第10話 嫌いなふりは、もう飽きた
ギュンター・ヴァレス侯爵は、舞踏会の中央に立っていた。
王太子の誕生日祝賀。冬の大広間に貴族たちが集まる夜。シャンデリアの灯りが金糸の刺繍を照らしている。
私は壁際にいた。今夜は種を蒔く夜ではない。証拠は王妃ルートで届いている。あとは法廷の日を待つだけ。
そのはずだった。
「レーマンの娘がいるぞ」
ギュンターの声が、広間に通った。わざと聞こえるように。
周囲の視線が一斉に集まる。私は背筋を伸ばした。左手の薬指に触れそうになって、止めた。
「お久しぶりです、ヴァレス侯爵」
「いや、驚いたな。この場にまだ出入りする度胸があるとは」
笑顔の下に、刃がある。いつもの皮肉ではない。何かを企んでいる目。
胃の奥が冷たくなった。
「度胸というほどのことではございません。招待状をいただきましたので」
「そうだとも。ところで、最近よく見かけるな。ブラント侯爵のお屋敷の近くで」
呼吸が止まりかけた。
顔には出さない。出さなかった、はず。
「侯爵閣下のお屋敷の近く? 何のことでしょう」
「いやいや。複数の者が目撃している。レーマンの娘が、夜分にブラント邸の方角を歩いていたと。犬猿の仲のはずが、おかしな話だ」
広間がざわめいた。ギュンターの声は計算されている。大きすぎず、小さすぎず。周囲が聞き耳を立てるのにちょうどいい音量。
罠だ。
「……散歩が趣味ですので。夜の王都は星が綺麗ですわ」
「星が綺麗。ふむ。方角が偏っている散歩だな」
笑いが起きた。ギュンターの取り巻きたちの笑い。
追い詰められている。ギュンターの弁舌は宮廷随一だ。こういう場での追い詰め方を知り尽くしている。
「思うに」ギュンターが一歩近づいた。「この女は、ブラント侯爵と通じているのではないか」
広間が静まり返った。
「没落子爵の娘と、若き侯爵。表では犬猿の仲を装いながら、裏では何をしているのだろうな」
手の甲の血管が浮いた。拳を握りすぎている。
否定しろ。笑って否定すればいい。でもギュンターは目撃情報を持っている。否定すれば、次の手が来る。
「財務卿閣下」
声が割り込んだ。
低い声。聞き慣れた声。
クラウスが広間の奥から歩いてきた。ゆっくりと。いつもの冷淡な表情。
「何かな、ブラント侯爵」
「その女のことですが」
クラウスが立ち止まった。私から三歩の距離。目を合わせない。
「レーマン嬢が私の邸宅の周辺で目撃されている件。私から説明いたしましょう」
ギュンターの眉が動いた。予想外の展開。
「彼女は、私が監視しています」
広間がざわめいた。別の種類のざわめき。
「監視?」
「ええ。没落子爵の娘が財務報告について根拠のない噂を撒き散らしている、との報告を受けまして。財務卿補佐官として、彼女の動向を把握する必要がありました」
クラウスの声は平坦だった。完璧な仮面。
「邸宅の周辺で目撃されたのは、呼び出して警告したからです。余計な真似をするなと」
ギュンターの目が細くなった。信じていない。だが公の場で「監視」と宣言された以上、「通じている」という仮説は弱くなる。監視対象と共犯というのは矛盾する。
「……なるほど。侯爵自ら監視とは、ご苦労なことだ」
「身内から疑われるのは不本意ですからね。レーマン嬢」
初めて、クラウスの視線が私に向いた。
冷たい目。社交界のクラウス・ブラント。侮蔑を隠しもしない侯爵。
「余計な噂を撒くのは止めていただきたい。次はありませんよ」
声が、氷のように冷たかった。
「……ご忠告、痛み入ります。侯爵閣下」
唇を噛んだ。演技だとわかっている。わかっているのに。
顎の付け根が痛い。歯を食いしばりすぎていた。
◇◇◇
舞踏会を抜け出した。
庭園の東側、薔薇の枯れた冬の庭。月が出ている。息が白い。
ドレスの上から腕を抱えた。寒い。でも広間には戻りたくない。
あの冷たい目。クラウスの、あの目。
演技だ。頭ではわかっている。
でも。
もし演技じゃなかったら?
