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『愛していない』と言われたので離縁届を出したら、旦那様の守護竜が私についてきました 〜三年間、毎晩竜の炎を鎮めていたのは私です〜

掲載日:2026/06/30

フェルンの炎が、また竜舎の床を焼いた。


夜明け前。


屋敷の者たちがまだ眠っている時間に、私は石床へ膝をついた。床は夜の冷たさを残しているはずなのに、竜の吐いた熱で、膝のあたりだけがじっとりと温かい。


「大丈夫。今夜も大丈夫よ」


竜の喉の奥で、低い唸り声が震える。


爪が石床を掻いた。


こちらを見ているのに、目だけが逃げ場を探している。


辺境伯家の守護竜フェルンは、夜になると魔力が乱れる。


特に北東の国境から魔力の波が流れてくる夜はひどい。竜舎の壁は焦げ、鉄の鎖は熱を持ち、近づいた竜騎士は一歩で膝をつく。


それでも、私は近づく。


三年間、そうしてきた。


「息を吸って」


フェルンに人の言葉がどこまで通じているのか、正確なところは分からない。


でも、私の声を聞くと、彼は炎を少しだけ弱める。


「そう。いい子ね」


鼻先に触れると、手袋越しでも熱が伝わってきた。皮膚の奥がじりじりと焼け、思わず指が浮きそうになる。


けれど、ここで手を離すとフェルンの呼吸がまた乱れる。


フェルンの魔力は、力で押さえつけると余計に暴れる。呼吸に合わせて、逃がす道を作ってあげなければならない。


私は低く詠唱した。


母から教わった古い鎮静詠唱。


嫁ぐ前は、こんなものが何の役に立つのかと思っていた。


役に立った。


婚礼の夜、フェルンが暴れた。


竜騎士たちは逃げ、エルハルト様も怪我人を連れて外へ出た。


残ったのは、なぜか私だけだった。


それが始まりだった。


怖くなかったわけではない。


足は震えていたし、喉は張りついて、詠唱の最初の一音も出なかった。


逃げようと思った。


本当に思った。


けれど、フェルンがこちらを見た。


焼こうとしている目ではなかった。


扉の方を見て、私を見て、また扉の方を見た。


逃げ道を探しているのに、どこへも行けない獣の目だった。


その夜から、私は毎晩ここへ来ている。


炎の強さを記録する。

鱗の熱を測る。

魔力の流れを読む。

国境から届く魔力の波を、フェルンの呼吸で確かめる。


王都から竜魔術の文献を取り寄せるたび、照合用として記録の写しを返送した。


返ってくるのは、いつも事務的な受領印だけ。


一度だけ、受領印の横に見慣れない部署名が押されていた。


結界局保管。


それを見た時は、竜魔術の文献はずいぶん細かく管理されるのだと思っただけだった。


手袋は、季節ごとに替えた。


春用も、夏用も、冬の厚手のものも、最後は同じように指先から黒くなった。


屋敷の者たちは、私が竜舎に入り浸る変わった奥方だと思っている。


竜騎士たちは、フェルンが最近大人しくなったのは、辺境伯であるエルハルト様の威光だと思っている。


そして、エルハルト様ご本人もそう思っている。


「うちの守護竜は、昔からよく従う」


彼は客人にそう言って笑う。


フェルンが大人しいのは、昔から従順だからではない。


毎晩、炎を鎮めている者がいるからだ。


そう言いたくなったことは、何度もある。


言おうと思えば、いつでも言えた。


けれど、口に出そうとすると決まって、母の声がどこかから戻ってくる。


妻は家の内側を整えるものです、と。


褒められるために働くものではありません、と。


そんな言葉、今なら古いと分かる。


分かるのに、喉の奥に引っかかったまま取れなかった。


いつか、誰かが気づく。


できれば、あの人が。


そういうことにして、三年が過ぎた。


フェルンの炎が、ゆっくりと消えていく。


竜舎の中に、焦げた石と冷えた灰の匂いが残った。


私は詠唱を止め、フェルンの鼻先を撫でる。


「おしまい。よく頑張ったわ」


フェルンは目を細めた。


その大きな頭が、私の肩にそっと寄せられる。


