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白い雲を七色に染めて  作者: 孺 帆鞠
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挫折

高校生活、最後の地区予選を控えた大事な試合に向け、それまで仲の良かった部員達も周りをライバル視しているのであろう、雑談をする者など誰も居ない。朱音もその中の一人であり、繰り返し砂場を跳んでは、自身のホームを確認していた。なかなか思う様に跳ぶことが出来ない。

 苛立ちと焦りが、心臓を擽る。目蓋を伏せ、胸元のユニホームを掴む。

「大丈夫、跳べる。私は——跳べる」

 徐々に静けさを迎え、周囲の音も聴こえなくなった。深く息を吸い、朱音は勢いよく走り出した。風を切る音が耳に入り、さらに周囲の情報を遮断する。朱音は渾身の力で跳んだ。一瞬の滞空がとても緩やかな経過を辿り着地した。距離は——跳べたのだろうか。朱音は、体を起こし計測する後輩に視線を向けた。

「月城先輩、凄いですよ。ベスト更新です」

 満面の笑で後輩の一之瀬奈帆が駆け寄って来た。

「これならレギュラー入りも確実ですね」

 奈帆は、天真爛漫で人懐っこい子だ。私の事を慕ってくれていて、妹が居たらこんな感じなのだろう。

「ありがとう、奈帆ちゃん」

「立てますか」

 奈帆の差し出された手を掴み立ち上がった。

「私、飲み物持って来ますね」

 そう言い残すと、奈帆はベンチへ駆けていった。奈帆の後ろ姿を追い朱音は歩きだす。不思議だ、まるでスロー再生でテレビでも観ているかの様だ。周囲がゆっくりと動いている。空気が薄い——足に枷でも付けられているみたいだ。身体が重い……前に進む事が出来ない。

 さっきまで、奈帆の姿を追っていた瞳は、跳んだ後の映像と同じ広大な空を映し出していた。何故だろう……力が入らない。身体から自由が奪われ、意識が朦朧とする。奈帆の悲鳴にも似た叫び声が聴こえるが、遠く小さくなっていくのを感じた。消えゆく意識の中、朱音の瞳には、鮮やかな彩雲が映り込んでいた。

 

 意識が戻ったのはそれから数時間経った後である。窓から入る陽光が、黄昏時を知らせていた。目覚めてすぐに目に入ったのは白い天井、右手からは管が伸びスタンドに吊るされたボトルと繋がっている。ここが病院のベッドの上である事に気付くのに、そう時間は要さなかった。

 普通は、目覚めと共に親や友人の一人か二人かが歓喜の声を上げるものだが、ドラマの様には行かないらしい。六畳ほどの病室に刻々と時を刻む音が響いている。扉の向こう側から、こちらに近づいてくる足音に気付き視線を向けた。部屋にゆっくりと入って来たのは、母の明子であった。手元を見るとハンカチを持っていることから、手洗いにでも行っていたのだろう。私と目があった明子が、血相を変えて駆け寄って来た。

「もぉ心配したのよ。先生から電話があって、部活中に倒れたって聞いて、病院に来たら意識戻ってないし、お父さんは今先生に話を聞いていて、母さんもう、どうしていいのかって」

 怒涛の様に押し寄せてくる明子の言葉を、私は静かに聞いていた。しばらく、明子の一方的な話を聞いていると、再び扉が開き入って来たのは父の徹であった。

「おお、目が覚めたか」

 徹は明子とは対照的で口数は少なく、ベッド近くのパイプ椅子にどかっと腰を下ろした。腰に巻いてあるベルトに腹の肉が載っている。中肉中背とは徹のためにある言葉だろう。今は面影こそ無いが、学生時代は細身で女性からの支持もあったらしい。明子に体型のことを指摘されると、必ず学生時代の事を話し出すのだ。嫌でも私の記憶に擦り込まれている。そんな父でも、私にとっては目標でもあった。まだ朱音が幼い頃に、徹が学生時代の話をする中で、観せてくれたビデオがあった。そこには、走り幅跳びをする徹の姿が映し出されていた。助走から跳躍までの一連の動きに、朱音は目を奪われた。高く、遠くに跳ぶ父の姿に、子供ながらに感動したのだ。私が走り幅跳びを始めた切っ掛けである。試合で不甲斐ない成績であっても、私を責めたりはせずにホームの形や跳躍までの歩幅などをアドバイスしてくれていた。その為か徹の助言は、素直に受け止める事が出来る。

