四章 第33話 朝比奈尾道とその父
夜空の依頼は完遂された。膳所との結婚話は破談になり、長年悩みの種だった月子さんとは今日、縁を切った。
夜空もある程度は肩の荷が下りたといった感じで、いつもより表情は晴れやかで、家へと帰っていった。その時、この礼はいつかするとも言っていた。
万事解決。正にその言葉が似合う幕切れ。夜空も自分で出した答え通りの結果になった。母親との決別があったとしても、後悔はしていないと信じたい。
逆に上手くいっていないのは俺だ。夜空の依頼が終わったということは、いよいよ保留にしていた春野の告白への返事をしなければならないということ。それに父親のことも。
そのどちらも実は答えを決めつつある。俺もまた夜空を見て、思う所はあったのだ。
まずその一つ目。父親との関係に蹴りをつけてしまおう。そう思い、着いたのは俺の家の前。
いつもなら何でもない玄関の扉がひどく頑強な魔王城によくある鉄扉に感じる。だが不思議と恐怖は感じなかった。あるのは夜空の姿。
ガチャリとその扉を開ける。
「た、ただいまー」
「おー。おかえりー」
リビングから聞こえるのはいつも通り呑気な朝比奈岩国、俺の父の声。
いつもならこの時点で二階の自室に行ってしまうのだが、今日は違う。もう覚悟を決めたのだ。迷わずリビングの方へ行く。
「随分と早いな。バイトだろ?」
「ああ、まあ……ちょっと早く終わったんだよ」
しまった。まだ午後二時を過ぎたところで、普通ならカフェ「三ツ星」で働いてる時間。こんな時に帰ってくるのは無用心だったかもしれない。
そんなことを思った時、あることに気づく。思わずそのことを訊く。
「あれ? お母さんは」
確か母親はいつも朝の出勤する時間に家にいたはずだ。
「ん? あー。今日は午後から仕事らしい。さっき出てった」
「ふーん」
何でもない風に言うものの、内心はかなり焦っていた。父親と話すに当たって、もし険悪になったら母親が仲介に入って欲しかったのだ。
まあ、こうなってしまっては仕方がない。そもそも俺が気を付ければいいだけだ。それくらいは出来るだろう。
何を会話の糸口としようか、そんなことを思っていると、ある物が目に入る。それはあいつの近くに置かれたスーツケースだった。
かなりのサイズで、修学旅行とかで使うよりも、全然大きい。その中にパンパンに荷物が詰められていた。
「それって何?」
俺が指差して言うと、ああ、と岩国が言う。
「少し用事があってな」
「……旅行?」
「いんや、仕事だ。今度はウィーンまで行ってくる」
目を見開く。覚悟が音を立てて崩れた感じすらする。それはつまり岩国は……。
ショックなのではない。母親との生活に戻るならそれでいい。けど覚悟を決めた手前、何も変わらないのが怖く、許せないのだ。
一応、確認すべきことがあると思い、それを訊く。
「……それって長いのか?」
「さあな。ウィーンは長くないが、次のカナダ行きは決まってるから、そのままズルズルいって、海外のホテル生活になるかもしれん」
つまり分からないということ。それがまた俺の覚悟を萎えさせるには十分だった。はあ、と頭を抱える。こうなると何も言わなくても問題がないことになる。先延ばしも有効な解決法だ。
……でも夜空の姿がちらつく。あの決然として自らで月子さんに言い放った姿が。
悩むな……。本当に分からなくなってきた。だからこんな質問が出たのはたまたまで、正に瓢箪から駒といったところだ。
「……仕事って何してんだ?」
「お? 興味あるなんて意外だな」
「別に、普通だろ」
そもそも父親の職業をずっと知らない方が異常なんだ。だからそんな嬉しそうな笑顔を見せるのはやめてくれ。
「そうだなあ……これ見てくれれば分かるだろ」
「……カメラ? カメラマンか?」
「そうだ。これ一つで世界の絶景を撮ってるんだ」
岩国が手に持っていたのは、国内メーカーの一眼レフだった。カメラに詳しくないので、良し悪しは分からないが、相当高そうだ。
「写真はいいぞ。美しい、それこそ心打たれる風景を自分のものに出来ちまうんだ」
その眼差しはどこかキラキラして少年が夢を語るようなものを感じさせた。そうか、この男はそうなのか。一つ重要なことを知れた気がする。
「お前もやったらどうだ? どうせ夢なんてないんだろ?」
