第20話 裏社会のドン
「ヒカルさん、これ見てよ。今、闇市じゃとんでもないことになってるわ」
放課後の旧校舎、第4温室跡。狐塚ランは、興奮した様子でタブレットの画面を俺に突きつけてきた。
そこに表示されていたのは、裏社会の非合法なオークションサイトらしき画面だった。出品されているのは、ボロボロになった安物のタオルや、使い古されたヘアブラシ。だが、その落札価格は、俺の目を疑うほどに跳ね上がっていた。ゼロの数が、一般的な高校生のお小遣いレベルを遥かに凌駕している。
「これ……俺が捨てたゴミじゃないか?」
「そうよ! ヒカルさんのあの強烈な『匂い』が染み付いた備品は、今や裏社会でプラチナ以上の価値があるの」
「い、いつの間に。ド変態じゃないか」
褒められたと勘違いしたランは得意げにキツネ耳を揺らした。
「ヒカルさんのフェロモンを嗅いだ獣人たちは、理性を完全に飛ばして発情の快感に溺れる。そのヤバすぎる効能が金持ちの令嬢たちの間に口コミで広がって、今や供給が全く追いついていない状態なのよ」
なるほど、俺のフェロモンは獣人社会のインフラすら狂わせる劇薬というわけだ。
だが、この状況は俺にとって都合がいい。国の非人道的な管理システムから逃れ、俺自身の自由とサロンの権利を勝ち取るためには、表の権力だけでなく、裏社会の巨大な経済力と情報網も必要不可欠だからだ。
「ラン。その闇市を取り仕切っている元締めに、直接会わせてくれないか」
「えっ、ヒカルさん本人が行くの? 危険すぎるわよ!?」
「問題ない。最強の護衛がいるからな」
俺は温室の隅で直立不動を貫いている、漆黒のタクティカルスーツに身を包んだエージェント・キャット――セリア・シャノワールを振り返った。
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その日の深夜。
セントラル特区の境界線、紫色の煙が立ち込める薄暗い歓楽街。通称『闇市』の入り口に、俺とセリアは立っていた。
「……ヒカル様。いくらあなたが私の監視システムを弄ったとはいえ、国家のエージェントである私が、このような非合法な場所に足を踏み入れるなど……密偵としてのプライドが許しません」
セリアは周囲の胡散臭い露店や、怪しげな獣人たちを睨みつけながら、ギリッと奥歯を鳴らした。
「今すぐ引き返してください。これ以上、私に国を裏切るような真似をさせないでください」
彼女の黒猫特有の耳が、不満げにピンと後ろに反り帰っている。生真面目な公務員としての理性が、必死に抵抗しているのだ。
だが、俺は彼女の弱点を完全に掌握している。
「そうか? なら、ここで帰ってもいいぞ。ただし、今日この後に予定していた『念入りな全身マッサージ』はキャンセルさせてもらうよ」
「っ……!?」
セリアの肩が、ビクンと大きく跳ねた。
「この前よりもっと深い神経節を、俺の指でじっくりとほぐしてやろうと思っていたんだがな。残念だ」
俺がわざとらしくため息をつくと、セリアの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
「あ……うぅ……にゃっ」
彼女の脳裏に、俺の手技とフェロモンによって理性を溶かされた、あの極上の快感が蘇っているのだろう。引き締まった太ももがモジモジと擦れ合い、服のスカートの裏でしなやかな尻尾が落ち着きなく揺れ始めた。
「……わ、分かりました……。護衛任務を、続行します……っ」
「素直でよろしい。帰ったら、たっぷりご褒美をあげるからな」
「はぁっ……はいっ……ヒカル様……っ」
プライド高き国家の密偵は、たった一言の『お預け』と『ご褒美』であっけなく陥落し、俺の背中をトロンとした瞳で見つめるポンコツ護衛へと成り下がっていた。
+++
ランの案内で闇市の最奥へと進み、重厚な布で覆われた巨大なテントへと足を踏み入れる。
むせ返るような香の匂いの中、豪奢なソファに深々と腰を下ろしていたのは、バク系獣人のマダム・バクだった。
「……ほう。桜華学園の人間が、自らアタシのテントに乗り込んでくるとはね。何の用だい、坊や」
マダム・バクは長いキセルを吹かしながら、冷徹な目で俺を値踏みした。裏社会のドンに相応しい、底知れない威圧感が漂っている。
「単刀直入に言います、マダム。ランが持ち込んでいる『匂いつき備品』、あれを安定供給するルートを俺が保証します」
「……なんだと?」
「俺が自ら、新品のタオルや器具に最高濃度のフェロモンを付着させ、定期的にあなたに卸す。ゴミ漁りじゃなく、完全な品質管理のもとでね。利益は莫大なものになるはずです」
俺の提案に、マダムは目を細めた。
「面白い話だが、タダってわけじゃないだろう? 何を望む?」
「あなたの持つ、裏社会の経済力と情報網です。俺が国を相手に立ち回る時、マダム、あなたの組織を俺の味方として動かしてほしい」
裏社会のドンを、自らの影響下に置く。俺の要求に、テント内の空気がピリッと張り詰めた。
「クックック……大きく出たねぇ。アタシを顎で使おうってのかい? 確かにあんたの匂いは金になるが、アタシがそこまでリスクを背負う価値が、本当にあんた自身にあるのかね?」
マダムはソファから立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄ってきた。その巨体と猛獣の気迫が、俺を見下ろす。
「いいでしょう。なら、その価値を直接証明してあげますよ」
俺は一歩も引かず、むしろマダムのパーソナルスペースへと深く踏み込んだ。
そして、片手をワキの下に挟み、俺自身の『完全なオスのフェロモン』を指先に付け、ほんの一瞬、マダムの鼻先に向かって意図的に解放した。
「っ!?」
ドクンッ、と。マダムの心臓が跳ねる音が聞こえた気がした。
「あ……ぁっ……!?」
マダム・バクの顔が、一瞬にして完熟リンゴのように朱色に染まった。
彼女はガクンと膝から崩れ落ちそうになり、慌てて俺の肩にすがりついた。常に余裕を崩さなかった彼女の瞳孔が限界まで見開き、口元からはだらしない熱い吐息が漏れ出している。
「はぁっ……はぁっ……な、なんだい、この……暴力的なまでの……甘さは……っ」
至近距離で浴びた生のフェロモンは、タオルに染み付いたものとは次元が違った。脳髄を直接鷲掴みにされ、理性を強制的に焼き切られる感覚。
裏社会を牛耳る冷徹な怪物でさえ、俺の前ではただの『発情した一匹のメス』に過ぎないのだ。
「ひぐぅっ……ダメだ、もっと……もっと嗅がせておくれ……っ! アタシの奥が、熱くて……っ」
マダムは完全に骨抜きにされ、俺の胸元に顔を埋めてすりすりと頬を擦り付け始めた。
「どうですか、マダム。俺の価値は、あなたを従わせるに足るものでしょう?」
俺が冷たく見下ろして囁くと、マダムは恍惚とした表情で何度も何度も首を縦に振った。
「あぁ……っ、あんたの……あんたの言い値で買うよ……っ! アタシの組織も、金も、全部あんたのものだ……だから、アタシを見捨てないでおくれ……っ」
最強の裏社会のドンが、俺の匂い一つで完全な忠誠を誓った瞬間だった。
こうして俺は、国家という巨大な敵に対抗するための、莫大な資金源と非合法な後ろ盾を手に入れた。
セリアのポンコツ化とマダムの陥落。下剋上へのパズルは、着実に埋まりつつあった。




