第151話 奥の手
先に動いたのはラプトだった。すでに聖王国軍に撤退命令は下された。ルージュが作ったこの空白地帯は、戦闘継続中はともかく、撤退時にまで維持できる保証はない。ここに来るのが緑の公国兵ならいいが、聖王国兵ならばレリアナの生け捕りは困難になる。
それを理解しているラプトは、一気に距離を詰めた。左右の手に握られた二本の剣が、風を切るように迫る。鋭い刃はどちらも正確無比。容赦なく相手を仕留めるために振るわれた。
この攻撃を防ぐ手段は二つ。同じく二本の剣で受け止めるか、あるいは剣の間合いの外まで退くか。
(この男の剣は一本のみ。止められたとして俺の片手の剣のみ。ならば後ろに退くはず。だが、あのミュウほどの速さならともかく、普通に退いただけでは俺の追撃はかわせまい!)
ラプトは冷静にグレイの次なる動きを読み、自分の勝ち筋を頭に描く。
しかし、グレイはその予想を裏切る。彼は一歩も退かず、真正面からラプトの二剣を受け止めたのだ。
右からの剣は右手の大剣で。そして左からの剣は――左の手のひらで。
「――――!?」
ラプトの目が見開かれる。まさか素手で自分の剣を止められるとは思いもしなかった。
警戒の色を濃くしたラプトは、一旦後方を飛び退き、グレイを観察する。
彼の左手の剣を受けた箇所は、皮膚の色がなくなり、その下から金属が覗いていた。
「俺の剣が素手で受けられるはずがない……その腕、金属を仕込んだ義手か?」
「察しが良いな」
グレイは左手を閉じたり開いたりしながら、右手に剣を構え、左の手のひらをラプトへと向ける奇妙な構えを取った。
技術者としての素養も持つティセのアイデアで、左腕を失ったグレイの義手にはいくつかのギミックが組み込まれていた。その一つが、手のひらに仕込まれた鋼だ。その手は、時にグレイを守る盾となり得る。
もっとも、ラプトの一撃は重く、中途半端に受け止めようものなら、鋼自体は強度的に耐えられても、義手自体が壊されかねない。ラプト相手に左手を盾として使うのなら、最も義手に負荷がかからぬ形で受けるしかないが、グレイはそれをやってみせた。
「義手で俺の剣を受け止める奴がいるとはな……」
ラプトのその言葉には、感嘆が込められていた。
だが、グレイにはそれを喜ぶ余裕はない。
(……少しでも受け間違えれば即座にこの義手は破壊されるだろう。そうでなくとも、いつまでこいつが持ってくれるかわかったものじゃない)
グレイの腕は、本格的な盾として使うために作ったものではない。手のひらに鋼を仕込んだのも、奇襲の一撃を素手でも止められるようにと考えてのもので、ラプトほどの剣豪相手に対抗するためのものではない。正直、どこまで耐えられるのかわかったものではなかった。
「その義手、悪くはない動きだ。だが……長年使いこなしてきた者の動きではないな。最近、腕を失ったばかりか」
ラプトの声は妙に静かで、心の底から惜しむような響きを持っていた。
「……惜しいな。両腕とも健在なら、かなりの剣士であったろうに」
その言葉に皮肉の色はない。ラプトの純粋な思いだった。だが、だからといってラプトが手を緩めるようなことはない。
再び跳躍し、ラプトは一気に間合いを詰めた。左右の剣が疾風のように舞い、グレイを容赦なく襲う。その一撃一撃は嵐のように鋭く、そして重い。
グレイは右手の剣と左手の義手を駆使して応戦するが――
(この勝負、長くはもたない)
グレイは歯を食いしばりながら己の限界を感じていた。義手で受け止めるたびに、金属が軋む音が耳に残る。その衝撃は内部の構造を確実に蝕み、耐久力を奪っていく。
息を整えつつ、グレイは改めて剣を構え直した。その瞳には、いまだ揺るぎなき覚悟が宿っている。
そもそも、もしこの場にレリアナがいなければ、戦いはすでに決していただろう。ラプトはグレイを圧倒する技量を持ちながらも、彼女の逃亡を阻むために注意を分散せざるを得なかった。その分散が、グレイに敗北までの僅かな猶予を与えていた。
しかし、その猶予も無限ではない。やがて完全に防ぎきれなかった斬撃がグレイの身体をかすめ、彼の身体に新たな傷を刻み始めた。
「グレイ!」
グレイの身を案じ、悲鳴にも似た声でレリアナは叫ぶ。だが、それ意外にできることはない。
