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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第二十話

 あなたも消えちゃうよ。

 その言葉が頭の中をぐるぐると渦巻いた。

 ――私が消える。 

 消えるとはどういうことか。 

 向こうの世界でいえば、死ぬということか。

 疲れもしないものも食べないこの世界で死ぬ方法があるのだろうか。

「僕は――僕はずっとこの世界にいる。この建物が建つ前よりずっと前からこの世界にいる。これまでいろんな人といろんなヒトを見てきた。それである日思ったんだ――」

 もううんざりだ、少年は肩を落としそう言って深いため息を吐いた。

「それでここに? どれほどの時間ここにいるんだ」

「この病院が建ってからずっと」

 この建物を見るに、そう新しいものではないはずだ。表の看板の色も少しくすんで見えるし、外壁も所々よだれを垂れたような染みが浮いている。今日初めて院内に入ったが、壁紙こそ綺麗に張り替えられ真新しく見えるものの、隅々まで目を凝らして見ると長年の傷みは隠せないでいる。どう安く見積もっても築十五年以上は建っているだろう。この少年はそんな長い年月ここでじっと過ごしていたのか。

「それだけ長い時間この世界にいて君は消えないでいれたんだな」

 そう私が言うと、「残念ながら」と少年は苦笑した。

 さっきよりも態度が軟化したように思った私は、ここに来た経緯を話すことにした。なぜ消えるのか知りたいが、順を追って打ち解ける方がよさそうだ。少しずつ本質に近づいて行けばいい。

「私はここに来て『楽しみを見つけろ』と言われたよ。なにがなにやら分からない状況でそう言われて今日まで来たが、結局見付けられていない。君には楽しみがなかったのか」

「楽しみ――ですか」

 少年は座ったまま空を見上げて少し考え込んだ。それは遠い昔の記憶を呼び起こしているように私の目に映った。私も自然と少年と同じように夜空を見上げた。頭の欠けた月が朧げに雲の切れ間から顔を出している。

「昔はあったかなあ。でもそれは楽しみというよりも――使命といった方がいいのかもしれない」

「使命? この世界で君のできることは限られているだろう。それは一体どんな――」

 と、突然少年は立ち上がった。

「その楽しみ見つけろとあなたに言ったのは女の人でしょう」

「ああ、そうだよ。彼女は黄色い車を見つけるのが楽しみだそうだ。私には理解できなかったけれどね」

「ふふ。そうでしょうね。僕だってそう思う。でも彼女はそれをしていることで自分の存在を確かなものにしている。僕のようになんの目的もなく、世間からはぐれてこんな所でいじけているのとは違う。いいことだよ」

「そうかもしれないな。目的があるっていうことは今の私には羨ましいことだよ。どうも彼女は君に会わないと私と会話してくれないらしいんだ。君はなにかの窓口をしているのかい」

 そんな馬鹿なと少年は笑った。こうしてみると向こうの世界の子供となにも変わらない。そんな幼い姿の下には幾年もの経験が詰まっているのだろう。

「なぜそんなことを彼女が言ったのかは知らないけれど、彼女に楽しみを見つけたらと勧めたのは僕だよ。彼女がこの世界に来たとき、偶然ここへ来たんだ。そのときに色々訊かれたからね」

「彼女もここへ来たのか」

「そう。あまり世間とは接触したくないんだけれどね。そのときは少し状況が違ったから――」

 そこで少年は言葉を切った。と、同時にせっかく柔らかくなった表情が一気に強張り、ゆっくりとさっき立っていた建物の縁の方へ歩いて行く。

「おい、どうしたんだ。彼女がここへ来た状況ってどんな――」

「有馬じゃねぇか」

 少年の後を追おうとした私の足はぴたりと止まった。その言葉が実像となって、私の足を掴んだかのように動けない。背後から聞こえたその声は、まるで悪さをしている子供を叱る寸前の母親のようだった。

