第二十八話
屋上へ出ると、夜空には星が出ていた。
それまであまり空を見上げることなどなかったが、今夜はやけに空が澄んで見えた。
オサムは先日と同じようにこちらに背を向けて建物の縁に立ち、遠くを眺めていた。白いロングコートは地面に向かって真っすぐ伸びたまま、ピクリとも動かない。ビル風がコートを翻しているのならまだサマにもなるのだが、なんとも味気ない光景だ。風すらも私たちには干渉しないのだ。
屋上の柵の向こうにいるオサムに近づく。この前来たときは気が付かなかったが、柵の塗装は所々剥げていてささくれ立っていた。塗装が剥げてしまっている部分からは赤錆が覗いている。ヒトが体重を掛ければ崩れるほど脆くなっているようにも思えた。年季の入った屋上の柵がまだ新しく輝いていた以前から、オサムはこの世界にいるということだ。
「君の知り合いに会ったよ」
私はオサムの背中に語りかけた。
「君がそこから飛び降りたらどうなるんだろうな。ケガをするわけでもない、死ぬわけでもない。ヒトのように落下するのかふわふわ浮いてゆっくり地面まで降りて行くのか。どうなるんだろうな」
オサムの背中がピクリと動いた。
ここから飛び降りて命を絶ったチエのことを思い出しているのか。
いや。
笑っている。
声を出してはいないが、どうやら笑っているようだ。
「あなたは面白い人だ」
少年――の姿をしたオサムがこちらを向いた。呆れた笑みを浮かべて私を見ている。
「あなたの目的はなんなんですか。いろんな人と話をしているみたいだけど、一体なにをしたいんでしょう」
「知りたいだけだよ。この世界のことを。私がなぜこんな所に放り込まれたのか、何をすべきなのか、この先どうなるのか――」
知ってどうするの、とオサムは言った。
笑顔は無い。
厚い壁がそこにあるような拒絶の混じった表情がそこにあった。
「君がルイに教えたやつさ。それが私の『楽しみ』みたいだよ。彼女に言ったんだろう。楽しみを見つけろと。私にもようやく見つかった。いろんな話を聞いて見識を深めるというやつだ」
「それで? 深めてどうするの」
「さあね。先のことなど分からんさ。幸いなことに今は新しいことを知れば知るほど次の疑問が湧いてくる。しばらくは退屈しないで済みそうだよ」
オサムは建物の縁からこちらに向かって歩いてきた。
私の胸までしか身長はないが、妙に圧力威圧感がある。これが長年ここで培ってきた経験からくる迫力というやつなのだろう。
「ハリーに訊いたよ。君がここにいる理由を」
オサムの眉が少し動いた。
「じゃあ話が早い。僕はもう誰とも関わりたくないんだ。もうここへは来ないでくれ。あなたが知りたいことを僕が知っているとは限らない」
なんだろう。
今日のオサムは前回とは別人のようだ。
初めて会ったときはそれなりに柔らかい口調だった。他人を拒絶する雰囲気はあったが、完全に拒否されたわけではなかった。
だが今日は。
やけに挑発的な口調で私を追い返そうとしている。
私を拒絶している。
私はそれに対して引く気はなかった。
「残念だが訊きたいことはあるんだよ。ハリーの言っていたこの世界からの解放のこと。そして――」
トムのこと。
「一体どういう関係なんだ。あんたはフレディと呼んでいたが、彼はなにをしている? あまりよくない噂を耳にしたんだが――」
「一体化」
「なに?」
「一体化ですよ」
オサムの表情がさらに険しくなった。口調にも怒気が含まれている。
「一体化なら知っているよ。あまり好きではないけどね」
「それを誰に教わりましたか」
「トムだ」
「その人に教えたのは僕です」
ハリーが言っていた。オサムがヒトを助けたいと行動をしているうちに一体化できることに気がついたのだ、と。オサムとトムが顔馴染みであるのなら、教えていても不思議ではない。
「彼になんと教わりましたか」
「ああ――。三秒以上は危険だ、と。それ以上一緒になっていると吸収されてしまうと訊いたよ」
「おかしいと思いませんか」
「おかしい?」
私は首を傾げた。
トムは単純にルールを教えてくれただけではないのか。あらかじめ危険性を教わっていれば、リスクは減る。単純な話ではないのか。
オサムは私に向かって三本の指を立てた。
「なぜ三秒なんです? なぜそれ以上一緒になっていると吸収されてしまうと知っているんです? なぜ五秒でも十秒でもなく三秒が安全なのだと知ることができるんです?」
なにをそんなに気にしているのだ。
それがルールなのだろう。
いちいちルールに疑問を持ったところで仕方ないではないか。
「僕は『一体化できる』ということだけしか教えていない。僕がそれに気が付いたときは、一瞬の出来事だった。偶然、ヒトに入り込めただけに過ぎない。あまりいい気分ではなかったから僕はその時以来、ヒトの中には入っていないんです。それなら――」
あの男はどうやって『三秒』というルールを知ったんですか――。
言われてみればそうだ。
オサムに教わったわけではないのなら、誰に訊いたんだ。
他に知り合いがいるのか。
ハリーに?
いや、ハリーはトムのことを知っている風ではなかった。ハリーも一体化について知ってはいたが、試しているということは言っていない。
それならば。
自分で試す?
いや、それはあまりにも危険だ。
三秒という時間はあまりにも短い。例え一体化した時間が四秒でも抜けられなくなるのだろう。抜けられなくなったなら、それは消滅を意味する。もしもトムが試したとするならば、私は彼と出会ってはいないはずだ。消えてしまうのだから。
だとすると――。
恐ろしい考えが私の頭を過ぎった。
「そんな――そんな馬鹿なこと」
オサムは小さく頷いた。
「三秒というルールを導き出すのなら試すしかない。だけれど自分で試すわけにはいかない。失敗することは我々にとっての『死』を意味するんです。それなら試す方法はひとつしかない」
「他人に――やらせる」
オサムの刺すような視線が私に向けられた。少年の幼い顔立ちから恐ろしいほどの殺気を感じる。思わず私は一歩後ずさってしまった。
「ちょっと待ってくれ。他人にやらせるって言っても誰がそんな危ない橋を渡るというんだ。いくら白いコートを着た我々でも消えてなくなる危険を冒す奴がいるとは思えない」
「僕の経験上、ごく稀にいることはいるんです。この世界から逃げ出したい、向こうの世界に行きたいと言って、自ら消滅を選ぶ人がいないわけじゃあない。でもそんな都合のいい人はそうそういない。それなら――あなたならどうします?」
逆に尋ねられ、私は押し黙ってしまった。
オサムの迫力に押されてしまったせいもある。
が、それ以上に。
嫌な想像が頭を過ぎってしまった。
騙す。
そうだ。
上手く口車に乗せる。なんの危険もないと安心させ、ヒトと同化させ――。
私はかぶりを振った。
そんなことあるはずがない。
それは。
それではまるで――。
殺人じゃないか。
向こうの世界ならまだしも、病気もケガもないこの世界においてそんな発想をして、しかも実行するなんて考えられない。何が楽しくて――。
楽しむ――。
かくはずのない汗が額から頬へ伝ったような気がした。
「あなたの知っている男――トムと今は名乗っているんだったかな」
オサムの唇がゆっくり動いた。
「彼の本当の楽しみは、死を眺めることですよ。それもこっちと向こう、その両方の、ね」




