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短編集 原風景   作者: 潮戸 あお
絵描きの男
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ビスクラ

  一人の絵描きが居た。


 その男は風景画をよく描いた。ある時は丘に咲く花を描き、ある時は空に流れる雲を描く。

 

 古今東西様々なものを描いたが、ただ一つ、人を絵に描くことだけは無かった。


 絵を描く時間、それだけを人生に求めたような生き方だった。


 男が絵描きとして生きると決めた時、彼は最初に住まいを捨てた。肩に背負えるほどの荷物を残して、それら以外の全てを売っぱらってしまいにした。


 その一連は、まるでそれまでの決して短くない人生を全て遠くに投げ捨てるかのように行われた。

 


 ほうぼうを練り歩いては日銭を稼ぎつつ絵を描く。

 新しく人と知り合うたび、その居住まいに転がり込んではまた絵を描く。

 その見返りに家主に描いた絵を贈るときもあった。


 決心した日からの4年ほどを彼はそうやって過ごした。





 ある時、異国の島を訪れたことがあった。土地のほとんどを山に占め、港の施設と農漁業に労働力の大半が集約した過疎地だった。


 そこには緑々とした山と海とを目的にやってきたのだが、港に繋ぎ止められた漁船や集積施設、そこで働く人々など多くの新鮮なものを見ることができた。


 島民の大多数は老人で、母国語の通じない場合ばかりだった。

 男としては慣れたものだったので、ジェスチャーや事前に練習しておいた言葉を頻繁に使って会話を済ますことができた。

 

 島の数少ない子どもが物珍しさに近寄ってくることもあったので、男は生まれ持った恵体を活かして遊んでやり、その対価に山への入り方を教えてもらった。



 山の浅いところに踏み入り、開けた場所を求めてさまよい、それから腰を落ち着ける。草原の上。


 スケッチ用紙とボードを取り出して、あぐらをかいた足に乗せる。

 対象は海。眼前に広く伸びやかに佇み、風に吹かれて波をはためかしている。

 本命の画材は、黒色、白、青、それから……思いついたものを足していけばいい――黄色の絵の具は切れかけている。島から出たら買い足す必要があるだろう。


ステッドラーの使い古した鉛筆を着ているパーカーの右ポケットから取り出して、ボードに転がす。

 人差し指を立てる。不躾に顔の前に突き出して、それから視界の端の丸くなった海の輪郭にそっと爪先を重ねる。

 ゆっくりと、水平線を撫でるようにそれを動かしていく。潮風をかぐ。ぬらりと肌を舐める風を。


 悠然とまぶたを閉じて、空気を肺いっぱいに吸い込む。山の、様々と緑の興した薫り。風に乗った潮の生命に満ち満ちた香り。



 男はふと、昔のことを思い出した。男には幼馴染がいた。

 同い年の少女だった。

 昔から絵を描いていた男は、いつしかその少女を描いてみたことがあった。

 彼女を家に招き、じっと固まったままで椅子に座らせた。

 途中で何度も身を捩らせては、終わったか、と聞いてきて作業をやめさせてしまう。


 それでも最後には完成させてみせたが、これが酷い出来だった。

 少女は絵の良し悪しが分からないようだったが、男にはそれが分かるものだから、たちどころにそれを捨ててしまった。


 それを最後に、男は人を描くことを止めた。

 


 鼻からゆっくりと吸った息を、一拍おいて口から吐き出す。そのころには、まぶたも開いていた。


 放っておいた鉛筆を手に取り、斜めにかざして、用紙に太く薄い線を入れる。水平線に見立てたそれを重ね、今度は縦に向きを変えて波の輪郭を示す。


 日が傾いて男の肌荒れた頬に斜陽が差す頃、彼は鉛筆をポケットにしまい込み、描き上げたスケッチとボードも傍らに置かれていた鞄に放り込んだ。




 山を降りると、そこには一人の女性が立っていた。男と年齢は近いだろうか。成人して少し、といったところだろう。

 若いものの生娘のような雰囲気ではなく、日に当てられた雨傘の表面のような毅然とした表情で、しかしどこか楽しげに佇んでいる。


 誰かを待っている様子らしい、それを横目に男は通り過ぎようとしたが、彼女は男を視界に収めるなり声を掛けてきた。


 男はその女性から、母国語が発せられるのを耳に入れた。

 


