010 聖女の奇蹟は無課金で
無課金のおれができることは自分の声というか思念を伝えることくらいだ。
それで何ができるのか。いや、何かをしないといけないのだ。
考えれば考えるほどわからなくなってきた。
「……ナイ、アドナイ?」
呼びかけられて、気がつくと再びおれは便器に座っていた。
「えっ、戻ってきた?」
おれは周りを見回すが、四方に狭い壁が迫っている。どう見ても個室トイレの壁だった。
「集中力がきれて千里眼が途切れただけですね。アドナイは最初からずっとここにいましたよ」
「そ、そうなのか……」
「それにしても一日と経たずになんで魔女狩りみたいなことになったんだよ。展開が早すぎるだろ?」
「ミッドガルトではアースガルトの約100倍の早さで時間が進んでゆくからです」
「それって、こっちの1日が向こうでは100日経ってるってことだろ?」
「時間の流れというのは均質ではないので誤差はありますが、だいたいそうなります」
「つまりこっちの世界が竜宮城みたいなものってことか――」
天界と地上では時間の流れが異なるというのは意外と理解できるものだった。
「――って待てよ! つまり、ここでうだうだしてる1分が、あっちでは100分、2時間近くも経ってるってことだろ?」
「ですね」
「もう時間ないじゃないか! あっちはもう判決がいつ出てもおかしくなさそうだったぞ。ここにいてもしょうがない。とりあえずあっちの世界に行くぞ!」
「降臨は30分しか留まれませんが妙案はあるのですか?」
「そんなものあるわけないだろ! それより今は手遅れにならないようにするだけだ。こうしているあいだにも、あっちでは3時間くらい経っちまってるぞ!」
おれは勢いよく指輪をこすった。
今度は千里眼と異なり魂ごと異世界に持っていかれるような感覚の後、次の瞬間にはメリアの横に立っていた。
幸か不幸か未だ判決は出ておらず魔女裁判は続いていた。
どうやら正確には『正邪審問会』というらしい。
千里眼での俯瞰で眺めるよりこの場は厳かな臨場感はひしひしと伝わってくる。
間近で見るメリアの憔悴ははっきりとわかった。
眉間に深い皺を刻んだ審問官の執拗な追求にすっかり疲れ果てていた。
近世における異端審問と同じく結論ありきの法廷に違いなかった。
哀れな被告を死刑にする理由は何でもいい。それこそホクロのひとつもあれば充分だ。
メリアはこの異端審問会にかけられた時点でその運命は決まっているのだ。
「この村の善良なる民よ、この者は神を冒涜する者! 我らが女神クレアを守護する地にいまさら廃れた古き神が果たして顕れようか? これは明らかにバーン神でなく邪神によるものだ。この村に禍と諍いをなす邪悪な信仰を弘めようとしているのだ。さあ、この堕落した女をどうすべきだろうか?」
審問官は法悦にでも浸ったかのか恍惚とした表情を浮かべて大音声で大衆に語りかけてゆく。
「死を!」
「その売女に死をもって贖いを!」
あちこちで粗暴な声があがる。
審問官の放つ毒気を帯びた熱気に冒されるかのように傍聴者にも審問官の信仰の狂気があっという間に伝染していったのだ。
「……狂ってやがる」
こうなったら止めようがない。
こうも民衆は正義を振りかざす弁舌によって自分の考えを左右されてしまうものなのだ。
おれは宗教の怖ろしさを痛感せずにはいられなかった。
だが同時におれはそこに死中の活を見出したのだった。
『言葉だけでそんな簡単にころころ考えが変わってしまうというのなら、おれの言葉、神であるおれの御言葉でも変えてやればいいってことだよな』
おれは心のなかでつぶやいた。
ここが正念場だ。メリアとおれの運命はこれで決まる。失敗すれば、それは死を意味する。
そう思うと今にも心臓がキリキリと痛くなってきたし、吐きそうだった。この異世界には肉体を伴っていないというのにおかしなものだ。
だが、おれは意を決してメリアの横に寄り添うように立つと、彼女の青褪めた横顔を見据え、それからゆっくりと耳元で囁いたのだった。
『我こそは汝の主にして偉大なる神バーン。汝は我が声が聞こえるか?』
メリアは身動ぎせず黙して立ったままだった。
「くそっ、聞こえないのか……」
そのときだった。メリアの瞳からつっと涙が一筋流れ落ちた。
そして静かに、小さく肯いたのだった。
おれは声をださずに快哉を叫んだ。
いける。いけるぞ。これで助かるかもしれない。おれは一縷の望みを得たのだ。
『よいか、メリアよ。これから我の言葉をこの場にいる皆に一言一句たがえず伝えるのだ――』
おれは彼女に言わせる言葉を一言一言ゆっくりと話した。
「では最後に言い残したことはないか?」
最終局面、審問官が問うとメリアは静かに話しだした。
「いまバーン神はわたしにこうおっしゃいました。いま我が言葉を聞かぬ者たちは必ず死後、地獄に堕ち永劫の業火に焚かれることになる。また我が言葉に従う者は天の国にて永遠の命を与えられる、と」
「なにをいまさらそのような神の名を騙るような偽り言を! ここは神聖なる正邪審問会の場だぞ!」
審問官はメリアを面罵する。
しかし傍聴者は審問官に同調しない。それどころか動揺を隠せず、木々の葉が風に揺れるようにざわつきはじめた。
「審問官様、あなたには神の御声が届いていないのですか?」
メリアは臆せず言い放った。
さらに周囲の動揺が波のごとく広がっていった。
審問官は信じられないという顔できょろきょろと見渡す。顔面は蒼白だ。
「神だ! バーン神の声が聞こえたぞ!」
どこかから声があがった。
「お、おれにも聞こえた……本当にバーン神なのか……?」
「奇蹟だ! 奇蹟にちがいない!」
口々に神の声が聞こえたというつぶやきが湧きあがる。
やがてその場に平伏して祈りを捧げる者や感極まって泣く者まで現れた。
「やりましたね、アドナイ。これで形勢逆転のようですね」
今まで黙ってなりゆきを見ていたロマの口が開いた。
「ああ、そうみたいだな」
おれは緊張感から解放され、どっと疲れた表情のまま苦笑してみせた。
間一髪、一か八かのおれの作戦が功を奏したのだ。
メリアの発言の直後からおれはこの場にいる全員に全身全霊で一斉に語りかけていたのだ。
ただ一言「メリアを迫害する者は死を与える」と。
おれの言葉は全員ではなかったが何人かには伝わってくれた。
どうやら運よくあの審問官にも聞こえたようだ。
魔女狩りをやるほど宗教を盲信している世界にあって神の声を聞くという奇蹟の前に抗える者はいない。
おれの言葉で、ただの言葉だけで民の心を一変させられたのだ。
これこそが神の力なのだ。
「アドナイ、そろそろ時間です」
ロマの声だ。ちょうど降臨制限の30分が経ったらしい。
おれは正邪審問会の判決を待たずに元の世界へと戻らなければならない。
しかしメリアが不利な判決を受けることはないという確信に満ちていたおれに少しも不安はなかった。
元の世界に戻るとき最後におれが見たのは、奇蹟の出現に狂奔する周囲をよそに跪き両手を合わせ静謐に祈りを捧げている気高き乙女の姿だった。
異端審問【inquisitio】
中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。
なお、魔女狩りは異端審問の形式を一部借用しているが、その性格や実施された地域・時代が異なっているため、異端審問とは別種のものと考えるのが適切である。(wikipediaより)