 振り向くと。

 トムが屋上のドアの前に立っていた。

 暗がりでその表情ははっきりと見えないが、僅かな光に照らされた右目が鋭くこちらを捉えていた。

「やぁ、トムじゃないか。どうしたんだ」

 慌てた素振りを見せてはいけない。私は別段、悪さをしていたわけではないのだから警戒する必要も取り繕うこともないのだが、なぜか後ろめたさが込み上げた。

 なんなのだろうこの感覚は。

 少年と会っているところをトムに見られてはいけないような気がするのだ。

「探してたんだよ。いつもこの病院の前にいるからさ。でも姿が見えないからひょっとして病院の中にいるかと思ってな」

 見つけた見つけたといいながら、こちらに近づいてくる。横目で少年を見ると、すでにこちらに背を向けて私が来たときのような体勢に落ち着いていた。

「なにか用でもあるのか」

 私は少年から距離を取るようにトムに近づいた。

「なあに、食いものはもう飽きたから、今日は酒に挑戦しないかと思ってな。今の時間、街中に行けば呑み放題だからよ」 

「彼らに入るのはどうも私には合わないよ。あれをやるとどうも気分が良くない」

 トムを遠ざけたいからそう言ったわけではない。実際、私には合わないと何度か経験してそう感じていた。向こうのものが体の中を通過することが、どうにも気持ちが悪いのだ。だが、トムはそんな私の感想を意にも介さない。

「そう言うなよ。要は慣れだ。段々と心地良くなっていくものさ。まだ酒は経験していないだろ」

「お茶とコーヒーは試したよ。液体なんてどれも同じだろ」

 トムは肩をすくめて得意げな顔をした。

「それが違うんだよ。アルコールはヒトの体の自由を奪う。いや、体だけじゃなく意識だって支配するのさ。その感覚がいいんだ」

 この男の強引さはすでに知っている。今はどう断っても引き下がることは無いだろう。少年との会話にとんだ邪魔が入ってしまった。

「さあ、早く行かないと夜が明けちまう」

 いつものように腕を肩に回され、引っ張られるようにして私は院内へのドアへ向かった。少年は向こうを向いたまま、私たちのことなど全く気にしている素振りはなかった。

 トムに押し込まれるようにして私は院内へと入った。そして続いてトムもドアを擦り抜けようとしたとき。

「フレディさん――」

 トムの動きと表情が一瞬にして固まった。

 声の主は。

 少年だ。

 私と会話していたときとは別人のように大きく覇気のある声だった。

 だが。

 ――フレディ? 

 誰だろうと思ったが、それは固まったトムの表情を見れば一目瞭然だ。黄色い車の女曰く、この男はコロコロと名前を変えているらしいのだ。きっと少年にはフレディと名乗ったのだろう。

 院内に入りかけていたトムは振り返って、再び屋上へ戻った。当然、私も一緒に。

 少年はさっきと変わらずこちらに背を向けていた。顔はあちらをむいているのだから、こっちに向かって発した声は相当おおきなものだっただろう。あの少年もあんなに大きな声を出せるのだと驚いた。

「――久しぶりだなあ。元気そうじゃないか」

 トムは笑っていたが、その目は敵意が剥き出しになっていた。

「あなたも相変わらずで。フレディさん」

「その名前は捨てたよ。今はトムだ。と・む。分かるか坊や」

「そうやって名前を変えて遊んでいるみたいだな」

 少年はこちらを向いた。大きな少年の目が鋭く輝いている。

「そっちもまるで自縛霊みたいじゃないか。ここがそんなに嫌ならさっさと消えちまえよ」

 トムもかなり好戦的な態度になっている。少年はそんなトムの言葉に不敵に笑った。

「いつか――いつか痛い目に合うよ。そんなことばかりやっていると」

 ――そんなこと?

 このふたりにはなにか因縁があるのだろう。まさに一触即発。その張りつめた空気の中、私は動けないままその動向をただ眺めていることしかできないでいた。

「ご忠告ありがとうよ。こいつは連れて行くぜ」

 そう言ってトムは私の腕を掴んだ。

「ちょっと待ってくれ。あんたたちは一体どういう――」

「有馬さん」

 私の言葉を遮るように少年が私の名前を呼んだ。高く澄んだ声だ。

「僕の名前はオサムだよ」

 少年はそう言うと、再び闇の方へ視線を映した。

 私はトムに強引に促され、有馬医院の中へと戻っていった。


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