第12話:枯れ木に水を、あるいは火を
第12話です。
ついに九条さんが自制心の限界を迎えました。
「枯れ木」を自称する彼に、凛が真っ赤な火を灯す。
二人の関係性が決定的に変わる夜を描きます。
シャツを掴む私の指先に、彼の熱い鼓動が直に伝わってくる。
九条さんは逃げるのをやめたように、ただ静かに私を見下ろしていた。
「……佐倉、君はさ」
その声は、微かに掠れていた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬を包むか、あるいは突き放すかのように、躊躇いながら空中で止める。
「枯れ木に水をやって、何が楽しいんだ。俺の毎日は、もう完成してしまっている。新しい色なんて、必要ないと思っていたのに」
「完成なんてさせません。私が勝手に、書き換えてやるんです」
私が言い切ると、九条さんの口角が、苦しそうに、でも愛おしそうに僅かに上がった。
それは、四十二年間積み上げてきた彼の「静寂」に、私が火をつけた瞬間だった。
「……本当に、強引だな」
空中で止まっていた彼の大きな手が、私の後頭部に回る。
引き寄せられる。けれど、唇が重なることはなかった。
彼は私の額に自分の額をそっと預け、深く、重い溜息を吐いた。
「これ以上は、もうダメだ。……これ以上進んだら、俺はもう『いい上司』ではいられなくなる」
「いい上司なんて、最初から求めてません」
九条さんの身体が、微かに震える。
彼の中で、理性という名の水が、私の熱情という名の火に負け、激しく蒸発していくのが分かった。
彼の手が、私の背中をぎゅっと抱きしめる。
壊れ物を扱うような優しさと、決して離さないという執着が混ざり合った、歪な抱擁。
「……後悔するぞ、佐倉」
耳元で囁かれたその声は、もはや上司のものではなかった。
一人の、欲に抗いきれなくなった男の、敗北宣言。
窓の外の雨音はさらに激しさを増し、私たちは薄暗いオフィスの中で、お互いの体温だけを頼りに繋がっていた。
九条さんの枯れた日常に、今、真っ赤な火が灯った。
それを消すつもりなんて、私には毛頭なかった。
お読みいただきありがとうございました!
ついに抱きしめ合った二人。でもまだ「キス」まではいかない、この寸止め感が「おじさん上司」の最後の抵抗です。
凛の勝利……と言いたいところですが、火がついた九条さんは、ここから少しずつ「余裕のない男」の顔を見せ始めます。
次回、第13話は「九条さんの『特別』になりたいんです」。
翌朝の、気まずくも甘い空気感からスタートです。
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