「先生に話を聴いて来た」

 いつもよりも真剣な表情で話し出す徹に朱音は襟を正した。

「お前も自分で決める事ができる歳だ。自分の病気を自分で聞くか、父さんから聞くかを選びなさい」

 いきなりの選択に私は困惑した。明子も徹に事情を確認しようとするが、徹は掌を明子に向け、明子は開けかけた口を噤んだ。

 徹の話から、私は何らかの病気であるのだと察した。恐らくこの予想は間違いないだろう。しかもこの話は、風邪や疲労といった軽い内容で無いことは明らかである。

 何という選択を娘にさせようとしているのか、腹立たしくはなったが、徹の瞳を見る限りどちらかを決めなければならないのは理解できた。明子も言葉を考えているのか、無言のまま私と徹とのやり取りを見つめている。私は沈黙の後、医師から説明を受けたいと徹に告げた。自らの人生を人伝で、聞きたくは無いと思ったからだ。徹はそれを聞くと数回頷き、そのまま病室から出て行った。

 しばらくして、徹が戻って来ると、その後から看護師が車椅子を押して入って来た。朱音は、ゆっくりと起き上がると、自身の足で立ち上がった。

 その行動に、看護師が慌てた様子で車椅子を差し出すが、その行為を断った。看護師の誘導に従い診察室に向かうと、診察室の中には五十代後半だろう男が、白衣を身に纏い重厚な椅子に腰をかけ、パソコンに視線を向けていた。

「先生、月城朱音さんです」

 そう告げると看護師は軽く会釈をして退出した。先生と呼ばれた男は、自身の座る椅子の向きを朱音の方に向けた。

「主治医の神崎と言います。まず、この画像を見ていただきたいんですが、これは貴女の心臓を撮った写真です」

 神崎は、パソコンの画面を朱音に向けると説明を始めた。

「心臓の下に水平に線が見えますかね。これが横隔膜という筋肉になります。普通は横隔膜のこの辺りまでが、心臓の大きさなのですが、貴女の心臓はそれよりも明らかに大きい」

 神崎は画像に自身の指で、境界を作り説明する。その後も、正常な心臓についての講義の様な話と、今起きているであろう症状を事細かく説明した。しかし、長々話をされたあげく、これだけでは確定診断出来ないと言われ、治療の以前に神崎の説明で、精神に病をきたす気がした。それでも、神崎の説明は続く。

 次に神崎は、断面的な画像を用いて説明をしてきた。内心、勿体ぶらずに早く結果だけ伝えて欲しい気持ちになっていた。

 集中力も限界に近づき、神崎の説明をボンヤリと聞いていると、耳を疑う単語が入って来た。

「腫瘍です」

「えっ……」

 その単語に朱音は我に帰る。

「ここになんですが……所に……」

 神崎の丁寧な説明が全く耳に入らない。腫瘍、つまりは癌のことである。まだ齢十七にして、しかも心臓に——体を支える筋肉に力が入らず今にも崩れそうだ。そんな私の体を支えたのは、父の徹だった。

 朱音の肩に置かれたその手からは、言葉で言わずとも伝わるものを感じる。その様子を見ていた神崎が朱音の心境を察したのか、これ以上の説明を受けるか否かの確認をして来た。私は最後まで説明を聴く事を神崎に告げる。

 心臓腫瘍とは、心臓にできる腫瘍で、比較的まれな病気である。私の場合、四分の三くらいは良性腫瘍である場合がほとんどであるとのことだった。しかし、腫瘍自体が剥がれたり、表面に付着した血の塊が剥がれたりすることで、末梢血管を詰まらせることがあり、突然死や重篤な塞栓症を招く恐れがある為、早期に手術で摘出することが勧められた。その為にも精密検査を行う必要があるとのことだった。そして、私にとって絶望的な宣告がされる。

「今後は、激しい運動は控える様にしてください」

 その一言は私にとって人生その物を否定されている感じがした。込み上げる涙を堪え、朱音は神崎に問い返す。

「もぉ陸上は……跳ぶことは出来ないってことですか」

「今の段階では、厳しいものがあります」

 絶望という波が押し寄せる。堪えていた涙が、自分の意思とは関係なく溢れ出ていた。

 

 申告を受けてから、何日経過しただろう。今は何時なのか、毎週楽しみにしていたドラマは、そんな事がどうでもよくなっている。

 食事も喉を通らず、気付けば体重は五キロも減っていた。目的を失った人間とは、こうも脆いものなのか、逆に笑いすら込み上げてくる。

 気がどうにかなりそうだ。いや、もう気に触れているのかもしれない。確か早期に手術と言われた気がしたが、あれからそれらしい話は聴いていない。明子が面会に来てくれているが、明子の口からは、手術のしゅの字も聴かれず、話すのは取り留めのない話ばかりだ。面会は私の希望で、家族のみにしていた。気を回されるのは余り好きでは無いし、私自身が、平常心で友人達に接する事がどうしても出来ないと思ったからだ。

