二章 最終話 朝比奈尾道は一歩を踏み出す
日曜日に出歩くのは本当にいつぶりのことだろう。そもそも家を出ない引きこもりだと外出すること自体、少ないのだが、日曜日にしかも私事ともなると本当に前に外出した記憶がない。
ここから察せられるのは、今からの行き先が俺にとっては大事な所になるということだ。そんなつもりはないんだけどな……。
昨日と同じように自転車を飛ばす。気持ちは前よりも少しだけ軽やかだ。おそらくこれからの展開が見えているからだろう。
どうでもいいことが浮かんでは消えていくうちに目的地へ着く。
「……まさか日曜日にここに来るとはなあ」
しみじみとした声が漏れでる。目の前には見慣れた校舎がある。実際、中学校では部活はやっていたが日曜日に一度もしたことがないし。なんなら平日だってほとんどやっていなかった。
高校は言うまでもない。だからこうして日曜日に来た記憶というのは全くない。ホント成長したもんだ……。
俺は昇降口で靴を履き替え、目的地まで一直線、職員室を目指す。間もなく職員室には着くが、そこで一つ呼吸を置く。やっぱり職員室に入る時については全く成長していない。いつだって緊張と憂鬱が押し寄せる。
だが覚悟は決めた。そのためにここへ来たのだ。ここで帰ったらただの徒労だし、何より吉野先生に悪い。
意を決し、ガラリと扉を開ける。だがそこには誰もおらず、あるのは静寂だけ。……あれ? 時間、間違えたかな。
そう思い、壁掛け時計を見るが、むしろ時間通りに来ていた。
「失礼しまーす」
後れ馳せながら、そんな声を出す。どちらかと言えば声かけの目的ではあるが。
「あ、朝比奈くん来たー?」
のんびりとした声が部屋の端から聞こえてくる。どうやら見えていなかっただけらしい。俺は声がある方へ近づく。
「今日は学校に呼んですみません」
「生徒第一は教師として当然だから」
へぇ、と声が漏れかける。あんまり優秀な先生だとは思ったことはないのだが、これがわかってるあたりはポイント高いなと思う。生徒を置いてけぼりにする教師は生徒から嫌われるしな。
そんなことは口にはしないが。生意気だしな。代わりに別の言葉が出る。
「ずっと仕事してんたんですか? 教師って忙しいっすね」
俺は先生の机に散らばった書類を見て、そう言う。
「それをこの職員室見て言える?」
……。確かに他に教師はいない。だが他の教室にいるかもしれない。そんなフォローをしようとするが吉野先生の声に遮る。
「い、いいのよ。元々、終わらせないといけない仕事だし……。学年末は何かとやることがあるのよ!」
説得力ないな……。周りはどうしたんですか? 教師にもいびりってあるんだ、とか思ってしまう。
「あと私、優秀じゃないから」
いつか言った言葉。その時と同じように自虐的な感じがする。だけどそれは違う。
「優秀じゃないかもしれないですけど、出来損ないってことはないですよ」
それはきっと呪いなのだろう。教師は人に教え、導く職業だ。だから優秀でなければいけないという考えに至るのだろうが、別に生徒はあんまり気にしないだろう。
少なくとも学校での生徒の関わりを見ていると、生徒はただ話しやすいとか、親しみやすいとかで先生と関係を築いているように思える。
だから優秀でなくてもいいのだ。生徒は普通の高校生活さえ送れれば問題ないのだから。
「はあ~。なんか意外。朝比奈くんがこんなこと言うのは」
ですね。俺もあんまりこうやって踏み入ったりしない。そもそも人のテリトリーに入るのはめんどくさいし。必要最低限しかやらない。安達の件は例外中の例外。出血大サービスだ。
「そうっすね。出過ぎた真似ですけど」
「ふふ。そうかもね」
吉野先生は口元を押さえて笑う。やっぱりこの人は笑顔を増えたよな。そう思うのも出過ぎた真似かもしれない。
「それで話したいことって?」
冗談はこれくらいにということらしい。呼び出したのは俺だし、手早く終わらせた方がいいか。
「はい。実は今日は」
背筋を伸ばす。今から言うことなど先生はお見通しだろう。だがこうせずにはいられない。前、辞める時もこんな感じだったかな。
「学校を辞めに来ました」
「はあ~。やっぱりか~。なんとなく予感はしてたんだけど……」
予感か。予想じゃないのか。ここまで信じられてるのはなんだが気分がいい。だが予感通りにするのが俺だ。それに関しては期待を裏切っている。
「面と向かって言われるとショックだね」
「そんなもんですか。ひょっとしたら事務的な処理で、はい終わりってなると思いましたけど」
俺のような問題児など早く手放したいと思っても不思議ではない。むしろやっと手から離れてせいせいしてるだろうと、思うくらいには俺もひねくれている。
「そんなことも思うけどね……。ちょっと話しておきたいなって」
「それ言っちゃうんですね……」
そんなこと聞きたくないし、冗談で言ったのに本気にされてしまったみたいだ。
「それで話というのは?」
「その前に、この決定は確定なのね?」
「はい。もう親には言ってます」
これについては昨日のうちに母に話してしまった。昨日、言ったのは安達の話に影響を受けたのもあるし、迷いという退路を塞ぐためでもある。
「そう……。じゃあ今度そういう書類を渡すから親同伴でまた来てね」
