縁(2)
「何にやにやしてるんだよ」
「ふふっ、ちょっと大学時代を思い出してた」
佳にとって大切な思い出のほとんどが大学に入学して以降のものだ。それ以前には思い出となるような出来事はない。
「お前ちっさかったしな。小学生が紛れ込んだかと思った」
「なっ、あの時十五才よ。さすがに小学生はないでしょう」
「さあ、どうだったろうね」
少し大人びていたからって自分だって飛び級しての入学で、私と同じ…………
「あれ?」
「どうした」
「言おうと思ったことあったんだけど……忘れちゃった」
なんだそれと呆れたように笑われたが、何か言おうと思ったことは綺麗さっぱりなくなってしまっていた。まあいいかと考えるのを諦めたところで、斜向かいからだし巻き卵を注文する声が上がった。佳はハッとして綉を見つめる。
「はは、わかったよ。だし巻きだろ。千紗子さん、こっちにもお願いします」
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
今日ずっと心配顔だった綉が、やっと笑ってくれたと佳はホッとした。心配顔が自分のせいだと思うと心苦しかった。
「卵料理に普段全く興味示さないくせに、ここのだし巻きだけは好きだよな」
「だって、美味しいんだもの」
縁のだし巻き卵は温かい出汁を張って、たっぷりの大根おろしと釜揚げのシラスと桜えび、刻んだ大葉が盛り付けられる、常連には定番の人気メニューだ。そして、佳が反応する数少ない料理の一つ。佳はあまりに自分の食事に無頓着で、学生の頃から綉は美味しいと思うもの、好きなもの、楽しいことを一つでも増やしてほしくていろいろなところへ連れ歩いた。
「お嬢さん、知ってますねえ。こちらのだし巻き卵、おいしいですよね」
斜向かいから話しかけられる。
「はい、すみません。便乗してしまって」
「いえいえ、美味しいものは皆で頂いたらより美味しいですからね」
嬉しそうに佳が頷く。綉はそっと向かい男を観察した。五十代半ばといったところだろうか。その雰囲気同様に話し方も紳士然としていた。
「私こそ不躾に声をかけてしまってすみませんね。こちらではなかなか珍しいお若い方だったので、つい」
「いえいえ、袖触れ合うもと言いますし……ここは縁ですから。お声がけいただいて嬉しいです」
初対面のこの男に、佳は好感を持ったようだ。表情からも嬉しいと思っているのが本心だとわかる。佳が嬉しいと感じるのは綉にも嬉しいことだが……綉は幾分かの面白くなさも感じていた。
「ママ、うれしいねえ。こういう若いお客さんとここで会えるとは思ってなかったよ」
「あら、いやねえ。若い方も来てくださるのよ……でも……」
蓋付きの小ぶりな丼を二つ手に、千紗子が店の奥から戻ってきた。言葉尻の微妙な雰囲気に、皆で続きを待つ。
「最近ちょっと変なのよね……若い方の一見さんがちょこちょこ」
「連れて来られでもしなければ、なかなか若い方には入りにくいと思うけどねえ」
男の返答に綉と佳も頷いた。看板もないし、宣伝もしていない。カウンター席しかない。若者にとって入りやすい店ではないだろう。メニューなども提示されていないから価格帯も全く不明だ。
「それがね、こちらの方ではなさそうな感じで……」
「外国人ということ?」
千紗子ははっきりとは言えないのだけどと頷きながら、小丼をカウンター越しに男と綉それぞれに手渡した。
「最近はなんだか変なことも多いから、気をつけるんだよ」
「そうねえ……鈴さん、みんなやっつけちゃってよ」
千紗子に鈴さんと呼ばれた男が困ったように笑った。
「私が簡単にやっつけられるものならいいんだけどね」
「現れた失踪者たちも、なんだか不穏ですよね」
綉がそうやって会話に入り込むと思わなかったから佳は驚いた。
「そうだね。鴆国が絡んでるなんて噂も耳にするけど。そもそも鴆国が謎すぎるからなあ」