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夜だけ味方の侯爵閣下  作者: 九葉(くずは)


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12/12

第12話 夜が明けて

朝の光が、窓から差し込んでいた。


屋根裏部屋ではない。旧レーマン子爵邸の、私の部屋。二週間前に返還された、父の家。


ベッドから起き上がり、窓を開けた。冬の終わりの空気。冷たいけれど、春の予感が混じっている。街路樹の枝先に、小さな芽が膨らんでいるのが見える。


父の名誉回復の勅令が、三日前に正式に発布された。レーマン子爵の爵位と領地が返還される。もっとも、爵位を継ぐのは私ではなく、後見人を通じた管理という形になるが、形はどうでもいい。


父の名前に、もう「横領犯」の烙印はない。


机の上に暗号日誌を置いた。もう枕の下に隠す必要はない。インクの匂いが微かに残っている。父の手の温もりの名残のような。


「お父さん。帰ってきたよ」


声に出して言った。誰もいない部屋で。


答えは返ってこない。でも、朝の光が暗号日誌の表紙を照らしていて、それが父の返事のように思えた。


◇◇◇


社交界に出るのは、もう怖くなかった。


ヴァレス侯爵家の没落は、王都中の話題だった。ギュンターの投獄。爵位剥奪。二十年にわたる横領の全容が白日の下に晒された。


「レーマン子爵令嬢が暗号を解読して不正を暴いた」。その噂は、かつての「横領犯の娘」の噂と同じ速度で広まった。社交界の情報伝達は一日か二日。あっという間だ。


茶会に招かれた。かつて冷たい目を向けてきた夫人たちが、今度は微笑みながら話しかけてくる。


「まあ、レーマン令嬢。ずっとお一人で大変でしたわね」


手のひらを返す速さに、前世の就活を思い出した。不採用通知を送ってきた企業が、翌年の就活イベントで「ぜひうちに」と声をかけてきたあの感じ。人間というのは、どの世界でも変わらない。


「いいえ。一人ではありませんでした」


社交の微笑み。でも今回は、嘘ではなかった。


ベルクハイム伯爵とは目が合った。あの平手打ちの夜以来だ。伯爵は一瞬硬直して、それから小さく頭を下げた。謝罪ではないだろう。ただの保身。でも、もういい。この人を恨む理由がなくなった。


シャルロッテの姿を探した。茶会にはいなかった。


後日、手紙が届いた。短い手紙。


『あなたに信じてもらえなかったことは、今でも少し痛い。でも、あなたが正しかったと思う。信頼は、行動で証明するものだから。――シャルロッテ』


返事を書いた。もっと短く。


『ありがとう。あなたは自分で立った。それが全てだと思う。――テレーゼ』


便箋を封筒に入れる時、手が止まった。もう一行、書き足した。


『春になったら、お茶でも』


友人になれるかは、わからない。でも、敵ではなくなった。あの法廷でシャルロッテが見せた背筋の強さを、私は忘れないだろう。


◇◇◇


夕方。ブラント邸。


正面玄関から入った。庭師用通路ではなく。もう裏口から忍び込む必要はない。


ヨーゼフが出迎えてくれた。


「お待ちしておりました、お嬢様」


「ヨーゼフ。もうお嬢様はやめてって」


「失礼ですが。お嬢様はお嬢様でございます」


変わらない。この人は何があっても変わらない。


クラウスは書斎にいた。正規の書斎。隠し書庫ではなく。窓からの夕日が書架を照らしている。この部屋を昼間に見るのは初めてだった。思ったより広い。思ったより、本が多い。


「来たのか」


「来たわよ。正面玄関から。堂々と」


「堂々と来られると、使用人が慌てる」


「知らないわよ、そんなの」


いつもの調子。でも、声のトーンが違う。皮肉の鎧が、一枚薄くなっている。


クラウスの目の下の隈が、少し薄くなっていた。眠れるようになったのだろうか。私も、最近は、朝まで眠れるようになった。枕の下に暗号日誌を隠さなくてよくなったからかもしれない。


