第七十一話
『3年と2年にもバトンが渡されました! ラスト一周! 勝つのはどの学年になるのか!』
大仰な実況に煽られた観客たちの歓声が競技場に響き渡る。
「木場あああああ!」
「早く追い抜けぇえ!」
例年、体力と経験に勝る上級生がリレーでも有利である。特に3年生は最後の体育祭とあって、気合は他学年の比ではない。各競技、各クラスでのミクロな戦いにおける勝ち負けはあってもリレーで敗北することはあり得ない。上級生が総合優勝するのは当たり前、という共通認識がある。ましてや、3年生には木場がいる。戦う前から勝負は決まったようなものだ。
だと言うのに……、そのはずなのに、これは一体どういうことか。
我らが木場の前を走る1年坊主は何者だ。
アナウンスが走者の部活や運動歴を紹介している中、何故、アイツの情報は無いのか。
何故、木場が追いつけない。
柴田健星とは何だ。
得体の知れない焦燥感に3年生観客席に動揺が走る。
1年A組はそれ以上の騒ぎで、
「シバケン速ぇえええええ!」
「運動部でもないのに何であんなに走れるんだ⁉ あり得ねぇ!」
「もう100メートル超えてるのにまだ全然リードしてる……、すっげぇ、あんなに速かったんだ」
「何なら、また少し引き離してるようにも見えるぞ⁉ 会長相手に!」
「シバケンくーん、頑張れー!」
異様な盛り上がりを見せるA組につられ、1年生の他クラスの生徒も柴田を応援し始める。
「誰か知らんけど、頑張れー!」
「マジで1年が優勝ってのもあり得るぞ! 逃げきれ―!」
その雰囲気はあっという間に全体に広がる。紹介アナウンスがあった時の「誰だアイツ?」という空気はどこへやら。赤井が作り出したリードを生かし、激走する柴田に1年生全体の期待が集まる。
そんな興奮の中、自分の座席に戻ったギャル少女の流華は彼の走りを静かに見ていた。
隣で馬鹿でかい声を出す紗季に気おくれしたわけでは無い。彼の本気の走りを見るのは久しぶりで、驚きと懐かしさで感情が埋め尽くされたのだ。
「やっぱり……似合うなぁ……」
「行けええええええ! ……ん? 流華、今何か言った?」
「んーん、何でもない」
あの時、見て見ぬふりをしたのは自分も同じだった。
嘘と噂に踊らされる友人達に注意しながら、「自分はそうじゃない」と高い位置に座った気でいた。だが、彼からしてみればそんなことは関係ない。自分も他の者と同様、『離れていった多くの者』と同じだ。元々、交友があったわけではないから、離れていった、とは少し違うかもしれないが、委細を知っていながら彼の味方になることができなかった。という点で、卑劣さは変わらない。
あの日、励まそうとしたのに言葉が出てこなかった。
更衣室から出てきた少年の表情を見た時、かける言葉が見つからなかった。どんな言葉をかけても、少年が笑顔になることはない、と直感してしまった。
後日、リレーメンバーだった先輩数名に事情を聞いた。やはり、菅野が言っていたことは真実ではなく、都合よく歪められたエピソードだった。
ひとりぼっちになった彼を目で追うのが辛かった。何も悪くない彼が俯いて過ごすのを見ていられなかった。だから、
見ていられなかったから、見ないようにした。
話したこともない女子が何を言っても無駄だろう、と諦め、行動を起こさなかった。
自分は卑怯者だ。見ていられないのなら、解決に動けば良かったのに。
きっと彼が自分と同じ立場だったら、そんな真似はしない。不格好でも隣に座って寄り添い、一緒に怒っただろう。彼ならそうしたはずだ。
でも、自分にはそれができなかった。思春期故の恥ずかしさだったのか、遠慮だったのか。それとも単に周りの雰囲気に同調しただけなのか。多分、全部だと思う。
「シバケン……」
今こうして、声援を受けた彼が走っているのを見ていると、あの頃に戻った気がする。無邪気に笑って、彼の活躍を遠くから見ていたあの頃に。
でも、それで良いの?
