幼馴染
窓から見える桜、人は綺麗やら何やら言っては、この木を眺めているのだろう。私も桜は、嫌いではない。しかし、今は満開に咲く淡い桃色も、どこか胸に支えた思いになる。
「お母さん、カーテンを閉めて……」
月城朱音は、窓の方から視線を母親に向けた。
「こんないい天気なのに、少しは日差しも浴びないと」
「いいから、閉めて……」
母の明子は、朱音に言われるがままカーテンを閉めた。明子は優しい人だ。昔から私の事を心配してくれる。私が、我が儘を口にしても、叱る訳でも無く話を聴いてくれる。過保護とは、こう言う事を指すのだろうとつくづく思う。
だが、そんな優しさも今の朱音にとっては、憂鬱な種でしかない。何もかもが嫌になる。生きていて何になるのか、いっそ誰かに殺された方が楽になるやもしれない。
いや、他人に迷惑を掛けるくらいなら、自らこの生涯の幕を閉じる方が潔い。数ヶ月前までは、朱音も普通の高校生と何ら変わらない生活を送っていた。変わらない日々であったが、今となってはその変わらない日常が幸せだったと思う。そんな事を考えながら、朱音は静かに目蓋を伏せた……。
「ここの数式を当てはめると……」
教師の声を遮る様にチャイムが鳴った。こうなると誰も教師の声など耳に入らなくなる。「ここテストに出すからな。ノート取っとけよ」
教師の言葉に、数人が気怠そうに返事をしている。退屈な学校生活も昼休みになると賑やかな空間へと変わるのは、何処の学校も同じである。それぞれが、グループに分かれ持ち寄った食事と雑談に華を咲かせる。朱音もまたそのグループの一つに属していた。
「聞いた二年の……トラックと事故ったんだって」
やたらと周囲の情報に詳しい学生とは、何処の学校にも居るもので、この三上小百合もその一人だ。
「えっそれって、どうなったの」
クラスメイトの椎名綾子が、身を乗り出す勢いで小百合の話に耳を傾ける。二人はその話で多いに盛り上がっていたが、私としては、食事中に事故だの何だのといった話をするのは、食欲が失せてしまう。暫く二人の会話を傍観していると、話は女子生徒が好きな恋の話に変わる。
「そう言えばさ、朱音どうなっているの」
急な小百合の質問に、思わず朱音は目を丸くした。
「何が」
「何がじゃないでしょ。咲沼君とまだ付き合ってないの」
小百合の言う咲沼とは、幼少期から一緒に遊んでいた幼馴染のことだ。
「別に何もないよ。そもそも幼馴染だし」
素っ気ない朱音の態度に綾子が輪を掛ける。
「本当に——咲沼君って、結構他の女子からも人気だよ」
「へぇ、知らなかった」
「またまた——ほら、噂をすれば」
綾子の指示する方向に目をやると、同じクラスの男子生徒に用があるのか、咲沼快斗が扉の前で話をしていた。百八十程の背丈と端正な顔立ちは、モデルを彷彿とさせる。小学生の頃は、いつも私の後ろを着いて歩いては、私の言うことに二言返事で行動していた。近所では、よく姉と弟などと勘違いをされるくらいであった。中学二年までは、同じくらいの背丈であったが、気付けば私が見上げる形になっていた。
高校に入って、前のように一緒に居る時間は減り、お互いに話す時間も少なくなっていた。快斗はその容姿の為、周囲の女子からは一目を置かれていた。その為、聞かずとも快斗の事は耳に入って来る。
快斗に対して、恋愛感情などを抱いたことは無かった。部活や勉強ばかりで、そんな事を考える余裕が無かったからだ……。
他校との練習試合を、食事をしている目の前の二人に、強引に連れられて観に行ったことがある……。
バスケットシューズの擦れる音とボールの弾む音が、体育館内に響く。快斗の投げたボールが、綺麗な放物線を描きゴールポストに入ると、黄色い声援がより一層体育館内を包んだ。二階から試合を観る朱音の方に、快斗が手を振った。すると、それに応える様に朱音の周りの女子が甲高い声を上げ、快斗に手を振り返している。
「ねぇ快斗君、朱音に手を振っているんじゃない」
小百合が朱音に訊いた。
「そんなわけないでしょ」
小百合の言葉に朱音は失笑し快斗の方を見ると、快斗の視線はこちらに向いたままであった。
「いや、そうだよ。手を振ってあげなよ」
綾子が朱音の背中を叩きながら促した。
