犬が兄弟になりまして・39
鶏むね肉には低温調理という方法があると検索して知った。
が、あまりにも面倒臭いのでやる前からやめた。
だったら袋とか入れないでお湯で茹でればいいじゃんと思った航だが、パサつかせないためにやれ砂糖まぶせだ酒ふれだ片栗粉まぶせだやっぱり面倒臭い。片栗粉など男やもめが持っていると思うなよ。
ここは単純に鍋だと思って煮ればいいと野菜と一緒に鍋にぶち込んだが、得体のしれない白い泡がブクブクと立ち上がり、スーバーの肉は洗剤で洗ってあるのか!?と誤解した。灰汁というヤツだった。
汁ごとドッグフードにかけてやるとぺろりと食べて、おかわりを所望された。汁をかけるとカリカリのドッグフードが柔らかくなって飲み物になるらしい。ヤバいので次から別々に出そうと航は思った。むね肉と野菜のスープを食べてからドッグフードが出てきたら、おかわりした気分になってふたりも満足するだろう。いや、スープ先だとドッグフード食べなくなっちゃうかな、つまんないーとかおいしくないーとか言って。逆がいいかな。などとどうでもいいことを考えながら航は食器を洗った。
というわけで次の日は弁当が作れた。なんなら明日の分の鶏むね肉まで冷凍している。心に余裕があるってなんと素晴らしいことだろうと航は思った。
グラウンドもある県営の大きな公園の中の、盆地の形をした広場の坂の上のベンチに航は落ち着いた。真ん中の広場では休日になるとキャッチボールやサッカーをして遊んでいる子供が多いが、平日のこの時間は犬の散歩をしている人が多い。今どきは小型犬が多いが、たまに通る中型犬や、レアな大型犬を見ては心和む時間を過ごすのが航のたまの息抜きだった。
が。今の航には人間の群れしか見えない。郷愁が胸をよぎる。
航は頭を振り、気を取り直して弁当を開ける。ごはんと、リクとカイのスープ鍋から取り分けた野菜と鶏むね肉に醤油とマヨネーズをかけたおかず。あらかじめ醤油にマヨネーズを混ぜてからかけるという発想はないので、醤油で茶色くなった鶏むね肉にマヨネーズの黄みがかった白が張り付いている。
それでも初めての手作り弁当に航は充分満足だった。
「美味そうなもん食ってんじゃん、お兄さん。おれらにも分けてよ」
なれなれしい若い男が隣に座って来た。
「他人の島でさあ、ただでゆっくり寛ごうなんてちょっと虫がよすぎな~い?」
「ここに座った以上、みかじめ料払ってもらわないと」
ぞろぞろと後から3人男が付いてきて、前に後ろにと航を取り囲む。どいつもこいつもガラが悪く、喧嘩の跡か耳の形が変わっている。
市内でも有名な広い公園でいろんな人間が有象無象している。公共の施設なので誰がいてもおかしくはないのだが。
それにしてもベンチ座ってみかじめ料って。と航が戸惑っていると。
「なにやってんの、あんたたち。せっかくここに座ってくださった方に失礼な物言いおしでないよ」
「姐さん……!」
ぴしゃりと女に一喝され、男たちは慌てて姿勢を正した。
「すみませんね、お客さん。躾のなってないうちの若い者が」
『うちの若い者』と言われて、航は黙った。
「眺めがいいでしょう、ここ」
女は航の隣に座りながら言った。
「今の時間は年配の人が多いけど、朝は赤ちゃん連れ、夕方は学校の終わった子供たちでにぎわってね。夜暗くなったら恋人たちが愛を囁きにやってくるのさ」
女はふっと笑う。
「まるで人生を映す大舞台じゃないかい?」
そして周りを見渡す。
「ここを囲んでる木はね、全部桜なんだよ。今は枝しかないけど、3月になればぐるっと満開になってそれはそれは見事なもんさ」
女は自分が咲かせるかのごとく、自慢げに言う。
「いわばここは桟敷席。そんないい席で兄さん。タダ飯はよくないねえ」
女はにやりと笑う。
