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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第二十七話

 有馬医院が産婦人科。

 全く気が付かなかった。

 気が付かなかったというより興味がなかったというべきか。

 病院という場所に縁のない私にとって、そこがなにを専門に治療しているかなどどうでもいいことだ。有馬医院という名称だけ分かっていればそれでいい。それだけでことが足りるのだ。

「じゃあ、オサムが助けられなかった少女というのも――」

 ここで妊娠したと診断されました、と青年は言った。

「きっとあなたが私を見かけたのは入院中の妊婦さんが産気づいたんでしょう。生命の誕生というのは素晴らしいですよ。我々みたいにこの姿のまま、ポンと世界に生まれることのなんと味気ないこと」

 納得だ。きっとあのときの救急車もどこからか妊婦を運んできたのだろう。

 彼はここで死ではなく生を観察していたのだ。

「あんたの楽しみはよく分かったよ。で、さっきのいなくなるって話なんだが――」

 私の言葉を遮るように、青年は掌をこちらに向けた。

「せっかくだから中で話しましょう」

 外は夜がやって来ていた。

 青年との会話に夢中で、今日の時間の移り変わりはやけに早く感じた。

 断る理由もない私は青年に連れられて再び有馬医院へと足を踏み入れた。

 そのとき。

 何気なく送った視線の先。

 十五メートルほど先に。

 トムの姿が見えたような気がした。


 有馬医院内は、先日やってきた人同様静まり返っていた。

 この間やってきた日と違うのはまだ閉院間もないためか看護師がひとり、受付の中でなにやら書類作業をしている姿があった。

 慣れている青年はどんどん先へ行き、二階へと上がっていった。

「オサムのところに行くのか」

「まさか。言ったところで会話になりませんからね。彼は完全に世捨て人ですよ」

「私は会話したよ。ほんの少しだけれど」

「珍しいことですよ、それは。きっとそういう状況だったんでしょうね」

 どういう状況なんだ。

 確かルイがここへ来たときも、オサムは「状況が違った」と言っていたか。

 私のときとルイのとき。共通項があるとすればそれはなんだ。

 そんなことを考えている間も青年はまるで我が家のように先を行く。

「おい、そろそろあんたの名前を教えてくれよ」

 青年は閉ざされた扉を擦りぬけ、中へと入っていった。仕方なく私も彼に続く。

「名前――ですか。なんと付けたかなあ名前。自己紹介なんて随分してないからなあ――」

 そう言いながら、青年の表情が一気に崩れた。

「見てください。素晴らしいでしょ。新しい生命たちが並んでる」

 その部屋は小さな箱のようなものがずらりと並べられた部屋だった。

 その箱のひとつひとつに小さな生物がもぞもぞと動いている。

「赤ん坊か」

「生命です。我々が経験し得なかった時間をこの子たちは生きている。不思議なものです」

 そのひとつひとつを眺めながら、青年は目を細めた。

 私にとってはヒトの小さいものでしかない。彼には悪いが子犬や子猫となんら変わらない生き物だ。生殖行動もない私には赤ん坊などなんの意味も持たない。こんなものを眺めているよりも、早く話を先に進めたい。

 知るべきことを知る――それが私にとっての楽しみなのだ。

「さっさと話を続けよう。こんなモノ、私にはどうでもいいものだ」

「ヒトの心は持っていないようですね。こんなに可愛らしいのに」

 残念そうな顔をする青年を尻目に、私は赤ん坊だらけの部屋を出た。

 部屋の向かいにあるソファーに腰を降ろし、青年を待った。青年は名残惜しそうに赤ん坊の入った箱を眺めている。

 ――ヒトの心、ね。

 この世界でそんなものを持ち合せている者が何人いるのだ。

 オサムはかつてそれを持っていたために絶望し、ここの屋上に留まっているのだろう。

 あの坊主の男もそんなものを持っていたから、あんな場所で寝転ぶ羽目になったのだろう。

 それならば。

 ヒトの心など私に必要ない。

 愛情知れば憎しみが生まれる。

 情けを知れば弱さが生まれる。

 この世界においてそんな物は必要ない。

 ただひたすら歩き、見て、目的のない毎日を過ごすだけではないか。

 だから。

 それが嫌だから。

 私はひたすら知識を得たいのだ。

 知識は無限だ。

 ひとつ知ればまた次の疑問が湧く。

 それだけでこの漫然とした世界を充実したものに変えてくれる。

 青年がようやく部屋から出てきた。

 ――さあ、早く話の続きを始めよう。


「ハリー」

 私の正面に立った青年はそう言った。

「なんだって?」

「だから名前ですよ。訊いたでしょう。思い出しました。私はハリーです」

「ところでハリー。あんたはこちらの住人がいなくなると言っていたが、私が聞いた話と少し違う」

 へぇ、とハリーは興味深そうに眉を上げた。

 この男は知らないのか。

 噂のことを。

「私はある噂を聞いたんだよ。ここの白いコートの連中が『消されている』とね」

 消されている、とハリーはくり返した。

「それは初耳だ。実に興味深い。消されるという噂もそうですが、ここの住人が他人とそんな噂話をしていることも驚きだ。なにしろ我々のように、こう長話をする人種がそう多いわけじゃあないのに」

 聞かせてくださいその話、とハリーは子供が玩具をねだるような顔をしてみせた。

 実際、私もそういう噂があるというだけで具体的な内容は知らない。ただ、もしもそんな他人を『消せる』ようなことがあるのだろうか。

「詳しい話は知らないよ。ただある人物が他人を消しているんではないかという疑いがあるらしい。そんな方法があるのか知らないけどね」

 ふぅん、とハリーは唸った。

「どうなんだろうなあ。消える奴もいればいなくなる奴もいる。これはイコールなんだろうか。姿を見なくなるという現象は同じなわけで――いや、だけれど――」

「お、おい」

 ハリーはひとりでブツブツ呟きこめかみを人差し指で抑えながら廊下を進み、階段を降りて行ってしまった。私はひとり取り残され、ソファーに腰を降ろしたまま消えていくハリーの背中を眺めていた。

「変わった奴だ」

 立ち上がった私は廊下先の階段を見る。

 上と下。どちらに行くか。

 ついでだ。

 ――オサムに会いに行ってみるか。

 話をしてもらえる保証はないが、ハリーと会ったことを知ればもっと打ち解けられるかもしれない。

 それにこの世界からの解放についても訊いてみたい。

 とにかく私の欲しいものは知識だ。

 学問の知識ではない。

 この世界について――。

 私はハリーとは逆に上に向かって階段を進んだ。

 ドアの向こうから赤ん坊の泣き声が聞こえた。

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