3-2.玻璃の娘
『木陰の盛り場』という木造りの酒場は昼間だというのに人であふれ、中には外套や頭巾をかぶったものもちらほらおり、ここならノーラはそのままの格好でいても違和感がない。馴染みだというハンブレが主人に適当な料理を注文してから、地下に降りる。地下にも人は多少いたが、札遊びに夢中になっているものが大半で、こちらを気にする様子はほとんどなく、内心安心した。その中でも席を取った奥は広く、ハンブレは机をはさんで一人で、カインたちは彼と向かい合うように繋がった木の長椅子に腰かける。
ハンブレの話が、闘技会におけるカインの功績をたたえる噂で領都は持ちきりだということに始まって、今度開かれるという競馬大会の話題に差しかかったところで料理が運ばれてきた。主人が持ってきてくれた料理は焼いた肉が中心で、他にも様々な種類の牛酪に焼いた卵と野菜、茸の盛り合わせ、葡萄酒、薄い麺麭などとカインの腹を鳴らすに十分な香りを放っている。一口大に切られた肉は塩と香草で味付けされており、しばらくの間久しぶりの豪勢な料理に話もそこそこに舌鼓を打った。特に肉は絶妙な焼き加減で、少し生だ。柔らかさを伴った肉の味には甘みもあり、ノーラも相変わらず丁寧な所作だが夢中で食べている。その間にも話は尽きない。やはりノーラがいてくれて助かった。レフの集落についてごまかしつつ、黒い光のことだけを聞いたハンブレが、興味深そうに瞳を輝かせた。
「黒い光、ね。初めて聞いたよ、そんなの」
「ハンブレも知らないのか」
「うん、初めて聞いた。ふぅん、黒い光……『詞亡くし者』にそんなものがあるなんてね」
生姜と赤茄子の焼き汁がかかった茸を咀嚼し終え、まるきり落胆とわかるため息をつくと、ハンブレは指先で小鳥の餌程度ほどに小さくちぎった牛酪を己の口に投げこんで笑みを深める。
「僕なら知っているとでも? 君は僕のことをなんだと思っているのさ」
「物知りな琴弾き」
「得体の知れない変人」
肉を食べ終えたノーラと声がかぶった。思わず二人で視線を合わせる。ノーラは信じられないものを見たかのような目つきを作るが、すぐに逸らした。それを見ていたハンブレが、くつくつと耐えきれないように笑いがこもった声をこぼす。
「ありがたいお言葉感謝するよ。一曲披露する?」
「いらない」
ノーラはいつものようにすげない態度をハンブレにとるが、彼は気にした様子もなく肩をすくめてみせた。ノーラも全く気負うことなく椅子の横に置いた書物に目をやり、それから葡萄酒で喉を潤してから口を開いた。
「僕の方でも色々調べてみたけれど、やはりそんな記述はどこにもなかった。もっと古い文献ならもしかすればあるかもしれないけれど、キュトススではこれが手一杯」
「そうか……そのもっと古い文献とやらは、どこにならあるんだ?」
「王都かな。でも、王立図書館も神殿も写本を共有してるから、ここで見つからない文献を探すには別の神殿か、王族専用の宮廷図書室辺りを探さないといけないはずだよ」
「麗智神の方にも栄護神の方の神殿にも、写本は見つからない。秘匿とされているのかも」
完全に手詰まりだとカインは思い、大きく息を吐く。内密にされている文書や本は大抵、貴族だとか王族とかが所持していて、一般の目に触れることはない。あるいはフィージィなら、とそこまで考えてやめた。彼女が加わればもっとややこしいことになりそうだと感じたし、何より彼女を傷つけたという想いの小さな棘がカインの胸をうずかせたから。
「それにしても君は面白いね、カイン。そんなものまで見るなんて。一体君は何者なんだろう」
内心を突かれたなんてことのない言葉に思わずぎくりとして、手に持っていた食刺を落としそうになった。まるで見計らったかのようにノーラが椅子を引いてくれたおかげで、なんとか取り澄ました顔を作ることはできたけれど。葡萄酒を追加してくる、そう言ってノーラは立ち上がり、普段よりゆっくりとした動きで席を離れてゆく。ノーラの姿が完全に見えなくなったところで、ハンブレはそっと、顔を近づけながら笑みをそのままにささやいた。
「ところで、その『詞亡くし者』はどうしたの? まさか見逃したわけじゃあないよね」
「……殺した」
「ノーラが? それとも君が?」
「俺だ」
「なるほど、荒れてた原因はそれか」
的を射た、といわんばかりにハンブレが薄水色の瞳を細め、カインの内心をえぐるみたいに楽しそうな笑い声を上げた。
「人じゃあないのに殺したことを自分で咎めてる。異常だね」
「元は、人だ」
異常と言われ、思わず反論していた。確かにそうかもしれない――己だけが気に病みすぎなのだという考えを何日繰り返しただろう。でも結局、黒い光の謎がそれにはつきまとい、荒れた経緯をたった一言で表されて、カインは図星を突かれたときのようにむっとしたけれど、ハンブレは目を瞬かせて異様なものを眺める視線でこちらを見つめてくる。
「彼らは詞亡王の人形だよ。人も<妖種>も命令さえ下れば誰でも殺す存在に、何をそんなに入れこんでいるの?」
「彼女は話した、最期は人だったように俺は思う」
「話した? 『詞亡くし者』が? それこそ驚きだよ」