「いいよ、恥ずかしいでしょ」
「いいから早くほら、快人君行っちゃうよ」
二人の勢いに根負けし、朱音は軽く手首を返した。そして、快斗に向かい小さく左右に振ると、快斗は満足そうな笑みを浮かべチームメイトのもとに戻って行った。
何だ、今の笑顔は——たまたま私が手を振った時に、他の女子と目が合ったから笑ったのか……それとも、私のあの素っ気ない手の振りに喜んだのか……。
顔は見慣れているはずなのに、その屈託の無い笑顔にむず痒さを感じ、朱音は思わず顔を伏せた。体育館に密集する人のせいか、急に体が熱くなる。
あの試合以来か、あまり快斗を直視することが出来なくなったのは——思えばこの日を境に、私の中で、快斗を幼馴染では無く異性として意識する様になっていた。
「ねぇ、声を掛けなくてもいいの」
快斗の姿に見惚れている朱音に、小百合がしたり顔で煽る。
「何で、いいよ別に話すことなんて無いし」
朱音は視線を自身の弁当に向けた。
「またまた、一緒にご飯食べる——とかね」
「わかる。いいな、幼馴染がイケメンとか」
小百合と綾子は、朱音そっち退けで盛り上がっている。
「あのね、幼馴染だからってそんないい事ばっかりじゃ——」
二人の茶化しに耐え切れず、朱音が反論しようとした時であった。
「幼馴染がどうしたって」
朱音のすぐ後で質問を投げかけたのは、快斗であった。小動物が驚くと、一瞬体が硬直してしまうと聴いたことがあったが、私にも今同じことが起きている。
「よっ、朱音」
朱音の肩に快斗が手を置いた。全身の筋肉が、緊張しているのが解る。それはまるで触られている肩から、電気でも流れて来ているかの様な感覚であった。
「なっ、何男子と話していたんじゃないの」
朱音は、裏返りそうな声を必死で抑え快斗に訊いた。
「あぁ、借りていた教科書を返しに来たんだよ。そしたら何か楽しそうだったから、来ちった」
来ちった——では無い、何処の方言だ。
「ねぇ、咲沼君って彼女居るの」
小百合が暴投にも近い様な質問をする。頭の中で、一度口から出して良いのかを脳内会議してほしいと思うくらいだ。
「彼女——居ないよ」
快斗は、こう言った類の質問に慣れているのか、間髪入れずに返答している。
「えっじゃあ、好きな人とかは」
続けざまに綾子が問い掛けた。この二人を見ていると、混ぜるな危険と言う言葉が頭を過ぎる。
「居ると言えば……居るな」
朱音の横で記者会見でも行われているのか、何の躊躇もなく返答する快斗に、朱音は不安すら覚える。
しかし、快斗に好きな人が居るとは、朱音自身聴いたことは無かった。気付けば朱音だけでなく、周囲の女子生徒が聞き耳を立てている。
「もう、いいでしょ。早くご飯食べないと昼休み終わるよ。快斗もほら、自分の教室に戻って」
これから盛り上がって来そうなところに、水を刺すのは心苦しいが、このままでは、食事もさせて貰えなそうだ。
「え——」
小百合と綾子が声を合わせた。
「え——じゃない」
朱音は、母親が子供を宥める様に二人を諭すと、再び自身の弁当に視線を向けた。
「じゃあ俺も戻るよ——の前に頂き」
快斗は、朱音の弁当から卵焼きを摘み出すと、自身の口に放り込んだ。
「あっ、私の卵焼き、快斗あんたね」
箸を置き、立ち上がろうとする朱音だったが、時すでに遅く、快斗は教室のドアまで逃げていた。
「卵焼きご馳走さん」
そう言うと、快斗は手を振りそそくさと教室から退散するのであった。
「彼奴、今度あったら」
右手を握り締め、鬼の形相で朱音は呟いた。
「うん、もうカップルの日常じゃん」
小百合の一言に、綾子が頭を立てに振りながら笑いを堪えている。そんな二人のやりとりに、朱音は冷ややかな視線を向けていた。
放課後になり、足早に帰宅する学生たちの中、朱音は部室へと向かっていた。後ろの方から、朱音を呼び止める声がする。朱音は聞こえてはいたが、振り向こうとはしなかった。何
故なら、声の主は快斗だからである。食べ物の恨みとはよく言ったもので、よくもまあ、笑って声が掛けられるものかと、そんな事を考えると、振り向く気などにならない。そんな気持ちを知ってか知らずか、快斗は朱音の横に並ぶ形で歩き出した。
「なぁ朱音、もしかして怒ってる」
朱音の顔色を気にして、快斗が顔を覗かせる。