 出会った女性は作家であった。それなりに売れているらしいが、男は本を読むことがないので全く知らなかった。


 港の方に出てみたら、近所の人たちがやけに背の高い外国の人が来ていると騒いでいたのよ、とは彼女の談だった。


「前からこの言語を練習していたから、どうせならお話ができないかなって」


 彼女は几帳面らしいな、と招かれた家で思った。


 壁にコルクボードが懸かって色々な内容の紙がシワなく張り付けられており、本棚の文庫は一様に背丈が揃っている。


 示されたソファに座り、手持ち無沙汰に部屋のあちこちに視線を巡らしてみる。

 家財は艶が出て整っており、とくに玄関先で待たされたわけでもないのに床に衣類が散らばっていることもない。


 食卓に、籠が置いてあった。木編みの手作りのものだった。瑞々しい林檎、見慣れた赤いりんごと青りんごが一つずつ入っている。

 それから、見慣れない果物も。先端から末尾にかけて黄色から赤にグラデーションとなっており、表面は爬虫類の鱗のような独特な見た目をしている。


 どこか南国のものだろうか、と男は思った。


 とにもかくにもそれが一際興味を惹いた。


 右ポケットから鉛筆を取り出し、反対のポケットから手帳を取り出して適当なページを開く。


 それらの輪郭を描く。籠の質感を出すには鉛筆だけでは心許ないが、男は適当なものを後で借りることにした。あかね色に染まった縁と、影の底。


 ふと、目の前にマグカップがことりと置かれた。湯気立って、紅茶の香りがふわりと広がる。


 いいでしょう、その籠。向かいのソファに腰掛けた彼女が言った。

 ここに引っ越してくる前に、街の市場で買ったのよ。

 確かに良いものだな。男が応えた。


 女の部屋には、不思議な匂いがしていた。

 果物と薄い香水のかおり、それから目の前の紅茶の匂い。

 それらが混じり合って、懐かしい感覚がしていた。

 それは男が初めて訪れた国でよく感じるものだった。


 日没の直前だった。窓の外から光が射して、女の横顔と長く伸びた艶のある黒髪をゆらりと照らす。


 インスピレーションを探しているの。目の前の女が言った。

 おもむろに化粧台に手を伸ばして口紅を取り出す。それを艶のある唇に見せつけるように塗りたくり、大きな潤いのある眼でこちらを覗き込むように見つめている。


 ちょうど自分も探していたところだ。男が言った。


 夜中、彼らは絹のような手触りのシーツが敷かれたベッドに腰掛けていた。


 既に島の灯りは薄く、またこの家でもベッド脇の暖色灯を残して暗い。


 男は女の薄い肩に手を置いた。

 指先が、丸まったそれを熱心になぞり、肌艶を記憶に留めようとするように執拗に往復する。

 女はその手を、まるで艶のない男の髪にあてがった。手のひらでゆっくりとそれを撫でている。


 やがて灯りが消える。部屋の――もしくは家の――戸口はきつく閉じている。

 狭苦しい部屋に、小さなカップの珈琲が添えられていた。


 細長いベッドの上で、二人は姦淫の罪を犯した。


 翌朝男の目が覚めると女の姿は既に無かった。代わりに、ベッド脇の小机に書き置きが置かれてあった。


 曰く、近所の老女らの手伝いに出ると云う。男はしばしそれを眺めたあと、鉛筆を脱ぎ捨てられたパーカーのポケットから取り出して一筆加えた。


 今度、機会があれば貴方の作品を読んでおく。


 男は着替えたあと、家を出てから書き置きの隣に置いてあった合鍵で戸締まりをし、横のポストにその鍵を入れた。


 男は朝の海をしばらく眺めたあと、港で船に乗って島を去っていった。

 

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