第五章「特異点の狂宴、あるいはズボラの王」
空に開いた漆黒の穴「特異点」。それは、いい加減な時間の性質が、コーワードの放り込んだ「ゴミのような記憶」を消化不良起こした結果でした。
世界が情報の濁流に飲み込まれ、形を失っていく中で、海人は自らの存在の消滅と向き合います。
果たして、適合率ゼロの秀才と、適合率無限大のろくでなしは、このデタラメな終末を生き残れるのか。
親子の情愛と、時間への反逆が交差する、決戦の第五章です
空が割れていた。 比喩ではない。昭和と未来が混ざり合った町田市の頭上に、巨大な漆黒の「穴」が穿たれていた。そこから溢れ出すのは、形をなさない情報の奔流だ。ある場所では一九六〇年の洗濯機の音が響き、別の場所では二二〇〇年の超高層ビルが蜃気楼のように浮かんでは消える。
「……おいおい、さすがに散らかしすぎだろ、これ」
コーワードは、足元のアスファルトが液状化して七色に輝き始めるのを眺め、欠伸を噛み殺した。 彼の脳内には、今この瞬間も、数億年分の「意味のない情報」が叩き込まれている。普通の人間なら、最初の一秒で脳が沸騰し、廃人どころか灰になって消えるレベルの負荷だ。 タイムワープの不向き――それは、真面目に「時間」を理解しようとする者に課せられる死の宣告だ。だが、コーワードは違う。
『コーワード! 応答しろ! 特異点の中心圧力が、君の脳を物理的に圧縮し始めているはずだ! 逃げろ、今すぐ装置を……!』
通信機から聞こえる海人の声は、激しいノイズに埋もれていた。 海人の姿は、もはや半分以上が透けている。歴史が混濁し、彼が生まれるはずだった因果律の根底が腐り落ちようとしていた。
「逃げる? どこにだよ。右も左も『昨日』と『明日』がごっちゃになってんのにさ」
コーワードは、ポケットから最後の一本の煙草を取り出した。火をつけようとしたが、ライターから出たのは炎ではなく、小さな青い蝶の群れだった。 「……ちっ、これじゃ火もつかねえ。まあいいか」
彼は蝶を払い除け、美智子の方を向いた。 美智子は、崩壊する世界の中で立ち尽くしていた。彼女の足元からも、存在の粒子が剥がれ落ちている。彼女はこの歪んだ歴史の「核」だ。彼女が消えれば、この時間軸そのものが無へと帰す。
「海人さん……私、わかるわ。この空の穴は、私が『私らしく』いようとした報いなのね」 美智子の瞳には、恐怖ではなく、深い諦念と……そして、海人さえ知らなかった強い意志が宿っていた。 「私が消えれば、きっと元の静かな世界に戻れる。海人さんの知っている、あの子のいる世界に……」
『……母さん!』
現代の地下室で、海人が叫んだ。その声は、もはやスピーカーではなく、海人の魂そのものが時間を超えて響いているかのようだった。 『母さんが消えてまで手に入れる「正解」なんて、僕は要らない! 僕は間違っていたんだ。母さんを僕の型にはめようとしていた。……コーワード! 頼む、僕の存在なんてどうなってもいい。その人を、美智子という一人の女性を、このデタラメな世界ごと抱きしめてやってくれ!』
コーワードは、初めて少しだけ真剣な目をした。 「……お坊っちゃん。ようやくマシなセリフを吐けるようになったじゃねえか」
コーワードは歩き出した。 一歩踏み出すたびに、彼の神経に異常な進みの時間が襲いかかる。脳が「廃人になれ」と悲鳴を上げる。情報の過負荷が視神経を焼き、世界が真っ白に染まる。 だが、彼は笑った。 「廃人? 結構なことだ。俺の頭の中なんて、元から空っぽなんだよ。昨日振られた女の顔も、借金の額も、全部忘れるために生きてきたんだ。……情報のゴミ捨て場なら、ここにあるぜ!」
コーワードは両腕を広げ、空の特異点――「時間の怪物」に向かって、自分の意識を全開放した。 彼は抵抗するのをやめた。自分を維持しようとするエゴを捨てた。 ずぼらな彼は、自分自身の存在すら「まあいいか」と投げ出したのだ。
その瞬間、特異点の吸引力が逆転した。 怪物は、コーワードという「無限の空虚」を飲み込もうとして、逆にその底なしの適当さに溺れ始めた。 緻密な論理を食らうのを好む時間の怪物は、コーワードの「やる気のない、薄っぺらな記憶」という消化不良の塊に、喉を詰まらせたのだ。
「ぐっ……あ、あああああああ!」
初めて、コーワードが絶叫した。 それは苦痛ではなく、己が世界の一部に溶けていく咆哮だった。 彼の体を中心に、時間の濁流が渦を巻き、激しすぎる変化が「静寂」へと反転していく。
超高度文明のビル群が崩れ、昭和の家並みが再構成される。 だが、それは元の昭和ではない。 空飛ぶ車が少しだけ混ざり、人々の手には未来の端末が握られたままの、新しい「第三の歴史」。 「……あ」
美智子の体が、確かな質量を取り戻した。 彼女は自分の手を見つめ、それから、目の前で力なく膝をついたコーワードに駆け寄った。
「海人さん! しっかりして!」
コーワードは、うつろな目で彼女を見上げた。 その瞳からは、これまで彼を形作っていた「皮肉」も「気だるさ」も消えていた。情報の嵐に晒され、彼の記憶の大部分は、時間の怪物と共に消え去ったのだ。 今の彼は、文字通り「空っぽ」だった。
だが、彼は微かに口角を上げた。 「……お袋、さん……」
その言葉は、彼自身の言葉ではなかった。 通信機を通じて、あるいは消えゆく因果の最後の一片として、現代の海人の意識がコーワードの唇を借りて放った、魂の叫びだった。
『……大好きだ。お母さん』
その瞬間、空の穴が完全に閉じた。 眩い光が町田市を包み込み、すべての矛盾を飲み込んでいく。
現代の地下室。 海人は、自分の右手を見つめた。 ノイズは消えていた。だが、そこにあるのは彼が知っていた「自分の手」ではない。少しだけ節くれ立ち、日焼けした、別の未来を歩んできた者の手だった。
モニターには、二〇二六年の日付。 そこには、事故で亡くなったはずの美智子が、八十歳を超えてなお、元気にスマートデバイスを使いこなして料理のレシピを検索している姿が映し出されていた。 歴史は変わった。 海人は、母を救ったのだ。 ただし、彼自身の記憶と、今の世界に横たわる「ろくでなしの恩人」の犠牲を糧にして。
「……コーワード」
海人は、二度と会えないかもしれない相棒の名前を呼んだ。 画面の向こう、過去の世界で。 記憶を失い、廃人同然になりながらも、美智子が差し出したおにぎりを「……まあ、美味いな」と、相変わらず適当に食べている男の姿を、海人は涙で見つめていた。
第五章、いかがでしたでしょうか。 ついに世界崩壊の危機を、コーワードの「究極のずぼら」が救いました。 自らの記憶を身代わりにし、廃人の淵を歩きながらも任務を全うした彼の姿に、何かを感じていただけたら幸いです。 海人の願いは叶いましたが、その代償は小さくありませんでした。
もし今回の展開に胸が熱くなった方は、ぜひ感想や評価をお願いいたします! あなたの応援が、記憶を失ったコーワードを、そして新しい未来を歩む海人を支える力になります。
次回、ついに最終章。歴史改変の果てに見つけた、本当の「おかあさんの味方」とは。 どうぞ最後までお付き合いください!