「でもあたしも鬼じゃない。お兄さん初めてで何にも知らなかったみたいだから、ここはひとつ、その弁当箱の中の肉だけで許してやるよ」
顎でクイっと弁当箱を指す女に、航はゆっくり箸を下ろした。
「ひとつお尋ねしたいんですけど」
「なんだい」
リク・カイと暮らすようになってから、航の視界というか世界は激変した。そしてその謎の視界というか世界に順応するように、あらゆるものに航は敏感になっていった。そして今もその激変している世界と対峙しているような気がする。
「あなた方は」
航は女を真剣に見つめた。
「人間ですか?それとも」
ここで間違えては、もしかしたら流血沙汰になるかもしれない。それでも航は訊かないわけにはいかない。航はゆっくりと、慎重に言葉を選んだ。
「……猫ですか?」
女たちは一瞬キョトンとすると、一斉に大笑いし始めた。そして一様に笑いが収まりかけた頃、女は涙をぬぐいながら舎弟たちに言った。
「聞いたかい、おまえたち。このお兄さん、面白いことおっしゃってるよ」
そして航を見ると言い捨てた。
「猫に決まってんだろ」
ですよね~。
天を仰ぎ見る航に、女は声を荒げた。
「つまんないこと言ってんじゃないよ!さっさと肉をよこしな!」
女の号令に、男たちが一斉に航の弁当に踊りかかろうとしたときだった。
「こらーっ!ネコちゃんたちー!」
近づいて来た若い女性の大きな声に、女たちはびくりと振り返った。
「人のお弁当に手出しちゃいけませーん!」
「まずい!ずらかれ!」
そして一斉に四方八方に遁走する。
航は驚いて声の主を見ると、どこかで会ったような女性がどこかで会ったような若い男性と走って来ていた。
男性は盆地の下へ逃げた男を追い、勢いよく坂を下ろうとした。しかしすぐに足をもつれさせ倒れた。そしてそのままゴロゴロと転がりながら下へと落ちて行く。
「アスラっ!?」
女性の悲鳴に航は思い出した。アスラだ。あの人生で一度は会いたかったチャウチャウのはずのアスラだ。
「アスラーーー!!」
盆地の下の広場と坂の間には、生い茂った草に隠れた溝がある。そしてその溝には水が溜まっている。
「アースーラーー!」
立てばいいのに。いい大人なんだから立てるでしょなどと航は思ったが、よく考えれば犬である。いや、犬である方がすぐに体制を立て直せそうだが、チャウチャウは無理なのかな?などと考えているうちにドボンと溝に落ちた。
音はすごいが深くはない溝だ。
一瞬焦った航だが、がさりと草をかき分けて顔を出したアスラにほっとする。だが、アスラは一向に上がって来なかった。
「アスラ!?」
女性と一緒に駆け寄ると、アスラは溝に落ちたまま、じっと航を見ていた。
「アスラ?おいで?」
女性が手招きすると、アスラはゆっくりと両手を広げるように挙げた。
「アスラ?」
アスラは航を見ていた。航もアスラと目が合っていることに気づいていた。
覚えているのだろうか。航は思った。抱っこさせてくれて、あまつさえなんとなく悔恨と感動を覚えてしまった自分のことを、アスラは覚えているのだろうか。そしてまた再び、その感動を航に与えてくれようとしているのだろうか。猫に絡まれ、弁当をなかなか食べられないでいる自分を、慰めようとしてくれているのだろうか。
「上れないの!?」
女性の叫びに航は、でしょうね、とため息をついた。
女性には大層恐縮されたが大丈夫ですよと言いおいて、泥だらけのスーツを着替えるために航はいったん会社へ戻った。事情を話すと「そのうち恩返しに機でも織りにくるんじゃない?」などと事務所の皆さんが笑っている。反物とかは織れそうにないが、抜け毛でチャウチャウのフエルト人形ぐらい作って来るかもしれないと航は想像した。
そしてようやく食べようと開いた弁当からは、肉が消えていた




