四章 第32話 星合夜空の弱さ
今まで迷いなく突き進んでいた夜空の足がふと止まる。
「夜空?」
俺が不思議に思い訊くと、突如俺の胸に衝撃がかかる。
「えっ、夜空?」
「動かないで」
下を向くと、俺の胸に寄りかかる夜空がいた。一度は恥ずかしくなって、突き放そうかと思ったがやめた。
「うぐっ……うっ……うっ……」
夜空の嗚咽と鼻をすする音が聞こえたからだ。大人びた夜空がこうも子供っぽい所を見せるのは、珍しい気がした。まあ、今日に限っては仕方ない話だが。
俺は突き放す代わりに、ポンと頭に手をおいて、撫でてやる。
「……要らないわよ、そんなの」
「今日はいいって。お前も頑張ったし」
「……頑張ってない。あとそういうことじゃ……」
「いや、頑張ったよ」
それは夜空を見れば分かる。強く美しく見せていたが、本当はお前も辛かったんだな。
どんなに恨んでいたとしても、やはり母親。別れを切り出すのは、葛藤があったに違いない。それは天才を自負した夜空でも、ということだ。
俺なら出来るだろうか。多分、出来ない。現在進行形で父親と不和があり、逃げ出した俺じゃこの決断は難しいはずだ。
だが夜空の姿を見て、いつか折り合いをつけないといけないとは思った。もちろんいい結果で。俺はこうはなりたくない、なるべきじゃないと夜空の姿を見て思った。
そんなことを考えている間にも、夜空は俺の元を離れない。別にそれでもいいのだが、とりあえず訊いておく。
「下では春野が待ってるぞ」
「もう少し……このままで居させて……」
「その心は?」
「あの子に、泣き顔は見せられないから」
先ほどより嗚咽は少なくなったようだが、声は弱々しいままだ。
それにしても乙女心というのはよく分からない。どうして春野には泣き顔は見せれないのに、俺には見せられるんだ。普通は逆だろうに。もしなし崩しとかなら俺が泣きそうだぞ。
その状態で数分いる。夜空はそれどころじゃないのか、何も感じてない、というか夜空の表情が分からないので反応はない。
けど俺は相当キテいた。一応、男なのでこうも女子に触れているとどうも……なんかいい匂いしてきたし……。
それでも弱ってる女子に手を出す趣味は俺にはない。強靭ともいえる自制心でその状態を保っている。むしろこうなってもどうもしない俺を褒め称えて欲しいほどだ。
だがこうして見ると、夜空は俺よりも小さくて、弱くて、脆いのだなあと実感する。
身長は女子なので夜空の方が低いし、体つきも健康的ではあるだろうが、がっしりとはしていない。なんというか、やっぱり……いかん。なんか変な気が起こってきそうだ。
その思考を停止すると、同時に夜空が俺の胸を離れる。
「もう大丈夫か?」
「ええ、もういいわ」
結局、泣き顔は拝めずじまいか。そんなことを思った。夜空はいつも通りのキリッとした表情で、目は少し泣き腫らした感じがあるが、泣いたことを知らなければ分からないものだった。
問題は俺のシャツだな。胸には少しシミみたいなものができていた。
……春野だったら、気づきそうだな。別に俺がどうこうした訳ではないからいいのだが、どこか後ろめたい。先ほど湧いた感情も含めて。
だが夜空はそんな俺にお構い無しで、ずんずん会社の外へ出ていこうとしてしまう。
はあ……。もうどうにでもなれだ。あと春野ならワンチャン、夜空に気を取られて気づかないことだってありえそうだ。
そして会社を出る。日はまだ照っている。そういえば会社に入ったのが十時頃だしな。
腕時計を見ると、大体十時半を過ぎた頃。意外に経ってないらしい。体感時間的には相当、経った気がするのだが……。
「夜空!」
外で待っていた春野がこちらに気づいて、いち早く駆け寄ってくる。まずは夜空をぎゅーと抱き締める。
「だ、大丈夫だった!?」
「ええ、おかげさまで大丈夫よ」
そう言う夜空は本当に大丈夫そうに見える。敏い春野でも気づかないほどに。
夜空は春野にされるがままになりながらも、俺に向けて口に人差し指を当てた表情を見せてくる。どうやら泣いたことはオフレコでいうことだろう。
ええ、言いませんとも。意図は読めないが、漏らした時にどんな制裁が待っているか、分からないし。
「夜空、この後どうする? 何もないなら……」
「まずは電話させてもらっていいかしら?」
もっともだな。流成さんをこれ以上、心配させる訳にはいかないだろう。春野も分かったらしく、やっと夜空を解放する。
