第153話 聖王都の危機
カオスに肩を支えられ、本陣に戻ってきたラプトの姿を見て、誰よりも慌てたのはルージュだった。
レリアナ捕縛作戦が失敗する可能性までは考慮していたものの、ラプトが一方的に負傷して戻ってくるという展開は、彼女の頭の中にあり得ない未来図だった。いつも冷静な態度を取っている彼女が、心の動揺を隠しきれていない。
一方、カオスは迅速に医療班を呼び、ラプトを任せると、取り乱しそうなルージュを天幕へと促した。まずは彼女を落ち着かせることが最優先だと判断したのだ。
「……情けないところを見せたわね」
天幕の中、深呼吸を繰り返し、ようやく平静を取り戻したルージュは、カオスに軽く頭を下げた。その声には普段の自信が感じられず、わずかに震えが混じっている。いつもは揺るぎない自信を感じさせる彼女の言葉には、自責の念がにじんでいた。
「俺だってラプトの旦那があそこまでやられるとは思いもしなかった。ねーさんの気持ちもわからなくはない。だけど、旦那にはしばらく休んでもらうしかない。後は俺達だけでことを進めなきゃいけないんだから、しっかりしてくれよ」
カオスは肩をすくめつつも、どこか優しさを込めた口調で励ます。その言葉を受け、ルージュはかすかに目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「大丈夫よ。レリアナを生け捕りにはできなかったけど、緒戦は私達の勝利よ。私の計画に問題はないわ」
言葉の端に力を込め、まるで自らに言い聞かせるように言い放つルージュ。その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、情熱的な光が戻りつつあった。
「ようやく、いつものねーさんらしくなってきたな。それじゃあ、このまま進軍だな?」
「ええ、そうね。ただし、聖王都の近くまでよ。決戦はまだ先」
「まだ? 時間を空ければ、相手に態勢を立て直す時間を与えるだけじゃないのか?」
「それでいいのよ。時間を置いたほうが、より聖王国を追い詰められるはずだから」
「……どういう意味だ?」
カオスが眉をひそめ、問い返した。それに対し、ルージュは意味ありげに微笑む。
「まぁ、見てなさい。すぐにわかるはずだから」
その笑みには、余裕と確信が漂っていた。カオスは口を開きかけたが、言葉を飲み込む。
時に感情任せに動きそうになることはあるが、こうして落ち着いて頭を働かせている時のルージュの言葉は信じられる――それがわかっていたから。
その頃、敗走したレリアナ率いる聖王国軍は、一旦聖王都まで全軍を退却させていた。前回と同規模の戦力で再戦するのは無謀――勝利を収めるためには、聖王都に残していた守備隊を動員しなければならなかった。
ただ問題は、城に籠城し、聖王都を戦場にする覚悟で戦うのか、聖王都に被害を出さないために打って出るかという点だった。
聖王国の国民は兵士ではない。しかし、彼らは皆、神の使徒であり、聖王が命じれば、彼らもまた戦いへと身を投じる覚悟を持っている。聖騎士ほどの戦力とはなり得なくとも、聖王都での戦いとなれば、彼らを駒として使うことも可能だった。城の防衛力も考慮すれば、籠城戦の勝率は一気に跳ね上がる。
城内での軍議は紛糾した。確実な勝利のために王都に籠るか、伝統ある王都に敵を踏み入れさせないため外で戦うか――
「王都決戦などあり得ません! 民に被害を与えて、何が聖騎士というのですか! 王都の外で緑の公国軍を迎え撃ちます!」
聖王レリアナの鶴の一声。それで戦略は決まった。
「レリアナ様のご決断ならば、我らは何も申しません。ですが、聖王都の兵を加えても、戦力は十分とまでは言えませんぞ。青の王国との国境に配備している部隊を呼び戻せば別でしょうが……」
重々しい声で進言するのはライニール将軍だった。その眼光は鋭く、視線の先にいるレリアナに決断を迫るようだった。
「……それはできません。青の王国はいつ再び侵攻を開始するかわかりません。国境の防衛を疎かにするわけにはいきません」
対青の王国に睨みを利かせている防衛戦力を動かせば、緑の公国軍に対してはかなりの優位を築ける。しかし、それは青の王国に侵攻の隙を与えることを意味していた。青の王国とは休戦協定を結んでいない以上、二面作戦は避けるべき最悪の選択だった。
「私も全軍を戻せとは申しません。ですが、その一部でもこちらに回せば、勝機は格段に高まるかと」
「…………」
レリアナは押し黙る。ライニールの言うことも一理あった。緑の公国は、今確かな危機として目の前に迫ってきているのだ。万が一、次の決戦で大敗を喫するようなことがあれば、聖王国そのものがなくなる。そうなれば、対青の王国への備えなど、そもそも意味がないのだ。
「いかがいたしましょうか?」
「…………」
再びライニールが問いかける。軍議の場に張り詰めた空気が広がり、視線がレリアナに集中する。
(私は……どうするべきなの?)