「隠し書庫、見に行かない?」


私が言った。クラウスは少し眉を上げた。


「もうあそこで会う理由はないが」


「理由がなくても行きたい場所って、あるでしょう」


クラウスは何も言わなかった。代わりに、書斎の引き出しから鍵を取り出した。隠し書庫の鍵。普段は仕掛けで開けていたけれど、鍵もあったのだ。


「先代が万が一のために残していた。使ったことはなかったが」


「今日が初めて?」


「そうだな。正式に開けるのは」


正式に。密会ではなく。秘密の部屋ではなく。ただの、二人の場所として。


◇◇◇


隠し書庫。


本棚の仕掛けを開ける。ぎい、と軋む音。何度聞いたかわからない音。


中は、変わっていなかった。テーブル。椅子。棚のカモミール茶の缶。蝋燭の立て。藍色のインクの瓶がまだ棚の隅にある。


埃が薄く積もっている。最後に来てから二週間以上経つ。


あの背中合わせの椅子。何十回と座った椅子。革の匂い。蝋燭の煤の匂い。カモミールの残り香。全部が混ざった、この部屋だけの空気。


窓のない部屋。蝋燭がなければ真っ暗なはず。


クラウスが蝋燭に手を伸ばした。


「いらない」


私が止めた。


「朝じゃないけど、もう夜だけの場所じゃなくていい。扉を開けておけば、廊下の灯りが入る」


クラウスの手が止まった。


蝋燭の代わりに、半開きの扉から柔らかい光が差し込んでいる。隠し書庫が、初めて暗闇以外の色を持った。


椅子に座った。向かい合って。もう背中合わせではなく。


「……ここで何度夜を過ごしたかしら」


「数えていない」


「嘘。あなた、そういうこと数えてるでしょう」


クラウスが視線をそらした。一拍遅い。好意を隠そうとしている時の癖。もう知っている。


「二十八回だ」


「数えてるじゃない」


「たまたま覚えていただけだ」


出た。「たまたま」。この男の常套句。


笑った。声に出して笑った。隠し書庫で声を出して笑ったのは、初めてかもしれない。


「クラウス」


「何だ」


「父の手紙の、最後の一文。まだ誰にも言っていなかったの」


クラウスが黙って待っている。


暗号日誌の最後のページ。法廷で読み上げなかった、最後の一文。


「父はこう書いていた。『テレ、お前が笑っていてくれるなら、父はそれだけで十分だ』」


声は震えなかった。もう。


「……父さんは、暗号学者で、不器用で、インクで手が染まっていて。最後まで一人で戦おうとした、ばかな人だった」


喉仏が上下した。飲み込んだものの正体は、自分でもわからなかった。でも涙は落ちなかった。


「でも、私は笑ってる。今。ここで」


クラウスが立ち上がった。テーブルを回り込んで、私の前に立った。


「……俺は、言葉にするのが下手だ。君も知っている通り」


「知ってる。嫌というほど知ってる」


「そこまで言うか」


「事実でしょう」


クラウスが息を吐いた。長く。肩の線が下がった。安堵の呼吸。


「だから、一つだけ」


クラウスの手が、私の左手を取った。薬指に触れた。何もない場所。父の形見があった場所。嘘をつく時に触る場所。


「理由がなくても、ここに来ていいだろう」


不器用な言葉。約束とも告白とも呼べない、けれど、この人らしい言い方。


「……来るわよ。毎日だって」


「毎日は多い」


「うるさい」


半開きの扉から差す光の中で、二人で笑った。


暗号は全て解けた。父の暗号も。クラウスの仮面も。私自身の嘘も。


もう夜だけの味方じゃなくていい。


朝の光の中で、隣にいられる。昼間の社交界で、敵のふりをしなくていい。背中合わせではなく、向かい合って座れる。


左手の薬指に触れた。何もない。ずっと何もなかった場所。嘘をつく時に触っていた場所。


もう触らなくていい。嘘をつかなくていいから。


窓のない書庫に、初めて光が入った冬の夕方。


春が来る。この世界にも、私にも。前世では味わえなかった春が。


それが、最後の暗号の答えだった。

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