重い。


けれど、嫌ではない。


むしろ、この屋敷で私のことを待ってくれているのは、フェルンだけかもしれなかった。


「もう朝ね。私は戻るわ」


立ち上がろうとすると、フェルンが私の袖を軽く咥えた。


牙を立てないように、布だけを器用に。


「フェルン?」


フェルンは放さない。


私は小さく笑った。


「大丈夫。今夜も来るわ」


そう言うと、フェルンはようやく袖を放した。


竜舎を出ると、東の空が白み始めていた。


屋敷の窓には、まだ灯りがない。


エルハルト様は、今夜もよく眠れたのだろう。


それは良いことだ。


辺境伯が眠れる夜は、領地が平和な夜なのだから。


私は、そう思うことにした。


自室に戻ると、侍女のミラが洗面台の脇に新しい手袋を置いていた。


古い手袋は、指先が黒く焦げている。


ミラはそれを見ても、何も聞かなかった。


ただ、いつものように頭を下げる。


「替えをお出ししておきます、奥様」


「ありがとう」


それだけだった。


私も、それ以上は言わなかった。


その日の夕方、エルハルト様は珍しく早く屋敷へ戻った。


玄関広間に出迎えた私は、彼の隣に知らない女性がいることに気づいた。


淡い金の髪。

白い肌。

王都で流行している薄桃色のドレス。


彼女は、いかにも守ってあげたくなるような儚げな人だった。


「お帰りなさいませ、エルハルト様」


私が頭を下げると、エルハルト様は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「リーナ。話がある」


「はい」


「彼女はシルヴィア。王都から来た男爵令嬢だ」


シルヴィア様は、小さく会釈した。


「突然お邪魔して申し訳ありません、奥様」


「遠いところをよくお越しくださいました」


私は微笑んだ。


そうする以外、思いつかなかった。


エルハルト様は、ほっとしたように息を吐いた。


その息の軽さに、私は少しだけ目を伏せた。


「シルヴィアは王都で身寄りを失った。しばらく、この屋敷で預かる」


「そうですか」


「昔からの知人だ。私の……初恋の相手でもある」


玄関広間にいた使用人たちの気配が、わずかに揺れた。


シルヴィア様がうつむく。


エルハルト様は、悪いことを言っている顔ではなかった。


むしろ、誠実に説明しているつもりの顔だった。


「誤解しないでほしい。彼女は本当に困っている。放っておけなかった」


「承知いたしました」


私は一度、手袋の指先を見た。


朝替えたばかりなのに、爪の横がもう少し黒ずんでいる。


「客間を用意いたします。東側の部屋なら日当たりも良く、暖炉の煙も入りにくいです」


口は、いつもの奥方の仕事を選んでいた。


それが少し、腹立たしかった。


「助かる」


エルハルト様は頷いた。


「リーナ、君はいつも竜舎の方にいるだろう。屋敷のことは気にしなくていい。シルヴィアのことはこちらで見る」


屋敷のことは気にしなくていい。


君はいつも竜舎の方にいるだろう。


すぐには何も感じなかった。


私は東側の客間の鍵を誰に取りに行かせるか考え、暖炉の灰を替えさせる手順まで頭の中で並べた。


それから、遅れて気づいた。


いま私は、夫から屋敷の外側の人間として扱われたのだ。


「分かりました」


私は笑った。


笑えたことに、自分で少し驚いた。


「では、シルヴィア様のことは旦那様にお任せいたします」


「頼む」


頼む。


その言葉も、いつも通りだった。


私は、いつも頼まれていなかったことをやっていた。


頼まれなかったから、感謝もされなかった。


ただ、それだけのことだった。


その夜、私はいつも通り竜舎へ向かった。


廊下の角で、シルヴィア様と出くわした。


彼女は薄い肩掛けを羽織り、少し不安そうに立っていた。


「奥様」


「シルヴィア様。どうされました?」


「その、竜の声が聞こえて……少し怖くて」


「今の時間は、フェルンの魔力が乱れやすいのです。竜舎には近づかない方がよろしいですよ」