「別に、怒ってない」
言葉とは裏腹に、朱音は快斗と視線を合わせない。
「いや、怒ってんじゃんよ。卵焼き食べたの謝るからさ」
快斗は両手を合わせて、朱音に頭を下げた。
朱音の中では、怒りはとうに消えていた。ただ、感情の起伏と食べ物の恨みは別物である。
「クレープ……」
「えっ」
「駅前のクレープ、それで許してあげる」
「クレープ……じゃあ、今度の日曜とかでいいか」
「うん……じゃあ、部活あるから」
そう告げると朱音は足早に部室へと向かった。残された快斗は、あっという間の出来事に呆然と立ち尽くしていた。
「あいつ、クレープとか好きだったかな……卵焼き高く付いたな……」
快斗は笑みを溢し、呟きながら自身も部室へと向かうのであった。その頃の朱音はと言うと、部室の中に設置してあるベンチに座り、顔を両手で覆っていた。
私は何を言った。私は、なんて事を言ったんだ。あれじゃデートに誘ったみたいだ。
「クレープって、甘い物あんまり食べないのに……」
自身が取った行動に、恥ずかしさと後悔の念に苛まれながら、一人ベンチで悶えるのであった。
雀の鳴き声と共に、朱音は目を覚ました。予定していた時間よりも、早く目覚めてしまった。夜に携帯のアラームをセットして寝たのだが、必要なかったようだ。普段ならアラームが鳴っても、目覚めるのに時間を要している。日曜日なら尚更である。これも快斗の影響かと感じながら、ゆっくりと朱音は洗面台へと向かった。家族はまだ寝ているのだろう。起こすと色々と面倒な事になると思いながら足を進める。洗面台で一通り身なりを整える。そこは、朱音も年頃の女性である。鏡に写る顔を左に右にと向きを変えては、念入りに確認をしていた——とその時である。
「姉ちゃん、何してるの」
急な声に驚き背筋が真っ直ぐになった。鏡越しに見ると悠里が、まだ眠たげな様子で朱音の後ろに立っていた。悠里は、歳が離れた朱音の弟である。
「どっ、どうしたの」
朱音は自身が鏡の前でした事を悠里に悟られまいと、動揺する気持ちを抑えながら訊いた。
「おしっこ……」
そう言うと、悠里はそのままトイレに入っていった。朱音はほっと一息付き、自分の部屋へと向かおうとした時である。
「どっか行くの」
トイレの扉を開けたまま、悠里が朱音の背中に問い掛けてきた。
朱音は、蜻蛉返りをして悠里に詰め寄った。
「一人で買い物、扉は閉める。わかった」
いつもよりも低い声色の朱音に、悠里は小刻みに頭を縦に振った。それを確認すると勢い良くトイレの扉を閉め、朱音は部屋へと戻るのであった。
部屋までの階段を登る最中、部屋からけたたましいアラーム音が鳴り響く。朱音は、慌てて部屋に入ると携帯のアラームを止めた。周囲に聞き耳を立てるが、両親が起きた様子は無い。快斗との約束の時間まで三時間程ある。朱音は、クローゼットから上下の衣類を数枚取り出しベッドに並べた。それらを手に取ると、頭を傾けたり、時には唸ったり、何処かのデザイナー宛らに私服を吟味していた。気がつけば、悩み出して三十分以上も経過している。
しかし、決め手に欠けていた。そんな時、壁のコルクボードの写真が目に入る。朱音は、何かに取り憑かれたかの様にクローゼットに手を伸ばした。
雑踏の中、朱音は快斗の到着を待っていた。この鏡で出来た巨大な建造物は誰が作ったのか、最初は不思議でならなかったが、成る程——待ち合わせの場所としては申し分ない。私の他にも、この建造物を待ち合わせに指定する人も多いようだ。予定よりも早く到着してしまった。家族に気付かれない様にと、家を早めに出たのが仇となった。まあ、そのお陰でこうして鏡の前で、自分の姿を確認する余裕があるのだが——。
「朱音」
声に驚き振り向くと、快斗が手を振りながら駆け寄ってきた。快斗は予定よりも早く来たつもりなのだろう、私が先に待っていた事に驚いてる様だ。
「ごめん、待った」
遅れて来る者は、皆同じ台詞でもあるのではないのかと——そしてその答えも、おおかた決まっている。
「大丈夫、今来たとこ」
