第九部:深夜の特別なひと皿 第二十八話:記憶の中の味
夏の盛りが近づいたある夜、フロントに、痩せ型の年配の男性が、静かに訪れた。長期の療養から、久しぶりに外出したという雰囲気の、どこか儚げな様子だった。
「チェックインを、お願いします」
「かしこまりました」
手続きを進める中、灯は、男性の様子に、そっと気を配った。荷物は少なく、薬袋らしきものが、鞄の口から、僅かに覗いている。
「お部屋で、何か、ご入用のものがございましたら、いつでもお申し付けください」
「……ありがとう。実は、一つ、無理を言っても、いいだろうか」
「はい、なんなりと」
男性は、少し躊躇いながら、静かに切り出した。
「私は、余命が、あまり長くないと、医者に言われていましてね。最後に、どうしても、もう一度、食べたい料理があるんです」
その言葉の重みに、灯は、思わず、居住まいを正した。
「差し支えなければ、詳しく、お聞かせいただけますか」
「亡くなった、母が、よく作ってくれた、家庭料理でしてね。名前も、正式なレシピも、分からないんですが……確か、根菜と、鶏肉を、甘辛く煮込んだ、素朴な料理でした」
男性は、懐かしそうに、目を細めた。
「子供の頃、体調を崩すたびに、母が、作ってくれた料理です。あの味を、もう一度、口にしてから、逝きたいと、思っていましてね」
灯は、その切実な願いに、深く胸を打たれた。
「かしこまりました。厨房のシェフに、相談させていただいてもよろしいでしょうか」
「無理を言って、すまないね」
「いいえ。少しでも、力になれれば、幸いです」
灯は、すぐさま、厨房へと向かい、シェフに事情を説明した。長年、ホテルの料理を支えてきたベテランシェフは、真剣な表情で、話を聞いてくれた。
「根菜と、鶏肉の、甘辛煮込みか。家庭料理となると、地域や、各家庭で、随分と、味付けが違うものだが」
「お客様の記憶を、頼りに、なんとか、再現していただくことは、可能でしょうか」
シェフは、少し考えた後、静かに頷いた。
「詳しく、お客様から、お話を伺えるだろうか。味の記憶というのは、案外、色々な手がかりを持っているものだ」
翌日、灯は、シェフと共に、男性の部屋を訪れた。シェフは、丁寧に、当時の記憶を、聞き出していった。
「甘辛い、というのは、具体的に、どのような味わいでしたか。醤油ベースでしょうか、それとも、味噌ベースでしょうか」
「……醤油、だったと思います。それに、少し、生姜の香りがした気がします」
「根菜は、どのような種類が、入っていましたか」
「大根と、人参、それから……里芋も、入っていたような」
一つ一つの記憶を、丁寧に拾い集めながら、シェフは、真剣な表情で、メモを取っていった。