神により聖王に選ばれ、聖王の霊子を発現させたとはいえ、レリアナはうら若い一人の少女に過ぎなかった。国の命運を決めるような決断を下すには、経験も実績も不足している。それでも、今この場で、彼女が答えを出さねばならないのだ。
「私は――」
悩み葛藤しながらも、聖王としての判断を下そうとした時だった。荒い息を吐きながら、一人の兵士が軍議の場へと飛び込んできた。
「大変です! 青の国境駐留軍から早馬で緊急の報告が入りました! 青の王国軍がこの国に向けて進軍を開始したとのことです!」
「――――!?」
その報せが響いた瞬間、軍議の場は氷のように静まり返った。驚愕と動揺が広がり、重苦しい空気が室内を支配する。誰一人として、すぐに言葉を発する者はいなかった。
「……向こうから兵を呼び戻すどころではなくなりましたな」
呻くようなライニールの低い声が沈黙を破る。
レリアナは崩れるように両手を会議机へとついた。その指先はわずかに震え、押し殺した動揺が表に出るのを必死に抑えている。
「……やはり、この機会を見逃してはくれないのね」
頭では理解していた。緑の公国の動きに乗じて、青の王国が動く可能性は常に頭の片隅に置いていた。それでも、心のどこかでは希望を抱き、最悪の事態を否定してきた。それが今、現実となり、容赦なく彼女を追い詰めていく。
(国境の軍は、敵軍を足止めできる程度の戦力しかないわ。撃退するには、王都からの援軍が必要。でも、今の私達にそんな余裕は――)
項垂れながらも、レリアナは今自分達にできることを懸命に模索する。
(取れる手は二つ。一つは、聖王都の戦力で緑の公国軍を速攻で撃破し、国まで押し返して、東の国境へ援軍を送る方法。もう一つは、聖王都に最低限の戦力を残して籠城戦で時間を稼いでいる間に、主戦力を青の王国軍に向かわせてこれを撃退する方法。前者には、緑の公国軍にそんな簡単に勝てるのかという大きな問題があり、後者には、この聖王都や国民に甚大な被害をもたらすという問題がある……。こんなの決断できない……)
レリアナは顔を上げ、すがるような目を周りの忠臣達へと向ける――が、彼らはレリアナの言葉に全力で応えてくれはするが、彼女を導いてくれない。ただ、レリアナの言葉を待っているだけだった。
(……私が、決めなくてはいけないのね。だって、私は聖王なんだから)
決断を下す重責。それは彼女に課せられた宿命だ。今さら逃れることなどできない。それでもほんのわずかでも誰かに頼りたいという気持ちが湧き――聖王国の人間でもないのに、その知恵を、力を貸してくれた一人の軍師の顔を思い描く。
(――こんなところで頼ろうとするなんて、私はダメな王ね)
レリアナは頭を振り、弱気な自分と、浮かんだ顔を振り払い、心を決めた。そして、全軍の方針となる言葉を発しようとした時――また新たな兵が飛び込んできた。
「レリアナ様! 北方の国境付近に、紺の王国軍の集結が確認されました! その数、一万にも達するのではないかとのことです!」
「なんですって!?」
重ねて告げられた悪報に、レリアナは膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。




