想い
数日が経ち、朱音は徐々にではあるが、表情に明るさを取り戻しつつあった。食事も以前と比べて食べる量も増えている。しかし、病院食とは味気の無い物である。
今、朱音の目の前にはカレーが置かれている。ゴロゴロとした野菜をスプーンで掻き分けると、細切れにされた肉らしき物が見え隠れしている。スパイスの香りに食欲が駆り立てられるが、口に含んだ途端にそれは幻想となり、朱音は鼻から溜め息を漏らした。
万人向けとは違う、カレー風味と言った言葉が似合うその食べ物を、朱音はゆっくりと食べ進めていく。
今日は休日ということもあり、病院の中はいつもよりも静かである。
と言うのも、ここの看護師はいささか声が大きい、扉を閉めても話している内容が聴き取れるくらいだ。その声が聞こえないのは、休日勤務で人が少ないからだろう。
加えて、明子と徹もいない為、一人寂しい昼食を取っているところだ。
病室の扉を叩く軽快な音の後、扉が開いた。
「いい匂いだな、今日はカレーかい」
病室の入り口から、匂いを嗅ぎながら快斗が入って来た。
「うん、でも期待しているカレーと違うよ」
朱音がスプーンでカレーを救い上げると、雛鳥の様に快斗がスプーンに喰らい付いた。
「確かに——これは無いな」
苦虫を噛んだ様な表情を見せる快斗に朱音の口元が緩む。その顔に快斗も笑みを溢した。
「叔母さん達は」
快斗が尋ねる。
「さあ、今日はまだ来て無いかな、居た方が良かった」
朱音はスプーンを置き、ナースコールを押した。
「いや、居た方がいいとか思って無いけど」
快斗が、歯切れの悪い返事をしていると扉が開かれた。(失礼します)の一言の後、看護師が入室して来た。
「月城さん、大分食べられる様になりましたね」
看護師の言葉に、朱音は笑顔で軽く会釈をする。
「彼氏さんの応援のお陰かな」
看護師が快斗に向かいお節介にも取れる一言を言い残して退出する。その背中に向かい、快斗は照れ隠しなのか頭を掻きながら会釈した。
「何照れているの」
朱音が微笑を浮かべ快斗を見る。
「いや、いきなりあんな事言われるからさ」
頬を赤くし、子供の様な言い訳をする快斗に朱音は目を細め視つめている。
「朱音は、恥ずかしくないのかよ」
不満げな表情で快斗が朱音に訊く。
「私はそういうの平気だから」
朱音は淑やか表情を見せ答えた。
「じゃ、何しても恥ずかしく無いんだな」
快斗がゆっくり朱音の顔に近付く。
「カレー、食べたばっかりだよ」
先ほどの淑やかな表情は何処に行ったのか、朱音は視線を伏せ答える。
「俺は気にしないよ」
そう言うと更に顔を近付けた。お互いの吐息を感じる距離になり、朱音は静かに目蓋を伏せ、快斗の唇を受け入れた。
抱きしめられたあの日から、幼馴染は愛する者へと変わり、快斗は時間があれば逢いに来てくれた。言葉にせずとも、愛されているのが解る。この時間が永遠であれば良いのにと朱音は強く願うのであった。
神崎が険しい表情で、パソコンに目を向けている。神崎の後ろに立つ看護師が口を開いた。
「先生、御家族にはいつ」
その言葉に深く溜め息を吐くと、日取りを決める様に看護師に指示を出した——。
明子と徹は、看護師から病状説明すると言われ診察室を訪れていた。重々しい空気が診察室を包む。神崎がその硬く閉ざしていた口を開いた。
「精密検査の結果、朱音さんの腫瘍は繊維性である事が解りました」
聴き慣れない言葉に徹と明子は、顔を見合わせ徹が神崎に確認をする。
「先生、繊維性とは何ですか」
神崎はゆっくりと息を吸い、声を押し出す様に二人に告げた。
「繊維性とは……悪性、つまり朱音さんの腫瘍が悪性であった事を意味します」
その告知に真っ先に明子が反応した。