「夢なら……」
その決めつけた発言に一瞬、怒りを覚えたがぐうの音も出なかった。
夢か。確かにない。特にこれといった目的もなく、生きてきた気がする。今でもそうだ。
学校に行っていないので、自覚が希薄であるが、自分はもう高校二年生に相当するする訳で、職業系高校の生徒ならあと二年立たずに仕事を始めるのだろう。
そう考えると、そろそろ進路を決めないと不甲斐なさが増す。悩み事がまた一つ増えた気がする。
「てかいつ出発するんだ?」
「今日の夕方には。先に空港に着いておきたいしな」
それまたなんて突然な。そんなことを思ったが、もしかしたら前々から話していたことなのかもしれない。ただ俺が知らなかっただけで。
そうじゃなかったら、勤労な母親が午後勤にするはずがない。つまり最後にお別れの時間を取ったわけだ。
唇を噛む。どうして俺の決断はこうも上手くいかないのか。場さえ整えばきっと……。
「ま、これでお互い、元の生活に戻るって訳だ。そっちの方がお前も楽だろ?」
岩国の底抜けに明るい声音。でも表情は相反していて、悲しそうな瞳を宿している。
その言葉に間違いはない。この男が海外で仕事をし、俺と母は二人で日本に住む。いつも通り。十六年続いてきた家族のカタチ。
それは楽かもしれない。けど正しくはない。正しいのは夜空のように家族がバラバラになることじゃない。当然、共にいることに決まっている。
だから俺は夜空のようになりたくなかったのだ。そしてその関係は受動ではどうにもならないことも知っている。
「本当にそれは楽なのかな?」
「楽だろ。お前は俺のこと、あまりいいとは思ってないみたいだし」
それを言った瞬間、岩国は沈痛な表情をする。なんで自分から傷つきにいくんだ。
だが父親にも思うところはあったらしい。まあ、家出なんてかましたら、何も思わない方がおかしいか。
俺はそれを聞いて、ホント何してるんだろうと思う。家出で要らない心配をかけて、それで自分は嫌われていると自覚させて、自分が家にいることに負い目を感じさせる。
それを全て場のせいにして。こんなのまるで。
子供のわがままみたいだ。
大人になれよ、俺。そう決めたはずだぞ。
俺の視線は真っ直ぐ父親を捉える。岩国もそれに気づき、視線が交錯する。ゆっくりと口を開く。
「それであんたは楽なのか?」
「…………」
「別に邪魔じゃない。迷惑でもない。ただ心の整理がついてないだけなんだ。だから」
「それ以上は言わなくていい。悪いのは俺の方だった。仕事を理由に一緒にいてやれなかった俺が悪いんだ」
俺の言葉を遮って岩国は頭を下げながら、謝罪の言葉を口にする。
岩国にも俺と同様、反省すべき点が思い当たったということだ。でもそれが悪いなんて一つも思わなかった。
思えば父はずっと海外から仕送りをしていた訳で、それが結果として自分の血となり肉になっている。一緒にいないことを除けば、父親の義務は十分果たしているのだ。
だから許せないのはただの俺のエゴなのだ。そんなのはもうやめよう。
「なあ」
「なんだ? 俺が悪いと……」
「また帰ってくればいいから」
「は?」
「罪悪感なんて感じる必要ない。帰りたいなら帰ってくればいい。ここはあんたの家なんだから」
ポカンと口を開く父。その姿はなんだが滑稽で笑いが込み上げて来る。
「そうか」
それでも父は俺の言葉に納得してくれる。
偉そうな言葉だとは思う。けどこれが俺の精一杯だ。心の整理は結局つかなかったし、自分の生活の中に父がいるということにも戸惑いはある。だからこれは譲歩だ。
時間がこの親子関係を解決してくれるとは思わない。けど時間の流れが助けとなって、解決することはありえる。それにじっくり考える時間は十分にあるのだから、きっと上手くいく。
そしてその日の夕方、朝比奈岩国は旅立った。母親もなんとか定時で仕事が終わったらしく、共にその姿を見送った。
今はまだギスギスした親子関係であるに違いない。
けど、次会う時は。本当の家族になっていればいいな。
今は心の底からそう思えた。
この部分から読むという方もいると思うので詳しくは言いませんがこの物語には多くの対比があります。なのでそれに注目すると、面白いかもしれません。この話もまた対比ですし。