ばかばかしい。計画は進んでいる。法廷も近い。感情の整理なんかしている場合じゃない。
「計算が合わない」
呟いた。利害の一致。共犯関係。取引。全部論理的に説明できる。なのに、あの冷たい目を向けられた時の胸の痛みだけが、方程式に乗らない。
……いや、乗らないんじゃない。答えは出ている。認めたくないだけだ。
足音が聞こえた。
「ここにいたのか」
振り返らなかった。声でわかる。
「……監視対象を追いかけてくるなんて、ご熱心ですね。侯爵閣下」
皮肉のつもりだった。でも語尾がかすれた。
クラウスが隣に来た。隣。三歩の距離ではなく、一歩の距離に。
「あそこではああ言うしかなかった」
「わかっている」
「……すまない」
謝罪。クラウスの口から謝罪が出てくるのは珍しい。
「謝らないで。あの場をあれ以外の方法で切り抜ける手段はなかった」
「だが」
クラウスが言葉を切った。右手が左の袖口を掴んでいる。
「俺は、あそこで君を突き放すたびに……」
また切れた。言葉を探している。クラウスの沈黙は本音の合図。知っている。もう、知っている。
冬の庭で、二人の呼吸だけが白く漂っている。
「嫌いなふりは、もう飽きた」
静かな声だった。
皮肉でも、冗談でも、政治的な判断でもない声。
「最初から嫌いだったことはない。君が書庫に入ってきたあの夜から……いや」
クラウスの声が、珍しく迷った。
「正直に言う。父の遺品で君の名前を見つけた時から、会いたいと思っていた。レーマン子爵の娘に。父の同志の子に。それが、いつの間にか」
月明かりの中で、クラウスの横顔が見えた。いつもの仮面がない。表情が、ただの、二十四歳の青年の顔だった。
「……クラウス」
「嫌いなふりをして、公の場で君を突き放して、書庫に戻れば背中合わせで座る。その繰り返しが、もう限界だ」
足の裏に汗がにじんだ。靴の中で、指が縮こまっている。
答えなければ。何か言わなければ。
胸の奥が熱い。言いたいことは溢れているのに、どれを先に口にすればいいのかわからない。
「……計算が合わない」
「何がだ」
「痛い。あなたに冷たくされると、ここが。演技だとわかって、わかってるのに。なんで。取引でしょう、これは。取引のはず、なのに」
止まれ。何を言っている。
「……違う、そうじゃ、なくて」
自己訂正。いつもの癖。でも今回は、訂正する先が見つからない。
「言いたいのは……」
言葉が途切れた。
クラウスが、私の左手を取った。
左手の薬指。何もない薬指。父の形見があった場所。嘘をつく時に無意識に触る場所。
「今、君は嘘をついていない」
二度目の、その言葉。
鼻梁の横がぴくりと動いた。泣くまいとして、顔の筋肉が勝手に抵抗している。
「……ずるい。その見抜き方、ずるい」
「君が正直なだけだ」
「正直じゃない。全然正直じゃない。ずっと、ずっと、嫌いなふりをしていたのは私も同じ」
言ってしまった。
月明かりの中で、クラウスの目が少し広がった。すぐに、ほんの一瞬だけ、柔らかくなった。仮面のない、素の表情。
「……そうか」
短い言葉。でもその声の温度が、いつもと違った。
◇◇◇
隠し書庫に戻った。
二人とも黙ったまま歩いた。庭師用通路を通り、本棚の仕掛けを開け、いつもの部屋に入る。
蝋燭に火を灯した。三本。明るい。
いつもの椅子。背中合わせの椅子。
クラウスが椅子の前で立ち止まった。私も立ち止まった。
「……座らないの」
「座る。だが」
クラウスが椅子を動かした。背中合わせではなく、向かい合う位置に。
そうか。
背中合わせの時間が、終わろうとしている。
向かい合って座った。テーブルを挟んで。灯りに照らされた顔が、正面にある。
「改めて」クラウスが口を開いた。「法廷の日取りが決まった」
「……え」
「ヨーゼフからの報告が今朝あった。王妃が証拠を受理し、正式な審理が二週間後に開かれる。ギュンター・ヴァレス侯爵を被告とする、宮廷財務の不正に関する審理だ」
二週間。
あと二週間で、全てが決まる。
「証人として立てるか」
「立つ。立たせて」
即答だった。迷わなかった。
「暗号日誌の解読結果を法廷で提示する。父の記録が、ギュンターの不正の完全な証拠だったことを証明する」
クラウスが頷いた。
「第三層の鍵は」
「まだ見つかっていない。でも、第二層までの解読で十分な証拠量がある」
「十分だ。シャルロッテの帳簿と、俺の財務資料と合わせれば」
「三方向からの証拠。握り潰せない」
クラウスが少し間を置いた。
「……シャルロッテ嬢にも、法廷での証言を打診している。だが、まだ返事がない」
私は黙った。あの日、シャルロッテを突き放した時の顔が浮かんだ。あの目。信じてほしいと言っていた目を、切り捨てた。
「……来ないかもしれない」
「来なくても、証拠は足りる。だが」
クラウスの言葉が止まった。来てほしいのだろう。内部の証言があるのとないのとでは、重みが違う。
私もそう思った。でもそれを望む資格が自分にあるのか、わからなかった。
向かい合った椅子の距離は、背中合わせの時よりずっと近い。今まで声と気配だけで想像していた表情が、全部見える。
クラウスの目の下に、薄い隈があった。私と同じだ。
「クラウス」
「何だ」
「あの時。庭で言ったこと。私、ちゃんと言い直したい」
「言い直す必要はない」
「ある。ちゃんと言葉にしないと、暗号みたいに何重にも解釈できるものを残してしまう」
クラウスが少し笑った。笑った。三本の灯りの中で、はっきりと見えた。
「暗号解読者らしい理屈だな」
「そう。だから」
深呼吸。一つ。
「嫌いなふりをしていた時間が、つらかった。演技だとわかっていても胸が痛かった。それは取引とか利害とか、そういう言葉では説明できない」
声は震えなかった。今度は。
「だから。法廷が終わったら。全部終わったら。もう嫌いなふりをしなくていい世界で、あなたと」
言葉が見つからなかった。最後の一文が。
「……暗号の解けない女だな」クラウスが言った。皮肉ではなかった。声が柔らかかった。
「うるさい。今考えてるから」
「急がなくていい」
炎が静かに揺らめいている。向かい合った二人の影が壁に映っている。背中合わせではない、新しい形の影。
二週間後。法廷。
全ての嘘が終わる日が来る。
「ねえ、クラウス」
「何だ」
「カモミール茶、淹れてくれない?」
「……今か」
「今がいい」
クラウスが立ち上がった。棚からカモミールの缶を取り出す。その背中を、初めて、正面から見送った。
背中合わせの時間は終わった。
でも、その背中は知っている。革張りの椅子越しに感じていた温度。気のせいだと思っていた温度。
気のせいじゃなかった。
蝋燭が三本、明るく灯っている。冬の夜。
法廷まであと二週間。戦いは、まだ終わっていない。
でも、もう、一人じゃない。
今度こそ。




