第二話:淑女たちの庭へようこそ
一か月以上たってしまいましたが、やっとできました。
なんとなく忙しかったり、どう進めていったほうがいいか迷ってたりで色々と遅れましたが、これ以上悩んでもどうもならないと思ったので終わらしときました。
多分次のやつは早く投稿します。多分。
こういうの書くのって難しいですね。
アプデ(5月31日):所々ミスがあったので、直しときました。
「Mamph……」
「Mamph Mamph……」
静かな食堂に、小さな咀嚼音が響く。
……いや。
小さいというには、少し主張が強い。
「Wilhelmine」
落ち着いた女性の声。
その瞬間。
ぴたり、と動きが止まる。
スプーンを咥えたまま固まっているのは、この体の本来の持ち主――ゲオルギーネ・ヴィルヘルミーネ・フリーデリカ・フォン・ヘーゲル。
愛称はミンネ。
「…Wo hast du deinen Anstand gelassen, junge Dame?」
(「……あなた、淑女としての振る舞いはどこへ置いてきたのです?」)
ああ。
始まった。
「E-es tut mir leid, Mutter… aber es schmeckt so gut…!」
(「ご、ごめんなさいお母様……でも、美味しくて……!」)
焦ったような声。
けれど。
食べる速度は、そこまで落ちていない。
……器用ね、この子。
食卓にはシチューの香りが広がっていた。
温かそうなスープ。
柔らかく煮込まれた肉。
焼きたてのパン。
貴族の食卓らしく、どれも随分しっかりしている。
そしてミンネは、その料理を恐ろしい勢いで平らげていた。
「Du magst noch jung sein, doch bist du dennoch eine Tochter des Hauses Hegel.」
(「まだ幼いとはいえ、あなたはヘーゲル家の娘なのですよ」)
母親――フリーデリカさんが静かに言う。
厳しい声。
でも、不思議と冷たさはない。
この世界に来てから何度も聞いた声音だ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「食事は逃げません。落ち着いて食べなさい」
「は、はい……」
返事だけは素直だった。
返事だけは。
「そんなに叱らなくてもいいだろう」
今度は男性の声。
ミンネの父親、ゲオルクさんだ。
「元気なのは良いことじゃないか」
「あなたが甘やかすからこうなるのです」
「むしろ食欲旺盛で安心するがなぁ」
……なんというか。
仲が良い。
前世でも思ったけれど、家族というのはこういう些細な空気に出る。
会話の距離感とか。
視線とか。
空気の緩み方とか。
そういう部分に。
「ミンネ、パンを丸呑みしないだけ成長したんじゃない?」
軽い調子で言ったのは兄のイマヌエル。
すると。
「去年、『塩入り紅茶』を飲ませた人の発言とは思えませんね」
姉のカロリーナが即座に刺す。
「え、まだ根に持ってるの?」
「当然です」
「いや、あれは事故というか実験というか――」
「私が飲み切るまで黙って見ていましたよね?」
「観察してたんだよ」
「最低です」
「ひどいなぁ……」
食卓に笑いが漏れる。
……平和ね。
本当に。
少し前まで、「世界を救え」だの、「崩壊」だの、そんな話をしていたとは思えないくらい。
すると。
「さて」
ゲオルクさんが手を叩いた。
「そろそろ本題に入ろうか」
ミンネが顔を上げる。
「ヴィルヘルミーネ。今日は何の日か分かるかな?」
――ああ。
そういう流れ。
次の瞬間。
ミンネの感情が、一気に弾けた。
「私のお誕生日!」
食卓に拍手が広がる。
「お誕生日おめでとう」
「おめでとうございます、ヴィルヘルミーネ」
「おめでとう、ミンネ」
今日は――ミンネの誕生日だった。
五歳。
正確には、この子が生まれてから五年。
そして。
……私が、この世界に来てから五年。
「……そっか」
小さく思う。
ある意味では、私の誕生日でもあるわけだ。
もっとも。
めでたいかと言われると、微妙だけれど。
コンコン、と扉が鳴る。
「入りなさい」
ゲオルクさんが声をかけると、メイドが一礼しながら部屋へ入ってきた。
その手には、大きなケーキ。
上には六本の蝋燭が立っている。五本はヴィルヘルミーネの年齢。そして、もう一本は――「命の灯火」を意味するものらしい。
メイドは静かにケーキをミンネの前へ置く。
ミンネは目を輝かせながら、それを見つめていた。
『……五年、か』
長かったような。
短かったような。
この五年間、私はほとんど何もできなかった。
この体の外へは出られない。
物理的な干渉もできない。
できるのは、ミンネを通して世界を見ることだけ。
知識を集めること。
言葉を覚えること。
時々、興味を持ったものへ注意を向けてもらうこと。
……まあ。
ほんの少しだけ。
本当に、少しだけなら。
干渉できる感覚もあった。
けれど。
基本的には、「閉じ込められている」に近い。
行動範囲にも限界がある。
情報収集にも限界がある。
しかも――
「世界を救え」なんて無茶振り付き。
……ほんと、どうしろっていうのよ。
未だに、あの神の考えていることがよく分からない。
せめてもう少し説明があってもよかったでしょうに。
脅威の正体すら知らないのよ、こっちは。
「『最低限の支援は行います』」
不意に、「あれ」の言葉を思い出す。
……何が最低限よ。
語学習得すら実質独学だったんだけど、意思疎通って基本中の基本でしょう?
