第三十二話:これからも続く夜
黒田を見送った後、灯は、フロントの窓辺に立ち、夜空を見上げた。一年前、緊張しながら、初めてこのフロントに立った日のことを、灯は、ふと思い出していた。
「結城さん、一年間、お疲れ様でした」
桐生が、静かに、労いの言葉をかけてきた。
「桐生さんの、ご指導のおかげです。それに」
灯は、少し離れた場所で、真剣に業務をこなす三笠に、視線を向けた。
「三笠さんという、後輩もできて。この一年で、随分と、色々なことが、変わりました」
「変わったのは、周りの環境だけじゃないだろう。結城さん自身も、随分と、成長した」
その言葉に、灯は、少し照れくさそうに、微笑んだ。
「まだまだ、学ぶことばかりです。城崎様のような、難しいお客様への対応も、非常事態への対応も、経験するたびに、新しい発見があります」
「それでいい。この仕事に、"完成"はない。日々、お客様と向き合いながら、少しずつ、経験を積み重ねていくものだ」
桐生は、窓の外の、夜景を見つめながら、続けた。
「深夜という時間は、これからも、変わらず、様々な事情を抱えた人々を、迎え入れ続けるだろう。その一つ一つに、丁寧に向き合っていくことこそが、俺たちの、変わらぬ使命だ」
「はい」
灯は、深く頷きながら、フロントカウンターに、そっと手を置いた。この一年間、数え切れないほどの客と出会い、それぞれの"言えない事情"に、寄り添ってきた。時には、上手くいかないこともあったが、その一つ一つが、確かに、灯自身を、成長させてくれていた。
「三笠さん、少し、こちらへ」
灯が声をかけると、三笠が、駆け寄ってきた。
「今夜は、私が入社して、ちょうど一年になる日なんです」
「そうだったんですね! おめでとうございます」
「ありがとうございます。三笠さんが、こうして、頼もしい後輩になってくれたことも、この一年の、大きな収穫の一つです」
三笠は、少し照れくさそうに、はにかんだ。
「これからも、色々と、教えてください」
「もちろんです。一緒に、頑張っていきましょう」
窓の外、秋の澄んだ夜空に、星々が、静かに輝いていた。深夜のホテル・ノクターンには、今夜もまた、様々な事情を抱えた人々が、静かに訪れることだろう。
家出を決意した会社員、就職活動に悩む若者、長年の後悔に区切りをつけようとする人、大切な人との思い出を辿る人、そして、時には、命に関わる、緊急の出来事も。
その一つ一つに、丁寧に、そして、真摯に向き合っていくこと。それこそが、結城灯という、一人の夜間コンシェルジュの、そして、このホテルで働く、すべてのスタッフたちの、変わらぬ使命だった。
一年という月日を経て、灯は、確かに、この仕事の、本当の意味を、少しずつ、掴み始めていた。だが、この物語は、まだ、終わらない。
深夜零時、今夜もまた、ホテル・ノクターンの扉が、静かに開かれる。新しい客が、新しい"言えない事情"を抱えて、この場所を訪れる。そして、灯は、今夜もまた、フロントカウンターの内側で、静かに、その事情に、寄り添う準備を整えているのだった。
(第十部・完)
――結城灯の物語は、これからも、深夜のホテルの片隅で、静かに、続いていく。




