第二十一話
「あんたが言っていた人に会ってきたよ」
歩道橋の真ん中に立ち、行き交う車の少ない道路を眺めながら声を掛けた。
あの後――。
私はしつこく何度もトムを問い質した。
あの少年はなんなのか。
あの少年とトムとの間になにがあったのか。
いつからあの少年と知り合いなのか。
あの少年がトムの言う「狂った奴」なのか。
なぜ私と彼が会うのを邪魔しようとするのか――。
トムは押し黙ったまま、なにも応えなかった。ただ、最後の問いだけは「偶然だよ」とだけ言ったっきりでそれ以上なにも言わない。
そんなはずはない、お前は必ず有馬医院の前に姿を見せると攻め立ててみたが、無反応には変わりなかった。
一方的に詰問しながら街の方へ歩いていたが、やがてトムは不機嫌そうに歩くのを止めて私を睨んだ。
私は身構える。
この男が暴力的なことは承知している。体は小柄だが、油断はできない。応戦する覚悟はできていた。この男が現れなければ、もっとオサムのことやこの世界のことを知ることができたはずなのに、邪魔されたのだ。
あの少年とのやりとりで随分ご機嫌斜めの様子だが、それは私の方も同じだ。
ところが。
トムは私に背を向け、街とは逆の方へ歩いて行ってしまった。
遠くなる背中に向かって「呑みに行くんじゃなかったのか」と言うと、トムは振り返りもせずに手を振りながら「そんな気分じゃねぇよ」と言い残し、闇の中へと消えて行った。
そして。
夜が明けて朝靄の中、私は黄色い車の女の横にいる。
「ふうん――。会えたんだ」
「ああ、会えたよ。名前も教えてくれた」
「で、どんな話をしたの」
早朝の町はまだ眠っている。交通量も歩行者もほとんどいない。犬の散歩やランニングをするヒトはいても、まだまだ目覚めるには時間がかかる。それなのに、女は車の少ない道を眺めたままこちらを見ようともしない。
「別になにも。これといった話はしていないよ。ほんの自己紹介をした程度さ。とんだ邪魔が入ってね。君に楽しみを見つけるように教えたのはあの少年らしいね」
「少年――。まあ見た目はそうよね。ほんと可愛らしい子供の姿だけど、相当長い間この世界にいるらしいわ。この世界のこと、なんでも知っていたもの」
「君もあの病院の屋上で?」
女はコクリと頷いた。
「偶然よ。ほんと偶然。あの病院から少し離れたマンションに昇ってたの。なんであんなところに昇っていたんだか。きっとこの世界に混乱して高いところに昇って見渡せば、自分のことも世界のことも分かるような気がしたのかもしれない。エレベーターには怖くて乗れなかった。もし、あの箱が私の体を通り抜けて上がっていきそうで怖かったのよ。それで階段を使っていたの」
そういえばエレベーターは試したことがなかった。足の裏が接している部分なら階段や花壇、屋上にも上がれるのだからきっとエレベーターの箱だって大丈夫に思えるのだがどうだろう。確かにあの箱が自分の体を通り抜けて行くのは気持ちが悪いかもしれない。
「随分高いマンションだったわ。それで階段を昇ってる途中でふと外の景色を見てみたの。その日は雲ひとつない青空で、向こうのヒト達はハンカチや日傘で陽の光を防いでいた。太陽の強い光に目をやってみたら、視界の隅に人影が見えた」
「それがオサムだった」
「そう。あんなところでなにしているんだろうって思ったわ。しかも屋上のギリギリ隅に立って、白いコートを着ていなかったらヒトが飛び降りでもしているのかと思ったかもしれない」
「私が行ったときもそこにいたよ。縁に立って、目はどこか遠くを眺めてた」
相変わらずなのね、と女は笑った。笑うと片方の頬に小さなえくぼができる。化粧気はないが、笑うと愛嬌のある顔だ。じっと黄色い車を探しているときよりも美人に見えた。
「白いコートの、しかも幼い子供が屋上に立っているのが見えた。気になった私はマンションの階段を引き返してその場所に向かったの。一旦下に降りてしまったらあの建物がどれだったか探すのに苦労したわ。見え方が全く違うんだもの。間違って隣のビルや隣の隣の建物に昇ったりもした。そしてようやく見つけたのよ」