そもそも、「世界を救え」なんて言われても。
何をどうしろというのか、未だによく分からない。
この世界には、「神」がいるらしい。
少なくとも、人々はそう信じている。
しかも一柱ではない。
その中でも、この土地を治めているのは「力の神」。
身体能力や肉体的優越を司る存在なのだとか。
……意味が分からない。
いや、本当に。
でも。
この世界の人々にとっては、それが常識らしい。
そんなことを考えていると。
「……サイトウ?」
!?
突然、名前を呼ばれて意識が引き戻される。
「サイトウー?ちゃんと聞いてる?いま、わたし一人だよ?」
不意に、声。
頭の奥に響く感覚。
ミンネだ。
私は思考を切り替え、周囲を確認する。
……確かに、彼女の言う通り部屋には誰もいない。
『聞こえてるわよ』
「遅い」
むぅ、とした感情。
……また考え込みすぎてたらしい。
『ごめんなさい。で、どうしたの?』
その瞬間。
彼女の鼓動が少し早くなる。
わくわくした感情が、そのままこちらにも流れ込んできた。
「見て!」
視界が動く。
そこにあったのは――
「……わぁ」
思わず声が漏れた。
ドールハウス。
木製で、サイズも大きい。
細かい装飾まで丁寧に作られていて、外装には繊細な彫刻。
中には小さな家具まで揃っている。
窓にはガラスまで使われていた。
……これ、いくらしたの?
絶対とんでもなく高いでしょう。
「どう!?」
感情がきらきらしている。
『すごく綺麗』
素直にそう答えると。
ミンネが満面の笑みになる。
……分かりやすい子。
「見て!」
ミンネは嬉しそうに、去年プレゼントされた陶器の人形たちを取り出した。
小さなドレスと椅子、食器。
……そして始まる、「おままごと」の準備。
あ。
まずい。
これ、始まったら長いパターンだ。
しかも高確率で、私も役をやらされる。
別に嫌ではない。
五年も一緒にいれば、この子の遊びに付き合うのも慣れた。
慣れたけれど。
その前に、聞いておきたいことがある。
情報。
少しでも。
この世界について。
『ねえ、ミンネ』
「なぁに?」
ミンネは小さなテーブルを並べながら返事をする。
『最近、何か新しいこと知った?』
「新しいこと?」
考える感覚。
しばらくして。
「あ」
何か思い出したらしい。
「わたし、『ヘーレなんとか』に行くらしいの!」
……はい?
『ヘーレ?』
「えっと……ヘーレ・トホター……?」
発音がかなり怪しい。
でも。
『それ、どんな場所なの?』
「女の子がいっぱいお勉強するところ!カロリーナお姉様も行ってた!」
……学校、みたいなもの?
