第七十二話
意識がハッキリしたのはそれから20分ほど後になってからだった。
本日二度目の救護室。
養護教諭曰く、疲労と脱水症状、貧血が重なったのだろうということらしい。珍しく心配そうな顔をした母親に無事であることを伝え、妹と共に帰ってもらった。病院に行こうとも提案されたが、回復した今さらになって診てもらったところで、点滴を受ける程度の処置だろう。少しの休息で体調はかなり戻っていた。
戦いの果てに1年A組と柴田は勝利の栄光を手にした、らしい。
実感はまるでない。
最終コーナー辺りからの記憶が曖昧だ。それほどまでに必死だった、ということなのだろうが、表彰状もトロフィーもない為、柴田は未だに納得できていない。
バカ騒ぎするクラスメイト達、あるいは悔しがる木場の姿でも見れば勝利の実感が湧くのかもしれない。
そう思って、寝転んだ状態から体を起こすと自分の重さに驚いた。
「まだふらつくなら、やっぱり親御さんに送ってもらった方が良いんじゃない?」
即席で作ったダンボールベッドの脇に座る養護教諭が微笑みかける。
「あー……これから打ち上げなんすよ……」
「優勝の立役者が不在じゃ話にならないか。ふふ、分かりました。でもこれ以上負荷の大きい運動はしないこと。今度は本当に救急搬送されるかもよ?」
「分かりました」
立ち上がって歩き始めると、膝が思うように動かない。ただの歩行でさえままならない程の負荷がかかっていたのか、と柴田は自分のことながら呆れてしまう。
壁や椅子の背もたれを支えにしてなんとか移動する。
礼を言ってから部屋を出ると、ドアの傍に山川が立っていた。
「お前ひとりか」
「あんまり大勢で押しかけても迷惑だろって、長谷川がな~。もう大丈夫なん?」
「あぁ、少し休んだら回復した……それより、結局どうなったんだ?」
「どうなったって……そらもうお前、爆笑が3割、心配が3割、悲鳴が4割って感じである意味地獄よ!」
山川が笑いながら言った。
「おい何の話」
「え、シバケンが場ゲロした時のリアクションだろ? いやー、あれはすごかったなぁ~、競技場のスピーカー、いたる所から聞こえるゲロ音は大迫力だったぜ! 何人かは気分悪そうにしてたけど、貰いゲロした奴はいなかったな。そこは安心して良し!」
「何が安心だ! 悲鳴の割合が多数じゃねぇか! つーか聞きたいのはソレじゃねぇ! 勝負の結果だ! 俺たちは本当に優勝したのか⁉」
嫌なエピソードがまた一つ増えた気がした。
「もちろん! 皆、大興奮だぞ。長谷川なんて今にも泣きそうな顔してよ、弄られ倒されてたぜ!」
「そ、そうか……」
急激に力が抜けていく。よろめいた身体を長谷川が苦笑しながら支えた。
「お疲れさん。あと、優勝おめ」
「おう……ありがとう……」
終わった。
本当に終わったのだ。
体育祭をきっかけにクラスに馴染む。ただそれだけが目的だったのに、随分遠回りをした気がする。
自分の約16年の人生において、これほど濃い1か月は無かった。身体的疲労とストレスもかつてないほど強烈だったが、この紆余曲折がなければ今の自分は無かったようにも思える。柴田健星という少年の在り方に変わりはない。それでも、一つまみのスパイス程度の変化はあったのかもしれない。
疲労も腕の痛みも膝の震えも、今は不思議と心地良い。
「打ち上げは焼肉食べ放題だから元気出せよ。まぁ、味はイマイチけど! はははは!」
「そうだな、腹減ったわ」
「それ新しいギャグ⁉ 吐いたから胃の中が空っぽってそういうこと⁉ いやー流石やなぁ、場ゲロのショックをすぐに笑いに変えるとは……俺だったら恥ずかしくて1週間は学校行けないね」
「はっ倒すぞテメェ!」
「なはは! めちゃくちゃ元気になってんじゃん! あ、そうだ! ついでにもっと元気になる情報教えてやろうか?」
「あぁ? 何だよ」
肩にパンチを入れる拳を止め、首を傾げる。
「川合が柴田と会いたいってよ。会えるなら球場のスコアボード裏に来てほしいって言ってた」
「……マジ?」
一瞬固まった柴田に山川が耳打ちでこっそり教えてくれる。
「川合はな、結構遊んでるって話もあって……俺たち中学の男子の中じゃそこそこ有名なんだよ。顔は可愛いし胸もデカいから、ビッチでも良いってんなら、止めな」
「ひとっ走り行ってくる!」
廊下を驀進する柴田の背中があっという間に見えなくなった。
「今日一の走り出たんじゃねぇか? ……シバケンよ……」
「体育祭マジックなんて幻想に過ぎない! あるとしても、それは非日常的な熱に当てられ、認知能力が失われた状態に過ぎない! 今こそ、童貞の非力な声を結集し、マジョリティを作り出す時だ! 童貞よ立て! 悲しみを怒りに変えて! 立てよ童貞!」
生徒たちが続々とスポーツセンターから出ていく中、駐輪場横の芝生の上で長谷川が叫ぶ。
件の想い人である紗季は打ち上げ会場に先に向かうと言って、閉会式が終わるなりさっさと出て行ってしまった。呼び止めることができなかった長谷川は告白の機会を失ってしまい壊れてしまったのである。
最初は同情的だった男子も既に興味を失い、柴田を待つか、それともこのまま会場に向かおうか、という話で時間を潰す始末。
「どんなザビ家だよ。優勝できたんだから今日はもう十分じゃん? 大人しくしとけよ」
