとは。


「……聞かないの? 前世のこととか、どんな世界だったとか」


「聞きたいことはある。だが、今は別の話がある」


クラウスが立ち上がった。テーブルの前に回り込み、私の正面に立った。蝋燭の灯りに照らされた顔。いつもの皮肉を含んだ表情ではない。


「俺が宮廷の腐敗を追っている理由を、話す」


「……」


「父が死んだのは事故ではない。父は生前、ある人物と共に宮廷浄化を志していた。証拠を集め、王に直訴する計画を立てていた。だがその直前に、事故で死んだ」


「ある人物?」


「レーマン子爵だ」


指先の感覚が消えた。膝から下が別の人間のものになったような、奇妙な遠さ。


「俺の父と君の父は、同志だった。共に宮廷の不正を追い、共に証拠を集めていた。父が死に、レーマン子爵が投獄されたのは、偶然ではない」


蝋燭の灯りが、ぼやけて見えた。


「だから、あなたは最初から私のことを知っていた」


「ああ。父の遺品の中に、レーマン子爵への手紙があった。そこに君の名前が出ていた」


「先に知っていた」。あの日の言葉が、今繋がった。


「……なぜ最初に言わなかったの」


「信用できるかわからなかった。レーマン子爵の娘が、父の同志の子だという保証はなかった。だが」


クラウスの視線が、まっすぐに私を見た。


「今は違う」


椅子から立ち上がった。足が震えている。


父が一人ではなかった。同志がいた。ブラント先代侯爵という同志が。


そして、その息子が、今、目の前にいる。


「計算が合わない」と呟いた。


「何がだ」


「こんな偶然が、偶然なわけがない。あなたと私がここで出会ったことが」


「偶然ではなかったかもしれない。だが、結果的に、ここにいる」


それだけ。


それだけで、十分だった。


蝋燭が一本、静かに燃え尽きた。残りの灯りの中で、二人は向かい合ったまま座った。


暗号日誌の第三層の鍵。父が私にだけ解けるようにした暗号。


もしかしたら。


鍵は、暗号学の理論ではなく、もっと個人的なもの。父と私にしかわからない何か。


子供の頃の暗号遊び。


『テレ、世界で一つだけの鍵を作ってごらん』


私は、あの時、何を答えた?


答えが、もう少しで見えそうだった。


灯りが揺れる。冬の夜。


でも、書庫の中は温かかった。


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