そういえば、カロリーナが一年くらい前に学校を卒業した、みたいな話を聞いた気がする。
となると。
貴族向けの教育機関か何かかしら。
ミンネが同じ場所へ行くということは、初等部と上級課程が一緒になっているタイプなのかもしれない。
……学校、か。
それはかなり大きい。
子供だから当然だとしても、今まで、この子の行動範囲にはかなり制限があった。
同年代との交流が増えるだけでも、情報収集の幅は一気に広がる。
しかもミンネの立場上、周囲は上流階級の子供たちになるはずだ。
人脈としても悪くない。
教師側の知識水準はまだ分からないけれど、それでも情報源としては期待できる。
仮にそこまで高度じゃなくても、本屋や図書館へ行く理由くらいにはなる。
今までは、散歩できる範囲にも限界があったから。
……これは。
かなり大きな前進かもしれない。
今まで拾えなかった情報が、一気に増える可能性がある。
『いつから行くの?』
なるべく平静を装って聞く。
「来年って言ってた」
『へえ』
……来年か。
もう少し先ね。
そう考えたところで。
ふと、違和感に気づく。
感情が妙に静かだ。
さっきまであんなに浮かれていたのに。
『……どうかしたの?』
「うー……」
どこか元気がない。
いつもなら、どんな些細なことでも全力ではしゃぐ子なのに。
しかも今日は誕生日だ。
それなのに、妙に勢いが弱い。
この子にしてはとても珍しい。
「あんまり行きたくない……」
……え?
ちょっと意外だった。
子供って、学校とか好きなものじゃないの?
いや。
前世でも嫌がる子はいたけれど。
でもミンネって、新しいもの好きだし。
もっと無邪気に喜ぶタイプだと思っていた。
『どうして?』
小さな沈黙。
それから。
「失敗したら、どうしようって」
不安や緊張、怖さなどの色んな感情が揺れる。
「お母様、ちゃんとしたレディになりなさいって言うし……」
ぽつぽつと、ミンネは続ける。
「ヘーゲル家の恥になっちゃったらどうしようって」
――。
……ああ。
なるほど。
予想外だった。
子供って、環境によっては精神的に早熟になるとは聞くけれど。
それでも、五歳の子が、ここまで家のことを考えているとは思わなかった。
もちろん、幼い頃から色々教え込まれているのは知っている。
けれど、この子はこの子なりに、「貴族の娘」として期待されていることを理解している。
そして、期待に応えられないかもしれないことを、怖がっている。
……子供って、案外ちゃんと見てるのよね、大人が思ってるより。
言葉とか、態度とか、空気とか。
特に「期待」には敏感だ。
「……サイトウ?」
気づけば、また考え込んでいたらしい。
『ごめん』
「また考えてた」
『そうね……』
小さく息を吐く。
どう言えばいいんだろう。
子供扱いしすぎるのも違う。
でも、重く言いすぎても駄目。
慎重に言葉を選ぶ必要がある。
……子供って、案外傷つくから。
大人が軽く言った一言を、ずっと覚えてたりするし。
ミンネはまだ5歳、そのうち自分なりに折り合いをつけるかもしれない。
でも、無断でこの子の体に居座っている身としては、少しくらい助けになりたいとも思う。
それに、これが原因で学校へ行けなくなる、とかは普通に困る。
情報収集的な意味でも。
『ミンネ』
「なぁに?」
『フリーデリカさんが作法を教えるのって、別に『あなたが駄目だから』じゃないと思うの』
ミンネの手が止まる。
「……違うの?」
『ええ』
少し考えてから続ける。
『ちゃんとしてる人って、それだけで周りから大事に扱われやすいのよ』
「……カロリーナお姉様みたいに?」
『まあ、そんな感じ』
カロリーナは立ち振る舞いが綺麗だ。
話し方も落ち着いているし、姿勢もいい。
感情を表に出しすぎない。
まさに「貴族のお嬢様」という感じ。
若い頃の私なら、ちょっと萎縮していたかもしれない。
……いや、今でも少し圧を感じるかも。
「でも、わたしカロリーナお姉様みたいにできない……」
ああ、そっちか。
比較。
姉妹あるあるね。
『別に、同じになる必要はないでしょ』
「……そうなの?」
『そうよ』
即答する。
『フリーデリカさんが言ってるのは、『カロリーナになれ』じゃなくて、『ちゃんとしなさい』ってことでしょ』
「うー……」
まだ少し不安そう。
『カロリーナだって、小さい頃から完璧だったわけじゃないと思うし』
……多分。
知らないけど、人間だもの。
最初から完璧なわけがない。
『みんな失敗しながら覚えるのよ』
「……ほんとに?」
『ほんと』
少し間を置いて、私は続ける。