「悪性って、良性の可能性が高いって言っていたじゃないですか」
明子は、声を震わせ今にも発狂しそうな表情で神崎に訴えた。
「レントゲンで見えていた以外に、心臓の筋肉自体に腫瘍が形成していたんです。この状態で、今まで症状が出ていなかったのも不思議なくらいです」
神崎の表情が更に険しくなる。
「この状態ですともって——一年かと」
告知を受けた明子は、頭を左右に振り下を向いた。
「嘘よ、なんで……なんで……あの子が」
嗚咽と自問自答を繰り返す明子を徹が自分に抱き寄せた。
「どうにか、どうにかならないんですか」
自身もまともな精神状態では無いであろう徹は、必死な形相で神崎に訴える。
「残念ですが、今の医療では、手術での切除や抗がん剤での縮小は出来ません」
自分の娘が死の宣告を受け、何も出来ない自分に悔し涙を流しながら、明子の背に顔を伏せた。
「ただ——一つだけ方法があります」
その言葉に二人は顔を上げた。
「心臓の移植です。他人の心臓を移植する事が出来れば、助かる可能性があります。」
明子が顔を上げ今にも神崎に縋り付く勢いで訊いた。
「移植すれば助かるんですか」
神崎は言葉を選んでいるのか慎重に話を進める。
「助かる可能性は百パーセントではありません。それにまず、ドナーが見つからない事には」
「それでも良いです。先生お願いします。朱音を——朱音を助けてください……お願いします」
懇願する明子に神崎は最善を尽くす事を約束した。
現代医学では限界がある。そんな事は理解した上で医師になった。助けられない命も看てきた。だが助けられないから、仕方がないなどと考える医師にだけはならないと、心に決めて今までやって来たのだ。看護師の誘導で診察室から二人が出た後、神崎は一人残った診察室で、パソコンの電源を落とした。光を失ったパソコンの画面に映る神崎の目には、強い意志が宿っていた。
告知を受けた明子と徹は、面会はせずにそのまま車に乗り込んだ。本当であれば、病室に行き抱きしめてやれたらと思う。しかし、今の自分達が会えばきっと朱音は自身に起きている事に気がつくだろう。助手席の明子は落ち着いてはいるが、手に握ったハンカチに顔を埋めている。徹は車内から朱音の病室がある辺りを見ると車のエンジンを掛けた。
自宅に着いた頃には、明子も泣くのを辞めていた。いや、涙も枯れ果てていたのだろう。リビングの椅子に腰を掛けた明子が口を開く。
「私があんな体に産んだせいで……」
「そんな事、あるわけ無いだろ」
自暴自棄になりかけている明子に徹が一喝する。
「お前のせいじゃ無い。先生もドナーが見つかったらって言っていただろ」
明子を宥めようと徹は思考を巡らせる。
「ドナーが見付から無かったら、一年しか生きる事が出来ないのよ。まだ十七歳なのにこんなのって無いわよ」
明子の赤らんだ目から、涙が再び溢れ出す。徹は椅子から立ち上がり、明子の側に行くと両肩を掴んで上体を起こした。
「今、俺たちが崩れたら誰があの子を守ってやれる。誰が支えてあげられる。あの子を守れるのは、母親のお前と俺だけなんだぞ、ドナーはきっと見付かる。信じよう、今は信じて待とう」
徹の言葉に崩れる落ちる明子を胸で受け止め抱きしめた。
明子が朱音を授かったのは二十七歳の頃だった。徹とは二十五歳で結婚し、裕福とは言わないがそれなりに充実した結婚生活を送っていた。ただ強いて言うなら、明子は子供が出来にくい体で、徹と一緒に妊活の講習に参加をしたり、排卵誘発剤などの薬を試すほどだった。