 何故か、理由は簡単だ。私は——もう跳ぶ事が出来ない。手術が成功しても、成功しなくても、私は二度とあの場所に戻る事は出来ない。もう何もかもが疎ましく感じてしまう。

 絶望……簡単に口にするものでは無いが、今の私にはこの言葉がお似合いだ。

「朱音、聞いているの」

 朱音が瞼を開くと明子が視界にぬうっと顔を覗かせていた。

「何、どうしたの」

「どうしたの、じゃないでしょ。話しをしているのに、適当な返事しかしないじゃない」

 この母親は、今の私にそんなことを望むのか。

「快斗君、入ってもらってもいいでしょう」

 明子の言葉に、はっとした。

「快斗、何で、面会はしないって言ったよね」

「だから、さっきから貴女に訊いていたんじゃない。快斗君ね、貴女が心配で家まで来てくれたのよ」

 明子は優しい母親だが、優し過ぎるが故に暴走する。

 朱音は、言葉になら無いくらいの怒号を上げそうになった。

「ごめん、いいかな……」

 扉が開き声を掛けて来たのは、快斗だった。

「貴女が、面会を断っているのも解るけど、快斗君は幼馴染じゃない。ずっと心配していたのよ、だから快斗君ぐらいは、面会してもいいかなって思ったの」

 快斗の背後から、明子がバツの悪そうな表情で朱音に話しかける。

 心配しているからと言って娘の意思を何だと思っているのだろうか、怒りを通り過ごして呆れてしまう。快斗も悪気があるわけでも無いし、今更帰れとも言えない。朱音はため息を吐いた。

「お母さん飲み物買って来るね。快斗君、お茶でいいかな」

 快斗はお構い無くと対応するが、明子は気にしない様にと諭し、余計な事に病室に備えてある椅子を私の横に置く始末だ。快斗は勧められるがまま椅子に腰を掛けた。それを確認すると、明子は足早に病室から退出して行った。数分の沈黙を病室に響く秒針の音が物語る。

「ごめんね。バスケ忙しい時に」

 沈黙に耐え切れず、口火を切ったのは朱音だった。

「何言っているんだよ。そんな事、朱音が気にするなよ。こうして話せて安心した」

 快斗の顔を真面に見る事が出来ない。さっきまで見上げていた顔が今は、直ぐ横にあるからだ。

 心臓がいつもよりも強く弾むのが解る。心臓の病気なのに、快斗が帰ったらあの母親に一言、言ってやる。

「どうした。何か顔怖いよ」

 苦笑いで快斗が顔を覗かせる。いったいどんな顔をしていたのだろうか、我に返るのと同時に快斗と視線が合った。

 こんなにも近くで、快斗の顔を見るのは久しぶりだが、それとは違う感情が込み上げるのは、言わずとも解るだろう。朱音は、とっさに快斗とは反対の窓の方に顔を向けた。

「でも、会ってびっくりしたでしょ、結構痩せたんだよ。病院のご飯って少なくてさ」

 食欲が無いとは言えなかった。何故、こんな嘘を付いたのか私自身も驚いている。

「心臓に癌があるんだって、手術をすれば治るみたいだけど、傷残るのかな——残るだろうね。手術だもんね。でさ……先生に言われちゃった。もう……跳べ無いんだって、成功しても、心臓に負担かけられないって……」

 いつもの私と違い口数が多い。快斗に弱った自分を見せたくない一心だった。

「何の為に……陸上やっていたんだろうね。本当……何で私なのか」

 言葉が詰まる。弱さを見せない様にと、話をしたつもりだったが、これではとんだ笑い種だ。

 そう思うと自分が情けなくなり、目から止め処なく涙が溢れてきた。

 顔を見せないようにと、窓を向いていた朱音の体が快斗の方に引き寄せられる。見ると快斗の腕が朱音を包み込んでいた。

 朱音は、快斗の腕に手を掛けた。昔はこんなにも大きくなかった、そしてこんなにも、安心感を受けたことはなかった。

「強がんなよ。どんな姿でも、何があっても、俺の中では朱音は朱音だから」

 背中から快斗の温もりを感じる。抱きしめられている腕の締め付けが、先ほどよりも強くなった。

「ずっと頑張っていたもんな」

 その言葉に返事を返す事が出来ず、頷くことしか出来なかった。

「ごめんな、今の俺には、朱音をこうすることしか出来なくて」

 涙で視界がぼやける。快斗は悪くない、快斗が謝ることなど何もないのに、快斗の言葉を否定する様に朱音は頭を横に振った。

「俺が側に居るから」

 その言葉に、ずっと溜め込んでいた物が、ダムが決壊したごとく涙と共に流れ出た。

「辞めたくない……もっと、もっと跳びたかった……快斗、私頑張っていたのに、何で私なの……」

 朱音は快斗の腕を掴んで思いの丈を声にした。快斗は朱音の一言一言に頷いた。快斗の存在が朱音の冷めきった心を溶かしていくのであった。

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