一見、形式的なさっきの言葉を借りるなら事務的な話し方だが、微妙に語り口が暗い。別に先生が気にすることでもないのに。
「それで話なんだけど、これ渡しておくね」
それはA4紙が数枚積み重なったもので、見覚えがある。ていうか
「テストじゃないっすか……」
正直見たくない。テスト中は気が散って、どうもいい結果とは思えないのだ。そもそもこれ返されるのが嫌だから、早めに学校辞めようとしてるまである。
「ふふふ。まあ、見てみなさい。私も無理言って、早めに採点してもらったんだから」
そう言って手渡してくる。こうなると拒否できない。
受け取り、点数をパラパラと見る。これは……
「……意外にいいっすね。もっと悪いもんだとばかり」
もちろん点数にばらつきはあるが、平均して70点ほど。勉強にブランクがある割りには上々。なんなら苦手教科に関してもそこそこ取れている。
「びっくりしちゃった、勉強会の効果。環さんも片桐くんもいいし」
ほう。それは良かった。口ぶり的に赤点はどうやら回避出来てるっぽい。留年確定は俺だけでいいのだ。
「よく勉強してましたからね、あいつら」
始めに思っていた勉強会とは雰囲気が違い、特に会話も無く勉強会の目的である教え合いはなかったが、静寂の中で集中できたのが結果的に良かったらしい。
「朝比奈くんも努力の跡はよく見えたよ。ただニアミスがね……」
パラリと英語のテストを見ると、確かに単語のスペルミスが多い。おそらくその時の精神状態の表れなのだろう。
「はあ……すんません」
いくら俺が言い訳が得意であっても、数字を眼前に突き出されるとさすがに何もいうことができない。
「まあ、最後に君のいいところが知れて良かったよ。本当なら通知表も渡したかったけど、他の先生に頼みづらいしね」
「いいところっすか。地頭が意外にいいことですか?」
自画自賛だが、不登校明けのテストでこれは中々いいのではないだろうか。
だが吉野先生は首を振る。
「ううん。面倒見がいいところだよ」
「俺がっすか?」
思わず吹き出してしまいそうになる。俺が面倒見がいいなんてありえない。だって全部、自分のためになのだから。
「その感じだと自覚はなさそうだね」
「まあ、当然ですよ。俺はジコチューっすから」
するとふっと吉野先生は笑う。元から優しそうに見せる垂れ目には軽くしわがよっている。
「人に言われたことは自覚した方がいいよ。自分が信じられなくなった時でも、周りが作りだす自分を信じられる」
よくわからない言葉だ。今、その言葉を必要だなんて思わない。けれどいつか大切になるのではないか。そんな予感がして、言葉が脳にこびりついて離れない。
何を言えばいいかはわからない。けどこれだけは言っておこうと思う。
「先生。短い間でしたけどありがとうございました」
俺は深々と礼をする。すると先生も同じように返してきて
「うん。こちらこそ。よかったね」
そう言ってから俺は職員室を出ていく。最後の言葉に引っ掛かりを覚えながら。
よかったね。この言葉は色んな受け取り方ができる。これについては完全に想像するしかない。
俺はいつか流成さんに言われた言葉を思い出す。本当の自分を見つけておいで。もしかしたら先生の言葉は自分に対する祝福の言葉なのかもしれない。そう思える。
大切なものは未だわからない。ただ大切なものはいくつもあることに気づいただけで、何も選び取れていない。
それどころか今日は大切であったはずのものを切ってしまった。これがどう転ぶかはこれから次第だ。もしかしたら、切ってしまったものは取り返しのつかないものなのかもしれない。
だけど俺はこれを正しいと思った。理由はない。それだけでいいのではないか? 人間なんて支離滅裂な生き物なのだから。
明確な答えなどない。正答などこの世にいくらでも転がっているに違いない。実際、俺の問題も呆気なく解ける方法があるのだろう。
けれど俺が拾えるものに正答などなく、いつでも誤答ばかり。
しかし考え抜いた誤答には意味があるように思える。決して無駄にはならない。
間違えばいい。いくらでも。それをいつか後悔しなければ、間違ったっていいのだ。
……一つ選び取るとするなら、後悔したものを俺は取り戻す。もはや学校に後悔はない。ならば次、取り戻すものは――。
学校を出ると、日差しが降りかかってくる。それは街路樹を燦々と照らす。昨日まではあんなに寒かった風も、今ではちょうどいいくらいだ。
全てが穏やかだった。学校に行き始めてから、慢性的に持っていた心のわだかまりも初春の雪のように融けていく。
まさに門出にはいい日だ。風流でも何でもない俺がそう思うのだから間違いない。
「春か……」
春は別れの季節だ。実際、今年も別れがあった。
だが同時に出会いの季節でもある。俺は引きこもりに戻るだろうから、新たな人とは出会わないだろう。それでも俺は自分の知らない"何か"に出会うかもしれない。
そんなことを漠然と思いながら、俺は小さな一歩を踏み出した。
二章最終話です。この章の詳しい感想はこの後活動報告に書きますが、とりあえず長く充実した章になったなぁと思います。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます! 三章、四章と続きますのでそちらもよろしくお願いします!