『もし、五歳の子がちょっと作法失敗したくらいで本気で嫌ってくる人がいるなら――』
小さく肩を竦める気分になる。
『その人のほうがおかしいわ』
「……!」
感情が少し軽くなる。
分かりやすい。
『でも、作法が大事じゃないって意味じゃないわよ?』
「うわぁ……」
『何その反応』
「サイトウ、お母様みたい……」
失礼ね。
でも、ちょっと分かる。
『失敗してもいいの』
私は静かに言う。
『ちゃんと頑張ろうとしてるなら、それで十分』
ほんの少しだけの沈黙。
それから、温かく、じんわりとした感覚が繋がりを通して、流れ込む。
「……ありがと、サイトウ」
その声は小さかった。
でも。
妙に胸に残った。
……危ないわね、こういうの。
情が移る。
それは、きっと危険だ。
だって私は。
いつか、この子を裏切る可能性があるのだから。
その瞬間。
コンコン、と扉がノックされた。
「ヴィルヘルミーネ様。そろそろ奥様がお呼びです」
メイドの声だ。
「あっ、はーい!」
ミンネが慌てて返事をする。
「サイトウ!」
『なに?』
「たぶん、ヘーレ何とかのことだとおもう!」
その瞬間。
少しだけ。
空気が変わった気がした。
「はやくはやく!」
『急かさなくても逃げないわよ』
「サイトウ、おそい!」
『どう考えてもあなたの方が速いでしょうね』
当然だけど。
私は移動できない。
ミンネが動けば、一緒に景色が流れるだけだ。
廊下へ出る。
窓から差し込む光が床を照らし、磨かれた木材が淡く反射していた。
ヘーゲル家はかなり裕福だ。
最初は「貴族」という単語から、もっと堅苦しくて冷たい場所を想像していた。
でも実際は違う。
確かに格式はある。
使用人も多いし、教育も厳しい。
けれど、少なくともこの家は「家庭」としてちゃんと機能していた。
……まあ。
だから余計に厄介なのだけれど。
ミンネは階段を下り、大きな部屋へ入っていく。
そこには既に、奥様――フリーデリカさんが座っていた。
長い淡色の髪、背筋の伸びた姿勢、相変わらず綺麗な人だ。
柔らかい雰囲気ではあるのだけど、時々妙に圧がある。
多分、「貴族としての完成度」が高いのだと思う。
「ヴィルヘルミーネ」
「はい、お母様!」
ミンネがぴしっと姿勢を正す。
……うわ、すごい緊張してる。
共有感覚越しでも分かるくらいだ。
フリーデリカさんは、そんなミンネを静かに見つめる。
そして。
「来年から、あなたはヘーレレ・テヒターシューレへ通うことになります」
穏やかな声で告げた。
……正式決定、か。
ミンネの鼓動が少し速くなる。
不安や緊張、期待などの色んな感情が混ざっていた。
「はい……」
返事は小さい。
するとフリーデリカさんが、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
……意外。
もっと厳しく来るかと思ってた。
「ヘーレレ・テヒターシューレは、確かに礼儀や教養を学ぶ場所です」
フリーデリカさんは続ける。
「ですが、それだけではありません。同年代の方々と交流し、視野を広げる場所でもあります」
ミンネは静かに話を聞いていた。
「あなたはヘーゲル家の娘です。誇りを持ちなさい」
その言葉に、ミンネの体が少し強張る。
……やっぱり、そこが重いのね。
でも。
次の言葉は、少し予想外だった。
「ですが、『完璧であれ』とは言いません」
――え?
ミンネも驚いたらしく、ぴくりと反応する。
フリーデリカさんは小さく息をついた。
「あなたは時々、『失敗してはいけない』と思い込みすぎています」
……ちゃんと気づいてたんだ。
「礼儀作法は大切です。ですが、それは一朝一夕で身につくものではありません」
穏やかな声。
責めるような響きはない。
「失敗しながら覚えていけばいいのです」
ミンネが固まる。
……ああ。
多分、この子。
ちゃんと聞いたことなかったのね。
注意ばかりが記憶に残って。
「期待している」とか、「大丈夫」とか。
そういう部分を、上手く受け取れていなかった。
「……はい」
ミンネが小さく返事をする。
感情が揺れていた。
安心。
戸惑い。
少しの嬉しさ。
フリーデリカさんは、そんな娘を見ながら柔らかく微笑む。
「もちろん、努力は必要ですよ?」
「うっ……」
「ふふ」
……笑った。
今の、完全に「母親」の顔だった。
不思議な感覚になる。
前世の私は、子供を育てたことがない。
だから、こういう空気を近くで見る機会もほとんどなかった。
でも。
悪くない、と思ってしまった。
……本当に。
情が移るの、早すぎない?