初めて対面したときのオサムの反応は私のときとあまり変わりなかったようだ。それからというもの、毎日のように彼の元を尋ねていたそうだ。
どうやら長いこと彼は世捨て人――私たちに捨てるものがあるのかは怪しいものだが――のような生活を送っているらしい。黄色い車の女もなぜ彼があの場所にいるのか、理由までもは分からないようだ。訊いても答えは話してくれないし、訊くこと自体無駄だと判断した彼女はこの世界にどう順応していくかを色々教わったと話してくれた。
「とにかく目の前の世界に憧れるのはよくないってなんども言ってた。まるで口癖のようにね。少しづつ打ち解けていったと思っていたの。他の連中とは違って、会話というものが成立するんですもの。退屈なここでは彼は特殊だった。友達になれたと思っていた――」
急に女の口が重くなった。楽しい思い出を語っていた饒舌さは鳴りを潜め、表情も暗くなっていた。
「あることを訊いたの。なんてことないつもりだった。でもそれは彼にとって禁句だった。触れてはいけないものだったのよ、きっと。だってそれからオサムの態度は急に変わった。私にもう二度と来ては駄目だって」
「禁句だって? なにを訊いたんだ」
「そのときよ。彼は楽しみを見つけてそれをずっとやり続けなさいと教えてくれた。他愛のないものがいい、なるべく向こうの世界に直接触れないもので楽しみを見つけるんだ、って。そうすれば――」
そうすれば安全だ――。
私と女は目と目が合ったまま、しばらく黙りこんでしまった。その間、彼女は黄色い車を探すことをすっかり忘れてしまっていた。
「教えてくれ。なにを言ったら彼の態度が変わったんだ」
女は言い淀んだ。言うべきか言わないべきか、逡巡している。視線が私とその後ろの背景へと行ったり来たりをくり返していた。「ジェイソン――」
女は呟いた。
女の言葉の意味を理解するのにしばらく時間が掛った。考え込む私に女がさらに続けた。
「あなたは別の名前で呼んでる――あいつのことよ」
――あいつ?
私を指してあいつと言われて思い浮ぶ人物はひとりしかいない。
「――トム、か?」
「私にとってはジェイソンよ」
やはりトムだ。
一体トムとオサムの間になにがあったというのだ。
「その名前を出した途端、オサムの態度は変わったわ。理由は分からない。どれだけ訊いても答えてはくれなかった。ただ、あれは私を拒絶するというよりも別のなにかを気にしている風だったわ。だからそれ以来、あそこには行かなかったし、ジェイソンって人にも近づかないようにしたの。その名前を聞いただけであんなに豹変したんだもの。ただでさえ馴れ馴れしくて気味が悪かったのに余計に、ね。だからあいつと一緒にいたあなたも――」
「なにかの仲間だと思ったわけか」
私は一時期毎日のようにトムといたのだから無理もない。私も薄々は感じていたことだ。
初めのうちは親切に色々と教えてくれる物好きな男だと思っていた。ここに来たばかりで知りたいことだらけだった私にとって、彼はまさに渡りに舟だったのは間違いない。だからあまりトムのことは悪くは言いたくないのだが――。
あのマッチ棒のような男に対する理由のない暴力。あれを見て以来、トムに対する不信は始まったのだ。
マッチ棒の男といえば――。
「君は知ってるか。あのマッチ棒――背の高いひょろっとしたあの男のこと」
あまりにも漠然とした表現に、女は首を傾げた。似たような男はこの世界にいくらでもいるだろう。いつの間にか、私の中の世界は身近なものばかりを集めた小さなものになっていた。男のことを知っているかどうかはこの際問題ではない。彼の言った言葉が引っ掛かったのだ。
「そいつに擦れ違いざまに言われたんだ。『気を付けろ』って。これがどういう意味かわからないか。僕にはさっぱりだ」
女の顔は明らかに曇った。
「私はその男のことを知っているかもしれないし、知らないかもしれない。顔は見たことがあっても話はしたことはないって意味よ。彼の言葉の真意は私には分からない。知らない人だから。でも――」
明らかに女は言い淀んでいる。マッチ棒の男を知らなくても、その言葉の意味は心当たりがるとでも言いたげな態度ではないか。
「これは噂――あくまでも噂よ」
女は重い口を開いた。




