第四十二話
気がつくと目の前は真っ暗闇だった。
何も見えない。
目は開けているつもりなのだが、視界には闇が広がっていた。
――ここはどこだ。
体を動かそうとするが、どうにも自由が利かない。
手を。
足を。
頭を――。
必死に動かそうとするが、なにかに押さえつけられているかのようにうまく体が動かせないでいた。
――私はどこでなにをしていたのだったか。
暗闇の中で私は記憶を辿った。
私は。
そうだ。
私はショッピングモールのトイレにいたはずだ。
そこは女性専用のトイレだった。扉が五つ、いや六つだったか。
そこで出会った。
違う。
見つけたのだ。
捜していた少女を。
私に話しかけてきたあの少女。
ヒトに話しかけられるなど初めてのことで、私は動揺した――はずだ。
だから私は少女を捜したのだ。
そしてあの場所で見つけた。
そこに――誰かがいたような気がする。
誰だったか――。
こつんと鼻先になにかが当たった。小さくて丸く、そしてとても柔らかい。
私はあの場所からどうやってここへ来たんだろう。なにも見えないしなにも聞こえないから、確認しようもない。
そこにいたのは――白いコートを着た男だった。
名前はなんだっただろう。
とにかく、私はその男から少女を救った――はずだ。
そうだ。
私はヒトを救った。
偶然だったが、ヒトを救えた。私の姿を見てしまった、見てしまったがために死ぬ運命にあったヒトを救えたのだ。
一刻も早くそのことを伝えたかった。
ヒトを救うことは不可能ではないことを教えたかった。
あの男に。
――オサムだ。
何十年もその方法を探し続けていた男に伝えてやりたかった。
ヒトを救えるということを。
ガクンッ。
なにかが大きく揺れた。
揺れは次第に大きくなり、なにかを吸い込むような音が聞こえる。
その吸い込む音が少しづつ私に近づいてきた。
――一体何が起きているのだ。
目が覚めたら世界に放り出され、ただひたすら徘徊し、ヒトを助けたかと思えば、意識を失い、暗闇の中に閉じ込められたと思ったら今度は。
なにかに吸い込まれていく。
全く意味がわからない。
私の存在とはなんだったのだ。
白いコートたちとはどういう存在だったのだろう。
また新しい好奇心がこんなところでも湧いてきた。
しかし、そんなものはもうどうでもよくなった。
また意識が――遠のいていく。
次は私をどこへ連れて行こうというのだ。
遠のく意識の中で闇が少しづつ晴れていく。
光が。
近づいて――そして。
「――とう」
声が聞こえる。
光が強すぎてなにも見えない。自分の目が開いているのかもわからない。
「――めでとう」
――なんだ? 何と言ったんだ。
「おめでとう」
――なんの話をしているんだ。私に話しかけているのか?
光の中にぼんやりと人影が見えた。私の方に顔を近づけてまじまじとこちらを覗きこんでいる。
はっきりとは見えないが、どこかで見た顔だ。
あんたは。
ハリーだ。
爽やかな青年だ。よく覚えている。ヒトを観察するのが楽しみだった男。ヒトの生と死に興味を持っていた男だ。
こんなところで何をしているんだ。
そんなに間近で私を見ているが、私の顔を忘れてしまったのか。
そういえばルイはどこへ行ったのだろう。
ショッピングセンターで別れてからすっかり忘れてしまっていた。あの少女とあの男――トムだ。彼らといろいろあったせいでルイのことを失念してしまっていた。
――今度会ったら謝らないといけないな。
オサムにも会いたい。会っていろいろな話をしたい。
私はまだあの世界のことを――知りたい。
だが。
どんどん意識が――遠のいていく。
――私は消えるのか。
光に包まれながら、私は自分自身の消滅を悟った。少女を助けたときとは違う意識の遠のき方だった。
あのときは意識が闇へ。
今回は光へ向かっている。
ハリーがこちらに向かって笑みを浮かべた。
――残念だがさよならだ。
意識の最後の一片が消えようとしたそのときだった。
「おめでとう――さやか」
聞き覚えのある名前だ。
光の中にうっすらと女の顔が浮かんだ。
――ああ。君は――。
私は彼女を知っている。
記憶も意識も虚ろになりかけているが、私には分かる。
女の顔には面影があった。
私の知っているあの少女――。
――よかった。
――君は生き延びてくれたんだね。
消えていくというのに恐怖はなかった。
むしろ幸福とさえ感じる。
できればオサムに教えてやりたかった。
――私はあの世界から解放されたよ、と。
そして優しい目で私を見つめる女が穏やかに言った。
「ありがとう――」
その言葉を聞き終える前に。
私は――。
消滅した。