「それで尾道くん、はい」
夜空は何も持ってない手を差し出してくる。
「え? 何? 握れってこと?」
「違うわよ。スマホ、家に置いてきたのよ」
「ああ、そっか。てかなんで家に置いてったんだよ。流成さん、心配してたぞ」
俺のスマホを夜空に渡しながら、素朴な疑問をぶつける。まあ、心配してるのはそれだけが原因じゃないが。
それに夜空は軽く笑いかけて言う。
「決心が鈍ってしまうかもしれないでしょ?」
それに頷きはしなかったが、俺も春野も納得していることだろう。実際、俺が入ってなかったら、夜空はまだ決別を切り出せていないかもしれない。
夜空はかっさらうようにスマホを取っていく。しかしそのままじゃスマホの中身は見れない。
「あ、パスワード」
「いつもの指の動きで分かってるわ」
「え……」
どこの束縛の強い女すか。次からは夜空に中身を見られないように、パスワード変えておこう。怖いし。
そんな意志を固めた俺を他所に流成さんに電話するため、夜空は遠くに行ってしまう。
そんな中、春野が俺に近付いて来る。
「夜空、なんかあった?」
「……何もないことはない」
春野に嘘を吐いてもどうせバレるので、何かあったことだけは伝えてしまおう。
「例えばどんなこと?」
「それは本人に聞いてくれ」
「ふーん……」
春野が腕を組みながら、じっと俺を見てくる。
「なんだよ。俺にも夜空にもプライバシーはあるんだ。これは仕方ない」
「分かってるよ。詳しいことは本人に訊く。でも……」
「でも?」
「夜空が全部、話してくれるとは限らないから」
春野は一瞬、悲しそうな悔しそうな表情を浮かべる。それは夜空との友人関係に、少しの憂慮があることを感じさせた。
詳しい正体が何かは分からない。春野に問題があったり、夜空に問題があることかもしれない。けど解決法だけはすぐに思い付いた。
「お前がそう思ってる内は夜空も全部、話さないと思うぞ」
「……」
「夜空もまだ不完全なんだ。友人一人にも悪戦苦闘してるかもしれない。だからお前が導いてやればいいんじゃないの?」
風が吹き抜ける。それはジメジメした夏の暑さを一瞬、忘れさせる心地よさだった。
「言ってることは分かるけど……それって、いつもの私じゃない?」
「いや、違うよ。いつものお前はもっと空気を読む。他人のスタンスを尊重する」
俺は春野に笑いかける。
けどこれに限っては違う。自分主体で行け、ということだ。
他人のスタンスの尊重。俺には到底無理な話で、これが出来ているなら、そもそも学校で長年ぼっちをやっていない。
だからこれが出来るやつは俺の目からしたら、凄いなとは思う。けどなりたくはない。
他人を尊重しすぎれば、他人にペースを譲り渡すことになる。それは時に良くないことだ。自分の意見が言えない。言えても通らない。
春野はたまにそういう気がある。本当にたまに、だが。
そんなニュアンスは簡単には言えない。言えてもグダグダになるだけだ。
ちらっと春野を見る。分かってくれるか? そんな希望を含んだ視線だったと思う。
「そっか……。確かに遠慮してたのは私かもしれないね」
うんうんと頷きながら、そんなことを呟く。分かってくれたらしい。
「別にお前が悪い訳じゃない。ただほんの少し、そう見えただけだ」
「それも分かってる。もお、ホントに不器用だなあ」
そんなことを言い合ってるうちに、夜空が連絡を終えたのだろう、こちらに戻ってくる。
「あ、終わったみたいだね」
そう言いながら春野はもう一度、夜空に駆け寄って抱き締める。
夜空は一瞬、困惑した表情を浮かべるが、すぐに穏やかな表情に変わる。春野もそれを見て、また笑顔になる。
俺はただその光景を眺めていた。美しいとは思う。
だが心はここにはなかった。はっきり言って、それどころじゃなかった。
夜空も春野も心のしこりがやっと取れた訳だ。それは喜ばしいことだ。
それに比べて俺は。ダメダメだな。本当に良くない。いつまでもウジウジと親子関係とか春野の返答に悩んで。
よく考えることは俺の長所だ。けどいつまでも考え続けることは俺の短所だ。やめないとな。
だから腹は決まった。後は言葉と行動にするだけだ。
尾道は作中で夜空を何度も『完璧』と呼んでいますが、そんな彼女にも不完全な部分があるとこの話で分かって頂けると幸いです。




