Cui Bono ?
「キュービット1Mを使う?」
マルティナの問いに、そう、と返したアイジュマルは、あっさりしたものだ。
「月見台の亜空間ドームのデータです」アイジュマルは扉に戻って、廊下に置いてあった自分の背の3分の2ほどもあるスーツケースを部屋に押し入れようとする。ステイがあわてて手伝った。
「10の18乗からゼタクラスのデータになったので、亜空間メモリーを使ってもこのサイズです。まあ、ほとんどはデジタル回路とのインターフェースですけど」
「ネット転送するわけにはいかないデータサイズだ」ボロルマーがため息をついた「キュービット1Mがあるのは、たしか…」
南極、マルティナが近い
「そりゃ、家はチリだから、南極はいちばん近いけどさ…」
「物理的にデジタル接続しても意味がないのです」アイジュマルが言う「複素共鳴でアナログ転送しなければ、キュービット1Mの真の能力を使えません」
「確率共鳴か」セベレが唸る「アレシボリプライ受信用の確率共鳴アンテナがシンガポールにある。当然、キュービット1Mも直接、確率共鳴ネットワークには繋がっているが…」
キュービット1Mは1310720個のキュービット素子を持つ量子アニーリングマシンだ。人類史上初めて、100万を超える絶対零度付近の極低温素子を繋ぎ合わせた、最大級の非ノイマン型コンピューターである。アレシボリプライの解析を最重要課題として設計された。量子ビットが極低温を必要とするために冷却効率を考えて、また、全世界での公正な運用という観点からも、南極に設置されている。
「シンガポール大学に確率共鳴ネットワークの利用予約はとっています」アイジュマルはソツがない「アレシボ茶会名義でね。アレシボリプライの解析という名目がありますから、利用は雑作なかった」
アレシボ茶会の唯一と言って良い強みだ。まだ、アレシボリプライの威光は使える
ティルフィアにしては珍しく、一見、ポジティブにも取れる意見だが、最近は別世界通信のほうが人気だ、との一言をつけなければ気が済まないところが、ティルフィアらしい。セベレは、もっと簡単に「使えるものは何でも使う」とうそぶいた
「でもさ」とマルティナが問う「量子アニーリングって、亜空間の解析には向かないんじゃなかった?」
「それは、そう」アイジュマルは素直に認めた「量子アニーリングは境界条件と束縛条件がきちんと定義された系でないとモデリングできない。亜空間は束縛が緩く、基底がゆらゆらと動くので、本来は量子アニーリング向きではない」
「じゃあ、やっぱり…」
「亜空間はそうだが、亜空間群体はそうでもない」
いままで口を閉ざしていたステイが、アイジュマルを擁護した。
「ええ、ジャック、その通りよ」アイジュマルがステイをファーストネーム、仮の名ではあったが、で呼んだのは本当に久しぶりだった「個々の亜空間は断片としてドームの中に散在する。亜空間同士の束縛は弱いけれど、月見台と周囲の成層圏という強力な境界条件があるから、解を収束させやすい」
「しかし、知りたいのは、亜空間ドームの実体ではなく、通過して月見台に入る亜空間走路のほうだ」ボロルマーが心配そうに言う「あいかわらず計算量としては膨大だ、なにせ本質的な無限大だからな」
「無限大であることに、確かに変わりはないけど」アイジュマルは負けない「月見台周辺に限れば、膨大な量の亜空間が合集している。それも、むりやり。相対的に走路として使える亜空間は極わずか、全体からの差分を取れば0・37%しかない」
「何か、そう聞くと、いけそうに思えるから不思議だ。アイジュマル、キミは詐欺師の才能がある」
おお、と室内にどよめきが起きた。アイジュマルに対してではない。ティルフィアが声を出したことにだ。
「まあ、本格的な話はディナーの後にしないか?」ホスト役のセベレがいったん話を打ち切った「実際、具体的な行動に言及するのは…、そうだ、10年ぶりだ。もう俺たちは逃げない。それが、わかっただけでも充分だ。あとは、ゆっくりやろう」
「ディナーの後、と言うのは賛成だ」ステイが言った「だが、それほど、ゆっくり、というわけには、いかないかもしれない」
「どういう意味だ」
「意味と言われたら返答に困るな」問われたステイは、セベレに微笑みかけた「L1天体が動く、確証はないが、そんな気がするんだ」
「おい、どうする気だ。このままじゃ、ステイが本当に行ってしまうぞ」
ボロルマーが、セベレの居室で怒鳴った。なぜか、ティルフィアとマルティナまでいる。あとはディナー後にと言った側から、ひっそり作戦会議というのも後手後手ではある。
「しかたないだろう」セベレはあきらめ半分だ「ステイはもう、我慢できなくなった」
「アイツに何があった」
「国王陛下が逝去…」
「…ああ、そうだが…、もう2ヶ月か、いや、まだ2ヶ月か…」
「どちらも同じことだ」
「ああ、正確に同じだ」ボロルマーはやっと声をひそめた「で、何があった? 権力闘争で負けた? 失脚?」
「そんな、いいもんじゃぁない」セベレはため息をついた「あいつは国民に愛されてた。国の中であいつを嫌ってるものなどいない。タイの希望の星だったからな。…オレとは大違いだ」
「俺、セベレのこと、それほど嫌いじゃないな」
「そいつは、ありがとう」セベレはティルフィアに礼を言った「お前がトンガ国民なら良かったんだがな」
「トンガ国民のことは後で話そう」ボロルマーは早口になる「代わりにモンゴルの民のことも言わないと約束する。結局のところ何があった? ステイは、…その、難しい方の名前はよく知らんが、即位しなかったんだろう?」
「父君が…、国王が…、いまわのきわに言ったんだ。『もう、我慢しなくて良い。やりたいことをやりなさい』と、誰も国王には逆らわなかった。それで、ステイは…。迷ったんだろうが…」
「やりたいことをすることにした、と」
そう言ったティルフィアは、セベレとボロルマーに睨まれたが、当人は平気の平左だ。
「ステイだけなら、まだしもね」マルティナもため息をつく「アイジュマルが、やる気まんまんだ。もう止めようがない」
「そう、彼女もだ」驚いたボロルマーが訊ねる「でも、なぜ?」
「んー、あれは、ステイよりもっと簡単。いや…、もっと面倒なのか」マルティナは頭を振った「たぶんマルティナの頭の中身は、いま、たった一人の男で占められてる」
「男?」
「吉祥頑頭、この間のL1会議に来てた」
「ああ、吉祥財団の」
「いや、吉祥財団は関係ないと思う。アイジュマルは昔から鈍い。古い知り合いなんだよ。結婚前は、そう、弓手頑頭という…」
「ガントーユーデだと」セベレが声を上げた「そんな…、どこかで見た顔だと思ってたが、吉祥に婿入りしてたのか、なんてことだ」
「10年前と同じだよ」ティルフィアは、まるで昨日のことのように語りだす「あの時も、同じことを話してた。誰が行って、誰が残るか。行きたいやつが行けばよい、って話になって、けっきょく、あの時は誰も行かなかったけど…」
「昔のことだ」
「いや、昔じゃない、まだ間に合う」ティルフィアは立ち上がり入り口へと向かった。そしてドアを開けると、一度だけ振り向いた「俺、行くよ。いまだから言うけど、セドリックのこと、あんまり嫌いじゃなかったんだ」
ドアがパタンと閉まり、
残った3人は、部屋の中で、ただ、うつむいていた。