「……お母様」
ミンネが小さく呟く。
フリーデリカさんは、そんな娘を見つめながら静かに頷いた。
「あなたはまだ五歳です。最初から完璧にできる子などいません」
その言葉に。
ミンネの中にあった張り詰めたものが、少しだけ緩む。
共有感覚越しにも、それが分かった。
……本当に。
もっと早く言ってあげればよかったのに。
いや、違うか。
きっとフリーデリカさんなりに、今までも伝えていたのだろう。
ただ、ミンネがうまく受け取れなかった。
それだけ。
教育って難しいわね。
「ですが」
フリーデリカさんが続ける。
「ヘーレレ・テヒターシューレには、様々な家の子女が集まります」
空気が少し引き締まった。
「中には、あなたへ好意的ではない方もいるでしょう」
……あー。
やっぱりそういう感じなのね。
完全なお嬢様学校というより、半分社交界の縮図みたいな場所か。
家格、派閥、繋がり。
そういうものが、子供の頃から始まっている。
……面倒くさ。
「ですが、必要以上に怯える必要はありません」
フリーデリカさんは落ち着いた声で言う。
「あなたはヘーゲル家の娘です。堂々としていなさい」
「……はい」
「分からないことがあれば学べばいい。失敗したなら、次から直せばいい。それだけのことです」
ミンネはこくりと頷いた。
さっきまでより、ほんの少しだけ力強く。
……なるほど。
この人、教育方針そのものはそこまで悪くない。
要求水準が高いだけだ。
しかも、恐らく本人基準ではかなり優しくしている。
問題は。
相手が五歳児だということ。
「それに」
フリーデリカさんが少しだけ微笑む。
「あなたには、家族がいますから」
――。
また、その言葉。
ミンネが嬉しそうに顔を上げる。
「……はい!」
元気な返事だった。
……家族、ね。
今日だけで二回も聞くとは思わなかった。
不意に、前世の記憶が過る。
病室。
消毒液の匂い。
白い天井。
そして――誰もいなかった部屋。
……やめましょう。
今思い出すことじゃない。
「ヴィルヘルミーネ?」
「っ、は、はい!」
ミンネが慌てて返事をする。
どうやら、また私の思考に引っ張られていたらしい。
最近少し分かってきた。
感情だけじゃない。
集中しすぎると、思考の雰囲気みたいなものまで共有される時がある。
完全に読まれているわけではない。
でも、空気は伝わる。
……これ、結構危険では?
「緊張していますか?」
フリーデリカさんが優しく尋ねる。
「……ちょっとだけ」
「ふふ。それなら普通ですよ」
柔らかい声だった。
ミンネの中の不安が、少しずつ解けていく。
その感覚が、そのままこちらへ流れ込んでくる。
……変な気分。
他人の安心感を、ここまで直接感じる経験なんて前世でもなかった。
「ヘーレレ・テヒターシューレでは、多くを学ぶことになるでしょう」
フリーデリカさんは静かに言う。
「知識だけではありません。人との関わり方も、です」
人との関わり方。
……耳が痛い。
前世の私は、その辺りを最後まで上手くやれなかった。
必要最低限。
浅い付き合い。
距離を取る。
気づけば、それが当たり前になっていた。
でも、この世界では、そうも言っていられないのかもしれない。
世界を救う。
もし本当にそんなことを求められているなら。
一人で完結する話ではないだろうから。
「だから、ちゃんと周りを見なさい」
フリーデリカさんの声が響く。
「優しい人。信用できない人。助けてくれる人。利用しようとする人」
穏やかな口調なのに、言葉は妙に現実的だった。
……さすが貴族社会。
教育が生々しい。
「そして」
少しだけ間。
「あなた自身も、『どういう人間でありたいか』を考えなさい」
その瞬間。
ミンネが、少しだけ息を呑んだ。
「……どういう、ひと?」
ミンネが小さく聞き返す。
フリーデリカさんは穏やかに頷いた。
「ええ」
そして、ゆっくりと言葉を続ける。
「優しい人になりたいのか。誇りある人になりたいのか。強い人になりたいのか」
静かな声。
けれど、その一つ一つが妙に重かった。
