第1話:完璧な上司の、完璧な距離感
はじめまして。
26歳、仕事も恋も全力投球したい女子と、
42歳、枯れ気味で壁の厚い上司。
二人の「ポジティブな攻防戦」が始まります。
楽しんでいただければ幸いです。
「……よし、これでフィックス。みんな、お疲れ様。あとは俺が投げておくから、今日はもう上がりなよ」
九条さんのその一言で、張り詰めていたオフィスの空気がふわりと緩んだ。
時計の針は、夜の十時を回ったところ。
中堅広告代理店、制作部・九条班。
一週間に及ぶ大型コンペの準備が、ようやく形になった瞬間だった。
「お疲れ様でしたー!」
同期の伊勢くんが伸びをしながら椅子を鳴らす。
他のメンバーも、安堵の表情でパソコンを閉じ始めた。
そんな中、リーダーである九条健人さんは、椅子から立ち上がると、いつものようにシャツの袖を一つ、二つと丁寧に捲り上げた。
四十二歳。
私の、十四歳年上の上司。
白シャツの襟元からは、清潔感のある柔軟剤の匂いと、彼が仕事に没頭した証である微かな熱気が漂ってくる気がする。
「九条さん、お疲れ様です。……あの、残りの作業、私も手伝います」
私が駆け寄ると、九条さんは眼鏡の奥の目を少しだけ細めて、穏やかに笑った。
それは、部下を労る完璧な上司の表情。
「ありがとう、佐倉。でも、大丈夫。ここからは事務作業だけだから。君は明日も早いだろう?」
「でも……」
「おやすみ、佐倉。頑張ったな」
ぽん、と。
私の肩に、一瞬だけ手が置かれる。
けれど、それは決して不快な重みを持たず、かといって期待させるような体温も残さない。
触れたか触れないかの、絶妙な距離。
それが、九条さんという人の「壁」だった。
彼は誰に対しても平等で、誰に対しても優しい。
部下のミスは自分の責任として静かに背負い、手柄は「みんなのおかげ」と笑って譲る。
その背中に、私は入社以来、ずっと憧れてきた。
(……でも、なんだろう。この物足りなさは)
オフィスを後にする同僚たちの波に乗りながら、私はこっそり振り返る。
九条さんは、デスクに置かれたタバコの箱を手に取ると、一人で喫煙所の方へと歩いていった。
その背中が、少しだけ疲れて見えた。
誰にも見せない、大人の溜息を吐きに行くような、その後ろ姿。
私にはまだ、踏み込むことが許されない聖域。
九条さんの「適切な距離感」の内側には、いったい何があるんだろう。
心臓の奥が、ちりりと疼く。
これがただの「尊敬」なら、こんなに胸が苦しいはずがないのに。
私は、鞄のストラップをぎゅっと握りしめた。
九条さん。
いつかその完璧な距離を、私が、ゼロにしてみせますから。
夜の赤坂。
湿った夜風に混じって、どこからか、ほんのりとタバコの匂いがした気がした。
第1話をお読みいただきありがとうございます!
完璧すぎて隙がない上司。
でも、そんな彼にグイグイいきたいヒロイン、凛。
次回、第2話は「徹夜明けの残り香」のお話です。
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