(グレイがラプトの攻撃を引き付けてくれているけど、あの男は私から一度も注意を逸らしていない。もし背を向けようものなら、一瞬で間合いを詰められて斬られる……)
ラプトの眼差しには、圧倒的な威圧感があった。実際には彼はレリアナを斬る意思を持っていないとしても、その視線だけで十分に恐怖を与える。
(かといって、援護をしようにも、私ではグレイの足を引っ張ることになるだけ……)
ただの小娘であるレリアナの力だけならその通りだった。だが、今の彼女には聖王の霊子の力がある。聖王の霊子は、まるで歴代聖王の記憶が刻まれているかのように、レリアナに彼女の本来の力以上のものを与えてくれる。武の象徴、剣聖とも呼ばれた先代聖王の力を、聖王の霊子を通じてその身に宿せば、ラプトと剣で渡り合うことも難しくない。
だが、ラプトとグレイ、二人の戦いに圧倒されているレリアナに、その一歩は踏み出せない。そして踏み出す勇気さえ出せない彼女に、聖王の霊子は応えてくれない。
だから、彼女はじっとその場で二人の戦いを見つめることしかできなかった。
戦いは膠着状態――に見えたが、そうではないことをグレイが一番理解していた。
(この左腕はもう限界だ……)
義手は何度もラプトの剣を防ぎ、その負荷に耐えてきた。だが、特に脆い手首の部分が悲鳴を上げ始めている。このまま防戦を続ければ、数度の攻撃で完全に破壊されるだろう。
(一度でいい。奴に仕掛けるチャンスさえあれば……)
グレイの切なる願いは、思いがけない形で現実となる。
「グレイ! 向こうに見えるのはティセ達です! こちらに向かっています!」
レリアナの声が、希望の光を運んだ。まだ距離はあるが、ティセと聖騎士達の馬がレリアナ達のもとへと疾駆してくる。ラプトの待ち伏せを察知した彼女達が駆けつけたのだ。ただし、そのすぐ背後にはカオス率いる緑の公国兵が迫っている。彼女達の到着が吉と出るか凶と出るかは、ここまで来てみないとわからない。
この状況の中、レリアナの声を聞いても、グレイは間合いを取って睨み合うラプトから一瞬も注意を逸らさなかった。
一方で、ラプトの意識には小さな変化が生じていた。グレイを睨む鋭い眼差しと、レリアナへ向ける意識はそのまま、耳に届く遠雷のような馬蹄の響きや、空気なのわずかな振動にも気を配り始めていた。彼にとって、他者の接近は、任務失敗に繋がりかねない。その反応はある意味当然のものだといえた。
だが、グレイはその一瞬を見逃さなかった。
ラプトの注意は、わずかに分散した。ほんの一瞬、スキとも言えぬようなスキが生じた。しかし、それだけで十分だった。グレイの身体が疾風のごとく動き、それまで防戦一方だった彼が初めて自ら仕掛ける。大剣を右手に振りかぶり、一気にラプトとの距離を詰めた。
(甘い! その程度で俺を討てると思ったか)
ラプトに焦りはなかった。
グレイの踏み込みは、ラプトがこれまで相手をしてきたミュウに比べれば、格段に速度で劣る。剣の一撃の重さはミュウに勝るが、この速度の踏み込みによる剣戟など、ラプトにとって脅威ですらない。
ラプトは冷静に左手の剣を動かし、大剣を防いだ後の反撃を頭の中で組み立てる――その時だった。
グレイの左手が無造作にラプトへと向けられた。剣なら届くが、素手では届かない距離。しかも、腕を引きつける予備動作すらなく、ただの手を伸ばし手のひらを向けただけ。
その無意味に見える動作に、ラプトは眉をひそめた。通常なら注意を引くためのこけおどしだと切り捨てる場面だが――
(この男の目……! 獲物を仕留めるときの目だ!)
ラプトの直感が警鐘を鳴らした。その瞬間、防御の動きを変える。迎撃の剣を下げ、自らの胸を守るように両腕を交差させるとともに、剣を回避するため後ろへ跳ぶための動作に入る。
その瞬間、轟音を上げてグレイの左腕が爆ぜた。
同時に、ラプトの腕にとてつもない衝撃が走り、その身体は後ろへと吹き飛ばされる。
爆発の中心――グレイの左腕は、手首から先が完全に吹き飛び、露になったのは黒い砲口だった。それは、かつてフィーユを追い詰めた青の導士ルブルックの魔導砲に似ているが、あれよりも遥かに口径が大きい。
それこそ、グレイが義手の中に仕込んでいた奥の手――真魔導砲だった。