「人は、考え方次第で振る舞いが変わります」
ミンネは真剣な顔で話を聞いている。
……珍しい。
「もちろん、すぐに答えを出す必要はありません」
フリーデリカさんは少し微笑む。
「あなたはまだ幼いのですから」
その言葉に、ミンネが少しだけ安心したような空気を漏らした。
……うまい。
ちゃんと「考えさせる」けど、「追い込みすぎない」。
多分この人、本来はかなり教育上手だ。
ミンネが必要以上に不安を抱えていたのは、貴族社会特有の空気と、この子自身の性格の問題も大きかったのだろう。
「……お母様は?」
突然、ミンネが尋ねた。
「お母様は、どんな人になりたかったの?」
――お。
ちょっと意外だった。
ミンネ側から質問するタイプだったのね。
フリーデリカさんも少し驚いたらしく、目を瞬かせる。
それから、ふっと柔らかく笑った。
「難しい質問ですね」
少しだけ視線を遠くへ向ける。
まるで、昔を思い出すみたいに。
「若い頃の私は、『完璧な淑女』になりたいと思っていました」
……あー。
なんか分かる。
「失敗せず、常に美しく振る舞い、周囲から尊敬されるような女性に」
「なれた?」
ミンネが無邪気に聞く。
……容赦ないわね、子供。
でも。
フリーデリカさんは嫌な顔一つしなかった。
むしろ少し困ったように笑う。
「どうでしょう」
「えー?」
「少なくとも、『完璧』ではありませんでしたね」
その瞬間。
ミンネが、ぱちぱちと瞬きをした。
……意外だったのだろう。
多分この子にとって、母親は「最初から何でもできる大人」だった。
失敗する存在だなんて、ちゃんと考えたこともなかったのかもしれない。
「人は皆、失敗します」
フリーデリカさんは静かに言う。
「私も、ゲオルクさんも。もちろん、カロリーナも」
「カロリーナお姉様も?」
「ええ」
即答だった。
……なんか安心した。
いや、別にカロリーナが嫌いとかではないのだけど。
あの子、完成度が高すぎるのよね。
「だから、ヴィルヘルミーネ」
フリーデリカさんが娘を見る。
真っ直ぐに。
優しく。
「失敗を恐れすぎなくていいのです」
ミンネが黙る。
共有感覚越しに、感情が揺れていた。
安心。
嬉しさ。
それと――少しだけ。
泣きそうな気配。
……ああ。
この子、本当にずっと怖かったんだ。
「……はい」
小さな返事。
でも、今までで一番素直な声だった。
しばらく静かな時間が流れる。
窓の外では風が揺れ、木々がさらさらと音を立てていた。
そして。
「さて」
フリーデリカさんが空気を切り替えるように微笑む。
「少し真面目な話をしすぎましたね」
……確かに。
五歳児への会話としては、かなり濃かった気がする。
「今日はあなたの誕生日なのですから、もっと楽しみなさい」
「はい!」
今度の返事は、さっきよりずっと明るい。
分かりやすいくらい元気になってる。
……子供って単純。
いや、単純というより。
感情が真っ直ぐなのかもしれない。
フリーデリカさんは、そんな娘を見ながら優しく目を細める。
「プレゼントは気に入りましたか?」
「うん!ドールハウスすごかった!」
「ふふ、それは良かった」
フリーデリカさんは静かに微笑む。
……この人、本当に表情が柔らかくなったわね。
いや、私がそう感じるだけかもね。
最初の頃はもっと厳しい人かと思っていたけれど。
単純に、「ちゃんとしている人」なだけだったらしい。
「さて」
フリーデリカさんが立ち上がる。
「今日は誕生日ですし、夕食は少し特別なものにしましょうか」
その瞬間。
ミンネの感情が、一気に跳ねた。
分かりやすっ。
「ほんと!?」
「ええ」
「やったー!」
さっきまでの不安はどこへ行ったのか。
ミンネはぱっと表情を輝かせる。
……単純。
でも、その切り替えの早さに少し救われる。
子供は、ちゃんと前を向ける。
不安があっても。
失敗しても。
泣きそうになっても。
誰かに大丈夫だと言われれば、また笑える。
……少なくとも。
前世の私よりは、ずっと上手に。
「サイトウ!」
「なによ」
「ごちそうだって!」
「聞いてたわよ」
