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四章 第30話 環春野の奥底

  全身の体力の限りを尽くして、自転車を漕ぐ。八月ももう終わるといえども、強い日差しは相も変わらず体を照らし続ける。漕ぐだけで汗が吹き出し、シャツが肌にくっつく。

  信号に捕まり、立ち止まる。風がないと、一層暑さがきつい。腕時計を見る。短針は9よりも少し後を差している。店に着くのが普段は八時半くらいなので、少し長居しすぎてしまったらしい。まあ、その分収穫はあったのだが。

 

  なぜ夜空は誰にも知らせず、急に行方不明になったのだろう。自転車を漕ぎながらそんなことを思った。

  流成さんから電話で聞かされた時はまるで分からなかったが、月子さんの会社にいると当てがついた今は、なんとなくその深い理由が分かる気がした。


  夜空が月子さんの元に行った理由は決別のため。それは間違いなさそうだ。けどこれは焦りの一手のように見える。

  膳所と俺たちが勝負をした理由は膳所や流成さんの思惑も入って複雑になった夜空と月子さんの対立構造を簡潔化するためだ。

  そしてそれは俺たちが勝つことで達成された。いわば何の憂いもなく、月子さんと()()対話できる場をお膳立てした訳だ。つまり俺的にはじっくりと親子関係を改善していけばいいという心配りだった。


  けど夜空はそれを蹴った。俺たちは夜空のためにアクションを起こしているのでそれでもいいのだが、なんとなく心にわだかまりは出てくる。

  それでも夜空が月子さんとの決別を急いだ理由。それは全て先の勝負にあるとすれば、辻褄が合うように思えた。

  おそらく内面の変化。あの勝負はただの俺らと膳所の対立じゃなかったということだ。あれを見て、何か感化されるものがあったのだろう。


  その正体は……。多分、敗北感からだろう。おおよそ俺や春野、それに膳所が自分の実力を尽くしてるのに、それに比べて自分は……とか思ってるんだろう。

  俺は天才が敗北感なんて……とは思わない。長く夜空と仕事をして気づいた。夜空は意外に打たれ弱いんだ。

  だから吸収しようとする。悪い所があると分かれば、それを伸ばそうとする。そうやって"天才"を作り上げたのだ。

  この理由については俺だから分かるという確信だけがあった。夜空と長く過ごし、どこか境遇が似ている俺だから。


  そして夜空は単身、月子さんの元へ乗り込んだのだ。

  漕ぎながら、はあ、と一つため息を吐く。嫌なことに気づいてしまったと思う。

  もし敗北感からこの行動をしたのなら、俺が夜空の元へ行くことは、その志を邪魔する酷い裏切りのように思えてしまったのだ。

  だがそんな思いとは裏腹に流成さんに教えられた月子さんの会社へ着いてしまう。


  「尾道くん!」


  遠くから声がする。周りと見ると、俺に向かって手を上げる人物がいる。環春野だ。

  一度、自転車を下り、そちらに向かって歩き出す。徐々に春野に近づいて行く。だがそこで違和感を覚えた。

  春野の服装はいつも通り。けど違う。どうしてかと思いじっーと見てみると、


  「ああ、すっぴんなのか」


  挨拶より先にそんな言葉が出てくる。


  「まあ、そうだけど……。それ気づいても、女子に言っちゃダメな言葉だから。それに単純にメイクする時間がなかっただけだから」


  「そうか。悪いな、急に呼び出して」


  「謝らなくていいよ。友達のためだし……」

 

