第150話 ルージュの罠
撤退の指示を叫びながら、レリアナはグレイと共に戦場からの離脱をはかった。
敵に完全包囲される前に動き出したおかげで、二人は戦場の中にまだ残された敵兵のいないルートを駆け抜けていく。
とはいえ、気を緩める余裕などない。地形や敵の配置を見誤れば、逃げるチャンスは簡単に窮地へと変わりかねない。
(このまま進めば、大回りにはなるが、後方の味方部隊と合流できる)
レリアナが馬の手綱を握りしめ、そう考えて少し安堵したその瞬間だった。
レリアナの進行方向――誰もいないと思っていた場所に、一人の兵士が突然飛び出してきた。
巨躯の戦士だった。騎士と騎士による戦場には似つかわしくない粗野な身なり。しかし、その圧倒的な存在感は、傭兵や野盗の類ではあり得ないことを如実に物語っていた。
(敵兵か。一人くらいなら私でも斬り伏せることもできようが、ここで一人倒したところで状況は変わらない。避けるのが賢明か……)
冷静な判断が頭を巡る。しかし、そのわずかな逡巡が命取りとなった。
相手が普通の兵士ならば、まだ余裕のある距離。しかし、その男には、すでに仕掛けるのに十分な間合いだった。
男の姿がレリアナの視界から消えた――次の瞬間、強烈な衝撃が彼女を襲う。
空が視界を埋め、何が起きたのか理解できないまま、地面に背中から叩きつけられる。馬の悲鳴と激しいいななきが耳をつんざく中、ようやく事態を飲み込んだ。
脚を四本とも切断された彼女の馬が、すぐそばで苦しげに倒れ込んでいる。
(あの距離を一瞬で詰め、馬の脚をすべて斬り落としたというの!?)
身を起こし、レリアナは異常の事態を引き起こした張本人を見やる。
男は、丸太のように太い腕で、左右に一本ずつ、大剣のような剣を握りしめていた。無造作に伸びた髪の隙間から覗く二つの瞳は、狂暴さと冷静さが奇妙に同居している。
レリアナがその男を目にするのは初めてだったが、その姿と二本の剣、そして、緑の公国に赤の導士ルージュがいるという事実を組み合わせれば、彼の正体を推測するのは容易だった。
「ラプト!」
名前を叫ぶレリアナに、男はわずかに口角を上げた。
「ほぅ。聖王でも俺のことを知っているのか」
低く響く声が、彼の威圧感をさらに引き立てる。
聖王国軍と緑の公国軍が激突する戦場の中で、ラプトの姿はこれまで一度も確認されていなかった。それもそのはず、彼はルージュからの命を受け、ここでレリアナを待ち伏せていたのだ。
包囲に穴を作り、彼女をそこに誘導する。それはすべてルージュの描いた筋書き通り。ラプトには、彼女を生け捕りにするという最重要任務が課されていた。
(ティセとルイセの二人がかりでも返り討ちに合うような相手……)
レリアナは胸の奥で聖王の霊子の震えを感じた。それはまるで、目の前に立つ男の脅威を彼女に伝えようとするかのようだった。冷たい風が髪を揺らし、鋭利な緊張が全身を駆け巡る。
聖王に選ばれる前のレリアナから、この場で恐れおののき、何も考えず逃げ出していただろう。だが、今は違う。レリアナは静かに剣を抜いた。
(私は聖王。この名を背負う以上、たとえ勝ち目がなくとも、最後まで聖王として矜持を貫かなければ……)
剣を構えたその時、不意にレリアナは自分を覆う影に気づく。
顔を向けずともわかった。グレイだ。
彼の馬が駆け寄り、レリアナの横にぴたりと並ぶ。その背から軽やかに飛び降りると、彼は彼女をかばうようにその前に立った。
「レリアナ様、俺が時間を作ります。その間に、この馬で逃げてください」
グレイはラプトを睨んだまま振り向かず、毅然とした声でそう告げた。
「グレイ、あなたはどうするの!? それよりも、二人で戦えば――」
「すみません。せめて俺の左腕が万全なら良かったのですが、今の俺では時間稼ぎがやっとです」
グレスの言葉を聞き、レリアナは唇を噛みしめる。
(……違う。私だ。私が力不足だから、二人がかりでも、足を引っ張るだけなんだ)
臣下が王に対して「役に立たない」とは言えない。敢えて自分の力が不足していると言ってくれたグレイの配慮に気づけないほどレリアナは愚かではなかった。
「……わかりました」
だから、レリアナはただそう言うしかなかった。
とはいえ、ラプトに狙われた状況で、この場から逃げるのは容易なことではない。馬に乗るために背を向ければ、一瞬で距離を詰められ命を奪われかねない。レリアナが逃げられるかどうかは、グレイがどれだけ大きな隙を作れるかにかかっている。
グレイは剣を構えたまま、ラプトを睨みつけた。その視線には決して揺るがぬ意思が宿っている。だが、彼は慎重だった。下手に距離を詰めれば、守るべきレリアナから目を離すことになる。ラプトがレリアナを狙う隙を突けば、ラプトを討つことができるかもしれないが、レリアナを失った時点でグレイの負けだ。ラプトが彼女を狙う隙を与えるわけにはいかなかった。
一方で、ラプトの方も安易に仕掛けるわけにはいかなかった。レリアナを殺すだけならそれほど慎重になる必要もないが、今回の目的は彼女の生け捕りだ。彼女に馬に乗って逃げられては任務失敗になる。目の前の戦士が一瞬で屠れる程度の相手ならよかったが、一目見ただけで歴戦の勇士だとわかる。この男の相手に集中しては、その間にレリアナに逃げられかねない。それを防ぐために、まず馬を始末してしまいたいところだが、この男を相手にその隙は致命傷になりかねない。
こうして、両者の間には静かな睨み合いが続いた。その間にも、互いの思惑は微妙にすれ違っていく。
グレイはラプトがレリアナの命を奪おうとしていると考えているため、彼女の防衛を最優先としている。対してラプトは、グレイの思い違いには気づいておわず、彼の動きを警戒しながら慎重に機会をうかがっている。
この両者のすれ違いが、この戦いにどう影響するのか――それはまだ誰にもわからない。