「たのしみだね!」
共有感覚越しに、わくわくした気持ちが流れ込んでくる。
……ええ、本当に。
不思議なくらいに。
私は、この時間を嫌いになれなかった。
――食事会が終わる頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
赤い光が窓から差し込み、食堂を柔らかく染めている。
「ヴィルヘルミーネ、お礼はきちんと言えましたか?」
フリーデリカ夫人の問いに、ミンネは慌てて姿勢を正した。
「はい! ありがとうございました!」
元気いっぱい。
「よろしい」
夫人は静かに頷く。
そのまま席を立つと、使用人たちも一斉に動き始めた。
後片付け。
食器の回収。
蝋燭の火を消す音。
貴族の屋敷らしく、人の動きに無駄がない。
「サイトウ、見た?」
ミンネは小さな声で問う。
『何を?』
「わたし、ちゃんとできた」
得意げ。
……はいはい。
『偉かったわね』
「えへへ」
単純。
でも、その感情がそのまま伝わってくるせいで、妙にこっちまで緩む。
危険だ。
本当に。
この「感情共有」ってやつは。
部屋へ戻る途中。
廊下の窓から、外の庭園が見えた。
広い。
整備も行き届いている。
噴水。
花壇。
白い石畳。
夕陽に照らされた景色は、少し現実感が薄かった。
……綺麗ね。
前世の日本とは、建物の雰囲気も空気も全然違う。
けれど、不思議と、もう違和感はない。
五年。
長い時間だった。
人間って案外慣れる。
どんな環境にも、異常にも。
部屋へ戻ると、使用人たちが寝る準備を進めていた。
暖炉。
寝巻き。
温かい飲み物。
その光景にも、もう慣れた。
最初の頃は驚いたものだけれど。
「貴族の生活」というのは、思った以上に人の手で支えられている。
自分でやらなくていいことが多い。
逆に言えば、「一人では生きられない」。
そういう世界でもある。
ベッドへ入ったミンネは、今日貰ったペンダントを胸元で握りしめていた。
嬉しいのだろう。
感情が温かい。
眠気も混じり始めている。
「……サイトウ」
『なに?』
「今日、楽しかった」
その言葉に。
少しだけ、胸が痛んだ。
――私は。
この子にとって、何なんだろう。
友達?
家族?
それとも。
ただの「変な声」?
『……そう』
「サイトウは?」
問い。
真っ直ぐな感情。
誤魔化しのない言葉。
『楽しかったわよ』
少しだけ間を置いて、私は答える。
『あなたが嬉しそうだったから』
「ねえ、サイトウ?」
『なに?』
「……私が学校に行ったら……」
彼女の声は次第に小さくなる。
「……それでも、一緒にいてくれるよね?」
その質問に、私は完全に不意を突かれた。
一瞬、私は答えられなかった。
私はここを離れることができない。自分の意志で離れることも、物理的に離れることもできない。
私は彼女の存在そのものに縛られてる。
それでも、彼女がそう尋ねる様子は……
実用的な質問というよりは、
むしろ恐怖のようだった。
一人になることへの恐怖。
……皮肉だ。
『……もちろん』私は静かに答えた。
『私はずっと一緒にいるわよ、ミンネ。ずっとね』
温もりが再び戻ってきた。
今度は、もっと強く。
「……よかった」
彼女の顔に、小さな笑みが広がった。
ミンネが笑う。
柔らかい感情が流れ込む。
信頼。
安心。
親愛。
……やめて。
そんな風に向けないで。
私は、そんな立派なものじゃない。
そのうち。
きっと。
あなたを傷つける。
それなのに。
「おやすみ、サイトウ」
眠たそうな声。
『ええ。おやすみ』
返事をした直後。
ミンネの意識が、ゆっくり沈んでいく。
眠り。
静かな呼吸。
共有される感覚も、少しずつ弱くなる。
そして。
一人になった瞬間。
私は、小さく息を吐いた。
『……最低ね』
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
読んでくれてありがとうございます!
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