環境が変わって良かった良かった、と。卑怯な自分を無視して、彼の隣で心の底から笑って良いの?
良いわけがない。
そう思ったからこそ、流華は今、見ているのだ。
自身の我儘さに辟易しつつ、流華は隣に座るマッシュヘアの少年に聞く。
「応援しないの?」
「いや…………」
「頑張って走ってるよ……、信じらんないよね」
「アイツは……もう二度と陸上には戻らないと思ってた。……俺たちのせいでな」
「うん、そうだね」
「初めに、お前から聞かされた時はぶっ飛ばそうかと思った。なんで引き戻してまでアイツに苦しい想いをさせるんだって」
「うん」
「でも……あの頃より、ずっと速ぇ」
「じゃあ、応援しようよ」
「あぁ……」
二人が中間に差し掛かる彼を見た。
「はっ、はっ、はっ……!」
一定のリズムで呼吸を繰り返し、柴田は走る。
肺は爆発しそうで、大腿が焼けるように痛い。
それでも、腕を振ることは止めない、腕を振り続ければ体は勝手に前へ進む。
力を緩めろ、と囁く心を殴りつけ、一歩でも前に、と地面を蹴る。
『さぁ、ラスト1周も半分に差し掛かります。先頭は依然、1年生の柴田くんで…………おぉっと、ここで! ジワリジワリと3年の木場さんが進出を開始! その差を詰めにかかります!』
景色と空気が吹っ飛び、柴田にアナウンスの声は聞こえない。
それでも、怪物の足音だけはハッキリと捉えた。
(近い……近づいてきてる……っ)
200メートル地点を過ぎた。
赤井が作ったリード。視覚的には大きなリードに見えても、タイムに直せばその差は2秒程度。木場がどのくらい速いか分からない柴田は様子見などしていられなかった。バトンを受け取った瞬間から全身全霊で走った。フィジカルエリートの木場にここまで追い付かせなかったのはその為だ。
だが、もはや振り返る余裕もない。
意識の全てを走りに注ぐ。筋繊維の一本、細胞の一つ一つまで使い尽くせ。
「ハァッ……ハァッ……!」
身体のどこかが叫びを上げ、喉からヒューヒュー音がする。
(フォームだ……! フォームを崩すな!)
イメージ上の歯車。お互いに噛み合うことで駆動するカラクリは、どれか一つでも欠けてしまえば、たちまち動作不良を引き起こす。稼働において重要なのは歯車がどれだけ頑丈で精確か、ということ。
いつも意識していた。練習で形作った精確なフォーム。それを維持する屈強な肉体。そして動かし続ける為の頑強な精神。
バラバラになりかける歯車を必死に繋ぐ。
『最終コーナーを回ります! 先頭との差は僅か! 直線勝負になるのか⁉』
(緩めるな緩めるな緩めるな緩めるな緩めるな緩めるな!)
柴田は最も内側を走行する。
もし抜かされれば、追い抜くには身体一つ分、外を回らなければならない。その僅か一歩のコストですら今の柴田には重過ぎる。
絶対に行かせてはならない。
のだが、
「悪いね」
並んでいる。
視界の端に怪物が滑り込んできた。
ぬらりと光る犬歯を見せつけながら、怪物は確かにそう言った。
『ついに、ついに木場さんが並んだああああ!』
その瞬間、ガクン、と全身が大きく傾く。
「っ……!」
体重を支え、後ろに送るはずだった右膝が落ちる。
いくつもの叫びが重なって聞こえた。1年A組の応援席は最終直線の始まりの位置にあり、お互いの顔がはっきりと分かる位置までやってきた。
「くそっ……」
右によろめいた。衝突を覚悟した刹那、そこにいるはずだった木場が前に出る。
野生の感か、それともただの偶然か。木場はタイミング良く衝突を避け、完全に柴田の前に出た。
『先頭交代! ラストスパートォォ!』
咄嗟に大きく踏み出した右足で身体を支え直したはずなのに、地面の感触が喪失する。
転ぶ。
掴んでいたものが砂になって指の隙間から流れ出てしまうような、そんな感覚に頭が真っ白に。
(もう少しなのに)
「健星!」
その叫びが、やたらとはっきり聞こえた
自分の名前なのに、そう呼ばれるのは随分久しぶりな気がした。
シバケンだのレスキューだの不本意な呼ばれ方にもすっかり慣れていた。
だから、その『懐かしい呼ばれ方』は柴田の脳に直接入って来た。。
「……はっ」
昨日から度々感じた視線や気配。
その答えがいた。
そうじゃないか、と思っていた。そうだったら良いな、とも考えた。
馬鹿馬鹿しく、都合の良い妄想でしかないと、その可能性を捨てていた。
1年A組の客席、前列中央。流華の隣。髪型も服装もまるで馴染みがない。でも顔を見ればすぐにそれだと分かった。
なぜなら、彼は幼馴染だから。
すぐそこにいる。
「明」
『木場さんの独走たいせ……いや……ね、粘る⁉ 1年、柴田くん、木場さんのラストスパートを確認し、再点火っ! 体勢を立て直す!』
「っっっっっ‼」
掴みそこなった? 砂になった? 零れてしまった?
