009 淫祠邪教と呼ばないで
「どうかしました?」
落ち着かないおれの様子に桜子が尋ねてきた。
「ごめん。ちょっとトイレに!」
おれは叫ぶなりバネ仕掛けのように席を立った。
ああ、これで呆れられてフラれるかもしれない。
普通の女子ならこんなみっともない男に幻滅するだろうなとはわかっているのだ。
しかしこのままではいられなかったのだ。
おれは足早に男子トイレの個室に飛びこむ。
そして便器に座ると同時に指輪をこすり、ロマを呼んだ。
「お呼び……あわらわわぁ……!!」
おれの求めに応じて即座に召喚されたロマだったが、個室のあまりの狭さに召喚が阻害され、天地逆さま、しかも頭をおれの股間に突っ込むかのような体勢で出現してしまったのだ。
「アドナイ、このような卑猥な目的でわたしを呼ぶのはやめてください!」
ロマは真顔で冷静に抗弁する。このロリメイド神使に恥じらいという感情はないらしい。
「そんなわけないだろうがっ! それよりこれはどういうことなんだよ?」
おれはロマの眼前に掌を突きつけた。大丈夫、まだ数字は《1》のままだった。
「それは前にも言ったとおりそれは信徒の数を示すもので――」
「そんなことはわかってる! 今朝の段階では《3》だったんだ。それがみるみるうちに《1》に――」
おれはトイレということもわきまえず、ついつい声が大きくなっていた。
「えっ!? それってたいへんなことですよ」
ロマはようやく状況を把握できたらしく真顔になっていた。
「だから訊いてるんだろうが?」
「わたしにも詳細はわかりませんが事態はかなり深刻なようですね」
「つまりおれの信者たちが迫害されてたりしてるのか?」
「そうですね。宗教成立の最初期、特に伝道が始まった頃に多い事象ではあります」
「どうすればいい?」
「難しいところです。へたに信仰の力が裏目になることもありますから。周囲の軋轢を無視して布教を強行したりすると多くの敵を作ることになり、その土地の権力者に逮捕されたり、なかには殉教することも多いようです」
「おい、殉教って……死ぬってことじゃ?」
「たいていの場合、拷問の末に処刑されることになります」
「そんなの駄目だろ!」
おれは上下逆転しているロマに掴みかかった。
「くっ、苦しいです、アドナイ……」
「ご、ごめん……でも、このまま放っておくわけにもいかないだろ」
おれは昂奮した自分を恥じた。
「もちろんです。一度スティグマのカウンターが進んでしまったら再びゼロに戻ることはアドナイのミッドガルトだけでなくアースガルトでの消滅をも意味しますから」
「消滅!? おれが? 待てよ、そんな話、聞いてないぞ!」
「はい、いま初めて話しましたから。でも、そういうことになっているんで納得してください」
「おれ、死ぬの?」
「信徒がゼロになれば、ですね」
ロマは静かに肯いた。
おれは便座に座ったまま頭を抱えてしまった。
死の恐怖というより、こんなところで死を迎えることになるかもしれない情けなさに嫌気がさしたのだ。
おれはなんでこんなバイトに応募してしまったのかと後悔したのだった。
「そもそもの元凶はアドナイが勝手にミッドガルトに行ってしまうからですよ。どうせ行くならもっと異世界の情勢を知るべきだったのです」
ロマは外見とは裏腹に常に冷静で機械かコンピューターのように見えるときがある。
「そんなこと言ったってさ。これからどうすべきかが大事だろ? なにかいい案はないのか?」
「ここにいても状況はわかりませんから千里眼を使ってみましょうか」
「クレアボ……なんだって?」
「千里眼です。信者の周辺の状況を俯瞰的に知ることができる神威です。降臨は1日につき30分間と制度的な時間制限がありますが千里眼なら無制限です。ただしアドナイの精神を激しく疲弊させるので物理的な限界はありますが」
「そんなのがあったのかよ! なんで教えてくれなかったんだよ?」
「徐々にチュートリアルでやっていく予定でしたので。ものには順序があるのです」
「そんなことはいいから早くやってくれ、その千里眼とやらを」
「わかりました。では、いきますよ」
ふっと意識が途切れたというよりも視覚をはじめとした感覚の回線が瞬時に切り替わったような感覚があり、目の前のトイレの扉は古風な建物を俯瞰して眺めるような景色に切り替わっていた。
木造ながら立派な建造物だった。集会場というより議場や裁判所、もしくは教会のようなものらしく多くの人間がそこに詰めかけていた。
まるで箱庭かジオラマを上から眺めるような光景だった。人が小さなミニチュアのように見える。もしくはおれが巨人になったような錯覚をおぼえた。
徐々に周りの声が聞こえ始めてきた。少しエコーがかかって聞こえた。
「それでは羊飼いヨルセの娘メリア、汝は、あくまでバーン神の声を聞き、その加護により屍食鬼を退けたと主張するのだな」
「はい。間違いありません」
大部屋の中心に立つ乙女はしっかりとした声で応えた。
彼女の名はメリアというらしい。そしておれの神名はバーンなのか?
