第三十話:受け継がれる味
翌朝、男性は、晴れやかな表情で、チェックアウトの手続きに訪れた。
「昨夜は、本当に、ありがとうございました。心残りが、一つ、なくなった気がします」
「またいつでも、いらしてください」
「そうさせてもらえたら、嬉しいがね」
男性は、少し悪戯っぽく笑いながら、続けた。
「実は、あのレシピを、書き留めておいてもらえないだろうか。娘に、伝えておきたいと思ってね」
「かしこまりました。シェフに、お伝えしておきます」
その日、灯は、シェフに、男性の願いを伝えた。シェフは、快く、丁寧なレシピを書き記し、男性へと届けた。
「これで、娘さんにも、お母様の味を、伝えていけますね」
「ああ。これも、あなた方の、おかげだ」
男性は、深く頭を下げると、静かに、ホテルを後にしていった。
数ヶ月後、灯の元に、一通の手紙が届いた。差出人は、あの男性の娘だった。
『先日は、父が、大変お世話になりました。父は、先月、静かに、旅立ちました。最後まで、あの夜のことを、幸せそうに、話してくれていました。いただいたレシピは、私が、これからも、大切に受け継いでいくつもりです。本当に、ありがとうございました』
その手紙を読み終え、灯は、静かに、目を閉じた。悲しみと、感謝の入り混じった、複雑な気持ちが、胸に広がる。
「桐生さん、これを」
灯は、手紙を、桐生に見せた。桐生は、丁寧に、目を通した後、静かに頷いた。
「一つの、想いが、しっかりと、受け継がれたんだな」
「はい。少しでも、お力になれて、良かったです」
灯は、窓の外の、夏の夜空を見上げながら、静かに思った。深夜のホテルには、時に、こうした、切実な願いを抱えた客も訪れる。その一つ一つに、丁寧に向き合い、力になれること。それこそが、この仕事の、かけがえのない意義なのだと、改めて実感していた。
結城灯という、一人の夜間コンシェルジュの物語は、こうして、また一つ、大切な想いを、丁寧に、紡いでいくのだった。
(第九部・完)