カインは小さく唇を噛みしめた。むきになってつい、いらないことまで口にしてしまう。ノーラがいてくれたら何か別の話題にしてくれていただろう、それができない己を悔やむ。もしこれがただの『詞亡くし者』なら、己はこんなに悩んではいない。それを知らないハンブレは話題を変える気はさらさらないようで、肉を一かけ食べて、つまらなそうにため息をついた。
「なんにせよ異常すぎる事態に君は出会したわけだ。ノーラも。どうして言ってくれないのかなあ」
「すぐに歌にするからだろう」
非難をこめて言ってみるも、当然でしょう、と反論することなく肯定され、カインは無性に頭を掻きむしりたい気持ちに駆られた。しばらくぎこちない沈黙が降りて、その間にもノーラが返ってくる様子は微塵もなく、なんとなく落ち着かない。話題が尽きてカインはしばらく野菜をつつくが、すでに腹は満ち、口に入れるまでには遠い。ハンブレはじっとこちらを見つめていて、視線は外れることなくカインを射貫く。まるで全てを見通そうとするかのような瞳は美しいが、今のカインにとっては苛立ちの元だ。意固地になって野菜を口に入れたとき、あ、とハンブレが唐突に声を上げた。
「そういえば君は、『玻璃の娘』の話を聞いたことはある?」
「玻璃の……娘?」
「生まれながらにして何色も持たない、異質な存在たる娘の話。でも、黒でもない。殊魂が【水晶】……玻璃なんだ。全てが透明、それこそ髪から瞳まで、全部がね。もちろんまっさらだから言葉も話せない。『詞亡くし者』のようにね」
ん、と小さく咳払いをしたハンブレが、何かを思い出す面持ちで居住まいを正し、虚空に描かれた楽譜をなぞるみたいに人差し指を振る。
其は硝子より危うき玻璃の人形
無垢たるものを秘めし、人ならざる歪みの結晶
さりとて野山は愛するだろう 十二の神に見捨てられし娘を
あらゆる危険がその身に及ぶことがない限り
目を閉じて小声で歌うハンブレの声はいつものように美しく澄み渡り、それこそ玻璃のようにカインは感じる。詩の旋律にたゆたうように恍惚とした顔で瞳を開けると、ハンブレは笑みを深めた。
「彼女は最初、色を持てなかった。人や世界との交流を経て色と言葉を後天的に持ち合わせた、生ける伝承さ」
「そんな人間がいるのか……? 生きていられたとは到底思えないが」
「笑い話の種にされてる類いのものだからね。『決導神ファーヴ』が戯れに生み出したっていう、さ。黒に対してもしかしたら何らかの対抗処置を持っている、そんな風に考える琴弾きだっている。馬鹿だよねえ、別に僕たち、殊魂学者じゃあないのに」
笑いながらハンブレは、鳥がそうするように軽く両手を広げた。
「あり得ないかもしれないけど、その『詞亡し者』は玻璃の娘で、黒に汚染された。最期に想いを口にすることだけができた。そう考えておけば?」
レフィナは違う、と口に出さずにカインは小さく頭を振った。レフィナは元はレフと同じ殊魂を持っていたはずだ。だから玻璃の娘とやらではない。ハンブレの言葉は虚ろに等しく心に何も響かない。でももし、と野菜を咀嚼しながら思う。そうであっても、きっと己は悩み、苦悶しただろう。人を殺すことが怨嗟の連続を生むという事実は、レフの態度でもわかったほどだ。ノーラはどう思っているのだろう。仲間殺しのプラセオとして恨みを背負った彼女は、その連鎖を断ち切ることができるのだろうか。プラセオ次第、ソズムの言葉が反芻されて、陰鬱な気分になる。
ノーラは未だ帰らずのまま、残された書物だけがぽつんと置かれている。そこだけ切り離されたかのような空間に、カインはハンブレの歌を思い出す。孤高と孤独。ノーラはどっちで、そして己はどちらになるのだろう。少なくとも、と食刺をおいて残りの葡萄酒を飲み干した。ハンブレとわかり合えそうにない今は、孤独だ。ハンブレは意に介した様子もなく、そこに作られた彫像然とした存在感をしっかりと保っており、敏腕の職人が丹精に磨いたみたいな美貌を崩すことはない。沈黙に揺らぐことのない彼は孤高の方だな、となんとなく思ったとき、牛酪を食べ終えたハンブレが首を伸ばしてカインの背後を見やる。
「ベリ、遅いね。見てきてくれる? 誰かに絡まれてるかもしれないし」
「わかった」
ほとんどすれ違う会話を続けることは、これ以上カインになんの実りももたらさないだろう。結局黒い光のこともわからないままだし、そもそも思考のずれが大きい。カインは早々に席を立ち、ハンブレに背を向けて酒場の中を辿っていく。酒精の匂いをまき散らしながら札遊びで笑う男たちの声を背に、カインはノーラを探す。耳をそばだて、談笑し合う人々の声音の中にノーラのものがないか探したが、それらしいものは聞こえてこない。注文をしにいった、ということはもしかしたら一階にいるのかもしれない、そう思い、階段を使い人であふれた酒場の中を見て回ると、木製の長机を挟んで誰かと話しているノーラの後ろ姿があった。
「ベリ」
そう声をかけて、体が固まった。ノーラの身長を超えて見える翡翠色の髪には嫌でも見覚えがあった。 喉が渇くように引きつる。ノーラがこちらを振り返る。相手の男もまた、こちらに視線を流してくる。
「デュー……」
「……カイン」
デューの後ろにいた隻腕の男が、親分、と怯えのこもった声を出した。