「森と動物の神バーンは古の伝承に残るだけの神、地上から去られて久しい神だ。いまやこの地は城壁と智慧の女神クレアの統べるところとなっている。それなのに、いまさら古き神が現れるとは思えん」
「でも、わたしは神の雷鳴のごとく轟く声を直に聞きました!」
あくまでもメリアは毅然としていた。
「バーン神の名を騙る邪神の類ではなかったのか?」
「あの凛々しくもやさしい御声が邪神のはずがありません! わたしはあの御声を、御言葉を信じます」
一気に言いきったメリアは疑いを知らぬ顔を浮かべたまま天井を見上げた。
一瞬、おれと目が合った、気がした。向こうからおれは見えていないはずなのに――
「しかし、おまえは血の洗礼というの忌まわしき儀式をしているそうではないか? 生き血を全身に浴びて帰依するような存在が神とはとても信じられない。これこそ淫祠邪教に他ならぬ証拠ではないのか?」
聖職者なのか判事なのかわからぬが身分の高そうな男は理路整然とメリアを詰問してゆく。
羊飼いの娘がまともに反論することはできないことは、素人目にもわかった。
悪名高き魔女狩りのようなものが目の前で起こっている。
そして告発されているのは、おれの唯一の信者である乙女メリアなのだ。
「ロマ、なにか方法はないのか? いきなり稲妻を落として窮地を助けるとかさ。たしか日蓮上人にだってそんなことが起きたっていうじゃないか」
「ないこともないです」
「じゃあ、やってくれよ」
「だめです。神威ポイントがたりません。アドナイは無課金の神ですからポイントがないのです」
「ポイント? 課金? なんだよ、それ?」
「神威の発動はポイント消費制となっています。現在の相場ですと天変地異の雷で3分間5ポイント、神罰としての雷霆なら1発2000万ポイントですね。ちなみに1ポイント1円です」
「なんだよ、ソシャゲみたいじゃないかよ!」
「ソシャゲというものは存じませんが、そういう決まりになっていますから。そしてアドナイのポイント残高はゼロ」
「くそ、意味わかんねーぞ!」
「ちなみに先月までに神になっていましたら特典で500万ポイントプレゼントキャンペーンがあったのですが」
「ふざけやがって!」
「神威ポイントを現金で購入いただいても神威も発動できますよ」
「おれにカネなんてあるわけないだろ……」
預金残高どころか手持ちの現金でさえ既に小銭しか残っていない。
ポイントなんて買える余裕なんてない。
「あの最後の信徒が処刑されるのは時間の問題では? このままですとアドナイも消滅の危機かと」
「……そんなこと、わかってるよ」
このおれと彼女の窮地を救うためにはどうすればいいのか。
考えろ。考えろ。なにか、なにかいい手があるはずだ――
淫祠邪教【いんしじゃきょう】
邪な神をまつり、人の心を惑わす宗教のこと。
「淫祠」は邪な神をまつっている祠。「邪教」は邪な教えのこと。
本人が信仰している宗教以外の他の宗教を批判するときに使うこともある。(四字熟語辞典オンラインより)