番外編17∶それでも、待ってしまった〜アンリ視点〜
なぜ――俺は、あのような約束をしてしまったのだろうか。
俺たちの敵。
最も憎むべき、ブリリアント帝国の――宰相の娘に。
近づいてはいけない。
離れなければならない。
忘れなければならない。
そう分かっているのに。
考えれば考えるほど、彼女の微笑みが脳裏に焼きついて離れない。
あの、無邪気で――どこか危うい笑顔。
そして。
薄桃色の、柔らかな唇。
触れた瞬間、まるで禁断の果実に口づけたかのような――甘い錯覚。
「……俺は……」
どうかしている。
低く呟いた、そのときだった。
コンコン、と扉を叩く音が響く。
「入れ」
短く応じると、静かに扉が開いた。
現れたのは――ナグラート皇太子、アフメトだった。
「……兄上?」
思わず声が上ずる。
突然の訪問に、アンリは目を見開いた。
アフメトは柔らかく微笑みながら、軽く肩をすくめる。
「やあ、アンリ。急にすまないね。少し気になる話を耳にして」
穏やかな口調。
だが、その瞳の奥には、わずかな鋭さが宿っていた。
(……まさか)
背筋に、冷たいものが走る。
アフメトは小さく頷いた。
「察しがいいね。その“まさか”だよ」
一歩、部屋へと踏み込む。
「君と――ブリリアント帝国宰相の娘の件だ」
息が詰まる。
「……ご存じ、でしたか」
「侍従がね。街で君たちを見かけたらしい。ずいぶんと……親しげだった、と」
穏やかな声音のまま、言葉だけが重く落ちる。
「どういうことだい?」
アンリは、しばし沈黙した。
だがやがて、堰を切ったように口を開く。
「……申し訳ありません、兄上!彼女とは――」
その言葉を、アフメトは静かに手で制した。
「いい。もう分かっている」
一瞬の間。
そして、声の調子がわずかに変わる。
「誤解しないでほしい。僕は君の恋路を咎めたいわけじゃない」
その言葉に、アンリは顔を上げる。
だが――
「これから話すのは、“国”の問題だ」
空気が、張り詰めた。
「はっきり言おう。彼女と結ばれることは不可能だ」
断言だった。
一切の余地もない。
「相手はグラヴィス宰相の娘だ。あの男が、属国の王子に娘を嫁がせると思うかい?」
「……っ……」
言葉が出ない。
「それに――僕たちの立場を、忘れたわけじゃないだろう」
静かに、しかし確実に突きつけられる現実。
「この宮殿の中でさえ、僕たちは監視されている。ブリリアント帝国の兵にな」
アンリの拳が、ぎり、と音を立てる。
「今回の件が、まだ向こうに知られていないのが救いだ。だが――」
アフメトは、わずかに目を細めた。
「一歩間違えれば、斬首だ」
その言葉は、重く、冷たく響いた。
沈黙が落ちる。
やがてアンリは、俯いたまま、絞り出すように言う。
「……分かっております。ですが……!」
(忘れられるはずがない)
喉元まで出かかったその言葉を、必死に飲み込む。
アフメトは小さく息を吐いた。
「……これは、君を思っての助言だよ」
再び、優しい兄の声音に戻る。
「少し、頭を冷やしなさい」
それだけ言うと、アフメトは踵を返した。
侍従を伴い、静かに部屋を後にする。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人、取り残される。
「……っ……」
アンリは、強く目を閉じた。
明日の約束。
行くべきか。
(……まだ、引き返せる)
行かなければいい。
忘れればいい。
それで、すべて丸く収まる。
――そのはずなのに。
翌日。
気がつけば、アンリは噴水の脇に立つ木の下にいた。
夕刻の光が、街を染めている。
(……馬鹿だな、俺は)
自嘲が、胸の奥で滲む。
だが。
足は、動かなかった。
待ってしまう。
来るはずがないと、分かっていても。
時間だけが、過ぎていく。
そして――
ジュリアは、現れなかった。