だからどうした。
もう一度、否、何度だって拾えば良いだけだろう。
呼吸にもならない掠れた絶叫をまき散らし、痛みも苦しさも忘れ、ひたすら前へ。
ボロボロになった歯車が再び回り始める。
(ずっと憧れていた、有言実行、当たり前に期待に応える理想の自分! 友達が見てて、女の子が見てて、ここで決めたらヒーローだっていう、最っ高にカッコいいこんな展開を! 今だろ、今しかねぇだろ! ここで決めなくていつ恰好つけるんだっっっ! 走れ走れ、走れぇええええっ!)
『デッドヒートォォォ! お互い一歩も譲らない! 勝てば優勝というクラスの代表同士が全く並んで激走! 内側、木場が少し有利か⁉ 柴田苦しい! 柴田苦しい! いや、もう一度差し返す! 外側からもう一度差し返す! な、並ぶ! そして……今! 並んで……ゴールイィィン!』
柴田は走り終えた。
マラソンのようにゴールテープがあるわけでもない。いっそあっさりだった気もした。
(終わったのか……)
耳鳴りがひどい。水中みたいにボヤっとしていて全てが雑音に聞こえる。
口の中に鉄の味が広がり、息を吸えている気がしない。
日光がやたらと眩しい。ぐらぐらと視界が揺れる。
頭痛がひどく、聴覚情報も視覚情報も正しく認識、処理できない。全てが歪んでいて現実味がない。夢の中ですよ、と言われたら納得してしまいそうな程。
それでも立っていられるのは、結果が分からないからだ。
(どう……なった……?)
結末を知るまで倒れるわけにはいかない。柴田は映画のエンドロールまで見るタイプなのだ。
係の生徒やら先生などが慌ただしく動き回る。首を傾げたり、複数のストップウォッチを見比べたりしている。
「よぉ」
至近から声があった。
手が届く距離だ。そうでなければ気づかないと思ったのだろう。
木場は膝に手を付いて荒い息を押し殺し、
「……ナイスラン。最高だった!」
何とか理解できたが返事はできなかった。
一瞬でも呼吸を乱さない様、深刻に呼吸を繰り返す。
轟! とぼやけた世界の中でも分かるくらいの歓声が上がる。
結果が出たらしいことはすぐに分かった。
アナウンスが興奮気味に何かを叫んでいるが、柴田にはそれが分からない。
女子生徒が近寄ってくると、何かを差し向けてくる。
「はぁ、はぁ、はぁ……?」
『———、———! ———!』
早口で何も分からない。
それでも慎重に確かめると、差し向けられている黒い棒状のものがマイクであると分かった。コメントをを求められているらしい、と。
(勝った…………のか……?)
勝負の行方が曖昧なまま、柴田が口を開きかけた、その時
「おぐっ……」
口から出てきたのは吐息でも言葉でもなかった。
激戦の末、全校生徒719人と教師、その他大勢の一般観客が耳にしたのは、歓喜の声を上げる勝者の雄叫び、
などではなく。
少年が吐瀉物をぶちまける最悪な音だった。
「かはっ……恰好付かねぇ…………な……」
柴田はついに倒れた。