「それとこれとは別! 頑張ったのはシバケンだけじゃない! 俺たち一人一人の力が集まっての優勝なんだ! なのに……なのに、シバケンだけが美味しい思いをするのは違くないか⁉ 違うよなぁ⁉」
賛同者は0。指導者・長谷川の悲痛な叫びが空に溶けていく。
「シバケンとお前とじゃ活躍度合いに差があり過ぎんだよ……。今日の主役はシバケンなの。ほら、もう女子はほとんど行っちまったんだし、俺らも行こうぜ」
野球部たちが長谷川を説得していると、ロビーから山川が出てきた。
「省吾―、シバケンは? 合流できそうな感じ?」」
「おう、結構元気だったよ。少し遅れて来るはずー」
「んで、本人は?」
「川合が待ってるーって伝えたらすっ飛んで行ったわw」
「うはっ、マジかよ! あぁ~、そういう理由ではせやんが荒ぶってんだな。にしても、川合かぁ~……、またスゴい女に目ぇつけられたな」
「それな!」
「……? いつもなら嫉妬に狂うのは省吾の方なのに、どうしたんだよ。友だちが告白されるかもって状況、平気なの?」
「まぁな。ゲロ吐くぐらい頑張ったんだ。それくらいのご褒美があっても良いはずだ」
「ははっ、確かに~。あの胸はご褒美だわ~!」
そんな夕焼け前の午後。心地よい疲れと充足感の中でまったりとした男達の時間が流れる。
「ちょっと、山川」
それを破壊する少女が唐突に横合いから現れた。
「それ、どういう事?」
男たちは異変を瞬時に感じ取った。
低く、冷静に、それ故に恐ろしい声だった。
女性経験の少ない(無い)者でもすぐに分かった。このギャルはブチ切れている、と。
「シバケンと川合さんが、何?」
笑顔でありながら目が座っている。有無を言わせない凄みに山川は己の口の軽さを呪った。迂闊。人の多い場所で話して良い内容ではなかった。
「川合さんって、アンタらと同じ中学だったよね? 知り合い? シバケンとツーショット撮ったって話も聞いたんだけどー?」
「あ、あ~うん……、知り合いだね……。し、シバケンを呼んでくれって頼まれちゃって……」
「何でシバケンを一人にしたの?」
「え、あの……」
「今、どこにいるのかなー?」
女子と言えども自分より大きい存在を目の前にした山川は汗をダラダラ流して、流華を見上げる。
「い、いや、それはちょっと…………オッケー流華ちゃん、少し落ち着こうか! 焦る気持ちは分かるけど、今はそっとしておこう⁉ 自信もって! どうにかなった後でも流華ちゃんならどうとでも巻き返せると思うし! 今はシバケンの自由にしてあげてぇっ!」
「違う、バカ! 加納がどこにいるか分からないんでしょ⁉ 一人にさせて、もしものことがあったらどうすんの⁉」
遠くで未だに演説を続けていた長谷川も真っ青になった。
緑色の骨組みがむき出しになったスコアボード裏。林との間に砂利の道が細く続く。
緩やかなカーブをしばらく行くと、人影が見えた。
「あ、来てくれたんだぁ!」
一目で活発だと分かる少女が子犬の様にパタパタと近寄って来た。
「お、おぉ……川合さん。山川から聞いて来たんだけど……」
「うん! A組に知り合いってあんまりいなくてぇ、柴田くん倒れちゃったし……それに……直接言うのって恥ずかしいじゃん……?」
「あ、うん……はは」
「もう! 何か言ってよぉ~」
ポニーテールを揺らし、川合がシャツの裾を掴んでくる。前かがみになると緩い胸元が強調され、柴田の鼓動が跳ね上がった。
(何だろうか。三橋とは別種の緊張感がある! とてもポジティブな意味でっ!)
周囲には誰もいない。薄暗い物陰になっていて、体育祭が終わった今、わざわざこんな所まで足を運ぶ者はいないだろう。
つまり二人っきりの空間。
この後、何が起こるのかは言わずもがなである。
「そ、それで……何か用かな……?」
柴田は分かり切ったことをあえて聞いた。
こんなシチュエーション、そうそう経験できるものではない。
勝ち確、据え膳ならば、もう少し楽しんでも良かろう、と悪戯なSっ気が顔を出したのである。
「う……うん……あははっ、何か熱くない?」
川合が襟を掴んでパタパタと風を送る。
もちろん熱い。気温ではない。身体がである。より具体的に言うならば下腹部のあたりが。
川合の頬が紅潮している気がする。雰囲気に当てられているのは自分だけではないと分かる。
何か言いたげだが、所在なさげに指を掴んだりしたまま時間が経過する。
柴田の心臓も限界が近い。負荷の大きい運動を禁止されていたが、このままではマラソン並みの心拍数に突入してしまいそうだ。
いっそ、自分から言葉を引き出してしまうべきか、と戸惑っていると、
「あ~もう! やっぱり言っちゃおう!」
(く、来るのかっ⁉)
「柴田くん……あのね……伝えたいことがあるんだけど……良いかな?」
「うん…………な、何かな」
まさか、こんな青春ラブコメが自分の人生に存在するとは。
最高じゃないか体育祭マジック!
「ごめんね♡」
「え」
右腕を貫通し、右脇腹に衝撃が突き刺さった。
ドン! と辺り一面に肉を打つ鈍い音が鳴り響く。
柴田は凄まじい勢いで薙ぎ倒された。
「よぉ柴田ぁ、優勝おめでとう」
こんな大事なことを何故一瞬でも忘れていたんだろう。
砂利の地面に顔を擦りながら柴田は声を絞り出した。
「かっ……のうっ……!」
明滅する視界いっぱいに醜悪な獣の笑みがあった。