それでも全く妊娠しなかった訳では無い。子供をお腹に授かった時は二人で大いに喜んだ。しかし不運にも、お腹の中の子供はこの世に生を受けることが出来なかった。明子は、自分自身を責めた。子供も諦めようとも思った。そんな折れそうな心を徹は支え続けた。その献身的な姿が神に伝わったのか、辛い過去を乗り越えこの世に生を受けたのが朱音であった。明子が朱音に対して過保護になってしまうのは、過去の経験がそうさせてしまっているのかもしれない。弟の悠里が産まれ、明子は今までの苦労や辛い過去が報われたと思っていた。だが、今まさにそれが崩れ去ろうとしている。徹は明子を抱く最中、胸の内で神を罵った。なぜ妻が、娘がこんな目に合わなくてはならないのか、こんな絶望を与えるのくらいなら、最初から子供など授けなければ、こんな残酷な運命を背負う事も無かった。もう私たちに構わないでくれ。かつて神に感謝することも多くあった。朱音の誕生の時もそうだ。だが今はそんな気持ちは消え去っている。むしろ今、目の前に悪魔が現れ自分の命と引き換えにと、交渉される方がまだましだと思った。この残酷な運命に只々指を加えてその時を待つなどしない。最後の最後まで抗ってやると決意するのであった。
激しい怒号が体育館に響く、汗だくになり必死にボールに食らいつこうとする快斗の姿がそこにあった。
「咲沼——何してる。おい、前だ、前」
監督の桐沢の怒号が激しさを増す。けたたましいブザー音が休憩の合図を伝えた。息も絶え絶えになる快斗を桐沢が呼び付ける。
「おい、体調悪いのか」
桐沢の質問に荒くした呼吸で、絞り出すようにいいえと返答した。
「じゃあ何だ、今の」
快斗は返答できず立ちすくんでいた。その姿に桐沢がため息を吐く。
「お前いっとき来なくていいぞ」
確かにここ数日、思うように体が動いてはいなかった。だが決して練習に手を抜くことはしていない。
「何ぜですか、俺は……」
憤りを感じて反発する快斗の言葉を桐沢の怒号が遮る。
「邪魔なんだよ。お前な、あんなんじゃ周りが迷惑だ。自覚して無いのか」
調子が悪いのは自覚しているが、邪魔扱いされるほどの動きはしていない。
周囲も桐沢の発言にざわついていた。厳しい監督ではあるが、選手一人一人の事を考えて発言をする人で、厳しい練習でも文句を言う者は居なかった。それ故、一方的に言い放つその理不尽な言葉に戸惑った表情を見せていた。
「帰らないなら勝手にしろ、終わるまで外れていろ」
そう言うと桐沢は、快斗無しで練習を再開した。練習が終わり、選手が身仕度を始める。最後まで外野で練習を見ていた快斗も身仕度を始めた。
桐沢は、練習が終わると、そそくさと体育館から出て行った。それを見計らったかのように、部員達が快斗に集まる。
気にするな、あの発言は酷いなど、桐沢への批判と快斗への励ましの言葉が飛び交う。
「咲沼、ちょっと部室来い」
体育館の入り口から桐沢が顔を出した。急な桐沢の出現に周囲の部員が一斉に口を噤む。快斗は、怪訝な表情を浮かべ、言われるがまま桐沢と部室へ入る。
「さっきは悪かったな」
急な桐沢の謝罪に戸惑った。桐沢は、快斗を部室内のベンチに座るように指示し、快斗を座らせると話を続けた。
「ああでも言わないと、お前に休みを出せないだろ」
言っている意味が解らなかった。そんな考えを知ってかしらぬか桐沢はさらに話を続ける。
「お前の動きが、最近悪くなっているのも確かだ。でもな、そんな事じゃメンバーからは外さんよ。月城——幼馴染だったか」
桐沢の口から思いもしない名前が出てきて快斗は目を丸くした。
「まあ、本当は本人に話はするなと言われているけどな。職員会議で月城の今の状態を聞かされてな。お前ら、付き合っているんだろ」
どこから個人情報が漏れるかなど解らないが、戸惑いながらも桐沢の質問に、はいと答えた。