  そう言う春野の表情は暗い。心なしかいつもより声も沈んでいるように聞こえる。理由ははっきりしていた。


  「それで……どうするの?」


  「夜空を待とう……と思ってたんだが、こんなものを手に入れてな」


  ポケットに入れてあった例のカードを取り出し、春野に見せる。


  「これは?」


  「月子さんの会社は認証されて中に入れるんだが、それ用のカード」


  「えっ! それさえあれば……。ていうからそれをどうやって……まさか盗んだ? 不法行為はダメだよ!」


  「お前は俺をどう思ってるんだ。違うよ。膳所から貰った」


  「()()()? 借りたじゃなくて?」


  「ああ、もう要らないんだとさ」


  そこで春野は押し黙る。思慮深い春野ならそれだけで分かってしまうのだろう。だがそれにはあえて触れず、訊いてくる。


  「それを使って、どうするつもり?」


  「夜空と月子さんがいる部屋まで行く……つもりだったんだが、正直それがいいことなのか分からん。待つだけでいいんじゃないかって思い始めてる」


  「……私は夜空の所に行くべきだと思う。けど尾道くんには考えがあるんだね」


  「ああ……。実はこんなことを思ったんだが」


  それから俺は先ほど自転車を漕ぎながら考えたことを春野に話す。うんうんと頷きながら、それを聞いてくれる。


  「なるほどね〜。でもだからこそ行くべきなんじゃないの?」


  「なんで……話聞いてた?」


  「聞いてたよ〜。ちょいちょい私のこと、馬鹿にする癖は直ってないね」


  「いや馬鹿にした訳じゃなく……」


  春野の答えは俺の悩みについては全く解消されていない答えだからだ。どうして夜空の志を邪魔してしまうかもしれないのに、春野は行くべきだと感じているのだろう。

  その疑問が顔に出ていたのだろうか、春野がその答えを話す。


  「夜空はね、強くないんだよ。周りが思ってる以上に。親子関係に悩んだりもするし、君がバイトに来なくなった時に悲しそうにしてたし」


  知ってる。知ってるさ。意外と夜空は打たれ弱いことを。でもいつも夜空の側にいてやることは優しさなのだろうか。俺たちがいることでその決断が鈍りはしないのか。

  そんな疑問にも春野は答えてくれる。


  「だから側にいないと。多分、今も決心がついてないままなんだよ」


  「……なんで分かる」

 

  俺はむしろもう決心がついていると思っている。だからこうやってアクションを起こしたのだと。


  「分かるよ。友達だし。それに夜空は"天才"だよ。頑張ろうと思えば、どこまでも行っちゃうんだから。母親も薙ぎ倒して」


  春野は笑顔を見せる。今日ずっと見せなかったいつも明るい笑顔を。

  そこでようやく俺は気づく。そうか春野も心配なんだ。本当の夜空なら何でもできるのに、母親に関しては何もできないことに。


  「それに尾道くんはどうしたい?」


  「俺は……」


  言葉を飲み込む。父親の言葉を思い出す。自分の思う通りにやれ。

  だがそれすらも不完全。

 

  「俺()()は夜空を助けたい」


  「……! そうだ、そうだね」


  一瞬、春野は驚いたような表情をする。だがすぐに穏やかな表情で笑う。


  「それでどっちが行く? そのカードで二人、入るのは無理そうだよね」


  「だろうな。ええっと、じゃあ……ジャンケンで?」


  「なんでそうなるの……。もう! 男らしくないなあ」


  いや、だってどっちも夜空を助けたいなら、公正に行くべきだろ。そんな俺なりの心配りなのだが。


  「はい。こんな有事に変なこと言ったペナルティね。尾道くんが行って」


  「いや、でも……」


  「いいの。夜空の側には尾道くんがいるべきだと思うから」


  俺はそのまま、春野に背中を押される。だがそれを強く返せはしなかった。あの悲しそうな表情を見て、断れるはずがなかった。

  けど最後に一度だけ。


  「本当にいいのか?」


  「うん、大丈夫。夜空を助けたいのは私も尾道くんも一緒なはずだから」


  そういう訳ではない。けどこうなったら、春野の意思は梃子でも動かないな。昔からこういうやつだから。

  そのまま背中を押され、俺は来た時と同じ表情に戻ってしまった春野を置いて、会社の中に入っていく。

  その後はもう知る由もなく、ただ俺の中で春野の心情の当てもない予想だけが燻り続けた。


  会社に入り、とりあえずしたことはビルの案内図を見ることだった。

  服装も浮いてないか、不安だったが、フロントを見渡すと私服の人が多い。どうやらを実施している会社のようだ。流石IT企業。これなら俺の私服で浮くことはないだろう。

  案内図を見ると、夜空がいそうな所として社長室と応接室に当たりをつけたが、ここは支社だ。社長室はまた別の人の部屋なのだろう。

  となると夜空は応接室にいる。膳所に言われた通り、カードをフロントのパネルに押し付ける。駅にある改札のようなものが開き、先へ進める。

  通りながら、周りを見るがそれを不審に思うような人はいなさそうだ。


  「すげぇな、このカード。膳所に感謝だ」


  そこからエレベーターで応接室のある四階まで上がる。やがて応接室と書かれたプレートを見つけ、その部屋の扉の前に立つ。

  とりあえず扉の隙間から、部屋の中を覗く。間違いなく、そこには星合夜空がいた。その実母である扇町月子と共に。

  深呼吸をする。中の会話までは聞こえないが、ピリピリとした空気感は伝わってくる。これを破るのは相当な覚悟が要るのだ。

  やがて俺はその扉を開く。軽そうな見た目に反して、ギギギと音を立てる。それがトリガーとなって二人の視線が俺に向く。

  そして夜空はただ一言、呟いた。


  「尾道くん……」

最近は珍しく毎日投稿しているのですが、なぜか隔日投稿よりも投稿することを忘れそうになる……。この現象に名前が欲しい。

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