快斗は、白のパーカーに黒のコーチジャケット、黒のチノパンといったコーディネートだ。まるでファッション雑誌から飛び出て来たかの様な姿に目を奪われる。身長も高いせいであろう、周囲の快斗に向けられる視線を感じる。ふと、快斗の顔を見ると私を見て呆然としていた。快斗が、呆然とするのも無理はない。白のパーカーにグレーのタイトスカート、シンプルではあるが、快斗の前で、学生服以外のスカートを履いている姿を見せた事が無かった。陸上のイメージが強い私が、タイトスカートを着るなど、快斗に予測出来るはずも無い。
そして呆然としている一番の理由は、この白のパーカーであろう。お揃いの色だからという理由では無い。私が今着ているパーカーは、高校一年の時に、快斗が私の誕生日に送ってくれた物だ。その時は、男っぽい服にあまり喜ぶことが出来ず、着たのはいいが仏頂面で誕生日写真を撮ったきり、クローゼットに眠っていたのだ。コルクボードにこの日の写真が貼られて無ければ、私は未だに服を選んでいたかもしれない。
「似合って……無いかな」
不安げに朱音は、快斗に訊いた。
「いや、似合ってるよ。うん、似合ってる」
「何で二回言ったの」
目を細め、怪訝そうに快斗を見つめる。
「大事な事だから、二回言ったんだよ」
慌てて弁解する快斗を朱音はほくそ笑んだ。予定ではクレープを買うだけなのだが、早く合流出来た為、少し街を探索する事にした。高校生が町を歩いても、大半はウインドウショッピングになる。ペットショップに至っては、猫か犬かで揉めたりはしたが、それでも充実した時間を快斗と過ごすことが出来た。一通り街を探索した後、目的のクレープを買い帰途に着こうとしていた。快斗と一緒に過ごす時間が、こんなにも楽しく感じたのは初めてだ。これも快斗を意識しているからだろう。
そんな快斗も、朱音と同じ気持ちであった。子供と呼ばれる歳から、一緒に過ごして来た。年月を重ねるごとに、少しずつ朱音を一人の女性として意識し、距離を縮めようと奮闘していた。そんな快斗にとって、今回の朱音からの誘いは、思い掛け無い幸運であった。
今日の快斗は、朱音に自身の想いを告げようと浮き足立っていた。朱音に約束を取り告げば良い話なのだろうが、上手く誘える自信が無い。それにこの機を逃せば、胸に秘めた想いを伝える事が出来ずに高校生活を終える様な気がしたからだ。
そんな快斗の雰囲気に朱音も何処となく気付くものがあったのだろう、視界に快斗が入らない様に街並みに視線を向けたり、時に快斗の横顔を見ては直ぐに前を向き直すなど、落ち着がない様子だ。
「あのさ……」
快斗が心なしか不安げに言葉を発する。
「なに……」
「こうやって二人で遊ぶのも久しぶりだよな」
「そうだね、久しぶりだね」
「あ——あのペットショップの猫の顔面白かったよな」
「んっ、そうだね。確かに独特な顔だったね……」
「……ムスッとした時の朱音の顔みたいでさ」
「……はぁっ」
朱音の鋭い眼光が快斗に向けられる。
「ごめん……」
それから快斗は、朱音の家までたわいの無い話を続けたが、結局最後まで朱音に気持ちを伝える事が出来ず、家の前で別れるのであった。
朱音は告白をされるのではと、少し期待をしていたのだが、快斗の肝心な所で腰が引ける性格は高校生になっても変わらぬものだなと、落胆しながら快斗の後ろ姿に目を向けていた。
気のせいか、快斗の肩が落ちているように朱音の目には映った。こんな時、快斗を呼び止めて、駆け寄り胸に飛び込むのがドラマティックなのだろう。
「快斗……」
朱音がゆっくりと快斗の方に歩みを進める。快斗は急な呼び止めに振り返り、何事かと目を丸くしていた。朱音は、快斗の前に立つと快斗を見上げて呟いた。
「目を瞑って……」
快斗は急な事で動揺が隠せない様だった。朱音の言葉に緊張と期待を巡らせて快斗は目を閉じる。次の瞬間、腹部に強い衝撃が走った。目を開けると朱音の右の拳が、快斗の腹部を見事に捉えているではないか。
「さようなら」
思わぬ言葉と腹部の痛みに動きが鈍る。そんな快斗に目もくれず朱音は踵を返した。朱音を呼び止め様と口を開くが、今起こった衝撃に快斗の思考は追い付かず、言葉を発する事が出来無いでいた。自身の不甲斐無さに後悔という波が押し寄せる。その時である。朱音が振り返り快斗を見つめ口を開く。
「次は……ちゃんと言ってよね」
夕陽のせいか、快斗の目に映る朱音の頬が赤らんで見えていた。