「月城の様態は知っているのか」
これに対しても快斗は、はいと答えた……」
数日前のことだ、快斗が自宅に居ると家のインターフォンが鳴った。鳴らしたのは朱音の父、徹だった。
少し話せないかと言われ、徹と近くの喫茶店へ足を運んだ。客は徹と快斗だけで、奥の仕切りのある席に案内された。
席につくと徹は珈琲を注文した。快斗も同じものをと店員に告げる。そう時間も掛からないうちに、店員が珈琲を二人分置いてくと神妙な面持ちで徹が話を始めた。
「快斗、話しておかなくてはならない事がある。」
歩いていて気づかなかったが、面と向かって座ったことで気が付いた。徹の顔が以前と比べ頬が痩けている。真剣な眼差しもどことなく力を感じられない。
「何ですか小父さん」
その様子から快斗も改めて襟を正した。
「悪性だそうだ。もって一年と言われた。この事はまだ朱音に話して無いが、あの子も感が鋭いからな。そろそろ話さないと、と思っている」
衝撃だった。あまりの衝撃に言葉を失う。返答する言葉が浮かばない。
朱音が一年で死ぬなどと今の今まで考えても無かった。息が詰まりそうな感覚が襲う。
「不思議だよな、今は至って普通にベッドに居るだけなのにな。でも、これからどうなって行くかは判らない。ドナーが見つかれば助かる可能性はあるそうだ」
平常心を保とうとしながら話をする徹に快斗は無言で傾聴した。
「それでな、快斗は今朱音と付き合っているよな」
快斗は頷いた。
「勝手な頼み事と知っていて頼む。朱音の残りの人生、出来る限り支えてやってもらえないか」
快斗は、異表を突かれた表情を見せた。徹の様子から心臓をくれとは言わないが、別れてくれなどの話をされるのではと、不安を抱いていたからだ。しかし、徹の頼み事は快斗の中で答えは決まっていた。
「小父さん、俺は、朱音に約束したんです。どんな姿、形になっても一緒に居るって、だから大丈夫ですよ。それにドナーが見つかれば助かも知れないんでしょ。僕は最後の最後まで朱音を守ろうと思っています」
朱音と同じ年の青年の言葉に徹は救われる思いだった。徹はゆっくりと快斗に向かい頭を下げた。
「すまない。本当は、支えてやりたい……それでも、埋められないものがあると気づいた時……どうしていいのか、あの子には幸せであってほしい。それが一年であっても、あの子が生きていたと実感してもらいたい……」
テーブルに額を付けたまま、悲痛な声で快斗に思いの丈を話す徹に快斗の目頭が熱くなる。
「小父さん、頭を上げてよ。俺、こんなんだけど、小父さんと小母さんの想いに応えられるように頑張るからさ」
「ありがとう、ありがとう……」
深々と頭を下げる徹の姿に、快斗はそっと手を差し伸べた……。
快斗は職員会議で聞いたであろう朱音の状況と徹との会話の内容を桐沢に話した。
桐沢は深く息を吸い込むと鼻から勢いよく吹き出し快斗の目をじっと見て口を開いた。
「咲沼、お前はうちのエースだ、みんなも言っている様に、俺もそう思っている。この一年でお前の高校でのバスケ人生は終わる。俺は、監督の前に一教師だ。お前に後悔する様な人生は歩んでほしく無い。だから、今はお前が後悔しない道を選択しろ」
桐沢の言葉が快斗の胸に刺さる。厳しくも温かい言葉に快斗は涙を流し自身の想いを口にする。
「居てあげたいです……最後まで、側に居たいです。」
その言葉に深々と頷き桐沢が答える。
「わかった。部員には上手く言っておく、それとな——咲沼お前の籍は残しておく不安になった時や辛くなった時はいつでも来い。頬の一発でも発って気合入れ直してやる」
快斗は、ベンチから立ち上がりその言葉に返答すると頭を下げ感謝の言葉を告げた。