「奥様は毎晩行かれるのですか?」


「はい」


私が答えると、シルヴィア様は小さく目を伏せた。


「エルハルト様がおっしゃっていました。奥様は昔から竜舎がお好きなのだと」


「そうですか」


「でも……少し寂しそうでした。奥様がいつも竜舎にいらっしゃるから、屋敷ではお一人の時間が長かったのだと」


たぶん、悪意ではなかった。


彼女はただ、聞いたことをそのまま信じている顔をしていた。


だからこそ、返す言葉が見つからなかった。


私が竜舎にいたから、エルハルト様が寂しかった。


そう見えていたのか。


私が毎晩何をしていたのかを知らない人から見れば、きっとそうなのだろう。


「そうですね」


私は微笑んだ。


「私は、屋敷にいる時間が少なかったかもしれません」


シルヴィア様は、少しほっとしたように笑った。


「奥様はお優しいのですね」


優しい。


その言葉が、今夜は少しだけ遠く聞こえた。


私は彼女に会釈して、竜舎へ向かった。


フェルンは起きていた。


私の足音を待っていたように、竜舎の奥からこちらを見ている。


「フェルン」


呼ぶと、フェルンはゆっくり首を下げた。


いつもなら、私はすぐに鱗の熱を見る。


けれど、その夜は少しだけ動けなかった。


竜舎の石壁にもたれて、私は息を吐く。


「ねえ、フェルン」


フェルンの瞳が、私を見下ろす。


「三年間、私はここで何をしていたのかしら」


フェルンが低く鳴いた。


私は苦笑した。


「あなたに聞くことではないわね」


フェルンは、鼻先で私の手を押した。


まるで、触れろと言うように。


私は手袋をはめ直し、鱗に触れた。


熱い。


今夜も魔力が荒れている。


北東から魔力の波が来ているのだろう。


私は詠唱を始めた。


けれど、三節目で声が止まった。


間違えたわけではない。


忘れたわけでもない。


ただ、続きを口にしたくなかった。


フェルンの鱗は熱い。


今夜も、いつも通り熱い。


なのに私の手だけが、どこか他人のものみたいだった。


「フェルン」


私は鱗に額を寄せた。


「明日からは、別の人に来てもらえるようにするわ」


フェルンの呼吸が止まった。


ように思えた。


「私は、少し休むことにする」


フェルンの尾が、石床を打った。


低い音が竜舎に響く。


怒っている。


いや、違う。


嫌がっているのだ。


「大丈夫。王都には竜使いの研究官もいるし、私より詳しい人だっているはずよ」


フェルンはじっと私を見た。


その目を見ていると、胸が苦しくなる。


翌朝、私は王都の法務局へ手紙を書いた。


離縁手続きについて確認したい、と。


貴族の婚姻は、簡単には解消できない。


けれど、辺境伯家の婚姻契約には特殊な条項があった。


子がなく、双方の合意があり、領地継承に支障がなければ、離縁は可能。


私とエルハルト様の間に子はいない。


夫婦らしい時間も、ほとんどなかった。


最初から、政略結婚だった。


それでも、私は夫婦になれると思っていた。


愛がなくても、信頼は築けると思っていた。


でも、信頼とは、たぶん、話を聞くところから始まる。


少なくとも私は、そうしてほしかった。


机に離縁届を広げる。


名前を書く前に、手が止まった。


三年間のことが、ひとつずつ頭に浮かんだ。


婚礼の夜、暴れるフェルンの前に立ったこと。


王都から古い竜魔術の文献を取り寄せたこと。


魔力の乱れと天候、月齢、国境の反応を記録したこと。


フェルンが北東を向いて唸る夜には、必ず国境の結界が揺れていたこと。


竜の炎は、ただの暴走ではなかった。


フェルンは知らせていたのだ。


北東の森が危ない。

魔脈が乱れている。

国境の守りに綻びがある。


私はそれを鎮め、記録し続けた。


その記録は、すべて竜舎の奥の棚にある。


エルハルト様にも見せたことがある。


けれど彼は、疲れた顔で言った。


「リーナ、私は魔術の細かい話は分からない。フェルンが落ち着いているなら、それでいい」


それでいい。


そう。


フェルンが落ち着いているなら、それでいい。


誰が落ち着かせているのかなど、きっと重要ではなかった。


私はペンを取った。


リーナ・エルヴェルト。


結婚してからの名前。


その文字を見て、少しだけ迷った。


それから、もう一枚の紙を出す。


リーナ・クライス。


結婚前の名前で、私は後任への引き継ぎ書を書き始めた。


フェルンが夜にどんな順番で魔力を乱すのか、どの鱗なら触れても怒らないのか、炎が青く変わった時はどの詠唱を使うのか。


北東へ向かって唸った時だけは、決して鎖で押さえてはいけない。


あれは暴走ではなく、国境の異常を知らせる合図だから。


そう書いたところで、ペン先が止まった。


三年間を紙にまとめるには、あまりに多すぎた。


昼過ぎ、私は竜舎へ行った。


フェルンはすぐにこちらを向いた。


私が持っている書類を見たのか、低く唸る。


「フェルン」


近づくと、フェルンは私の袖を咥えた。


昨日よりも強く。


「離して」


フェルンは離さない。


「困るわ。これでは歩けない」


フェルンは、さらに首を下げる。


行くな。


そう言っているようだった。


「私は、あなたの主人ではないのよ」


フェルンが首を振った。


ゆっくりと。


はっきりと。


「あなたの主人は、エルハルト様でしょう」


フェルンはもう一度、首を振った。


私は動けなくなった。


フェルンは、言い訳をしない。


私を見て、首を振る。


それだけだった。


それだけなのに、三年分のどんな言葉より、よほど分かりやすかった。


「……優しくしないで」


私はフェルンの鼻先に手を置いた。


「今そんなことをされたら、私は自分がかわいそうになってしまう」


フェルンの喉から、小さな音が漏れた。


それは、炎の音ではなかった。


泣き声に似ていた。


夕方、私はエルハルト様の執務室を訪ねた。


彼は机に向かっていた。


窓際には、シルヴィア様が座っている。


彼女は刺繍をしていたが、私を見ると慌てて立ち上がった。


「奥様。私、席を外します」


「いえ。そのままで結構です」


私がそう言うと、彼女は不安そうにエルハルト様を見た。


その視線が、少しだけ胸に刺さった。


彼女はもう、この屋敷で夫を見ることを許されている。


私は三年間、夫の横顔すら遠慮して見ていたのに。


エルハルト様が眉を寄せる。


「どうした、リーナ」


私は書類を机に置いた。


「こちらに署名をお願いいたします」


「何だ?」


彼が書類に目を落とす。


そして、表情を変えた。


「離縁届?」


「はい」


沈黙が落ちた。


シルヴィア様が小さく息を呑む。


エルハルト様は、信じられないものを見るように私を見た。


「何の冗談だ」


「冗談ではありません」


「なぜ急に」


急に。


その言葉は、予想していたのに、やはり痛かった。


「急ではありません」


「リーナ」


「ただ、旦那様が気づかなかっただけです」


エルハルト様は黙った。


私は静かに続ける。


「シルヴィア様を責めるつもりはありません。困っている方を助けたいという旦那様のお考えも、理解できます」


「なら、なぜ」


「私は、この屋敷で妻の席に座っておりません」


「そんなことはない」


「では、昨夜フェルンが鳴いた時、旦那様は私がどこへ行くと思われましたか」


エルハルト様は答えなかった。


「竜舎でしょう。旦那様にとって、私はそこにいる者です」


エルハルト様の眉が深くなる。


「君は私の妻だ」


「そうでした」


自分の声が、思ったより穏やかだった。


「でも、旦那様は私を愛してはいらっしゃらないでしょう」


エルハルト様は、すぐには答えなかった。


それが答えだった。


シルヴィア様が青ざめる。


エルハルト様はしばらく黙ったあと、低く言った。


「……君も、それは分かっていると思っていた」


胸の奥で、今度こそ何かがはっきり切れた。


分かっていると思っていた。


その一言で、三年間の曖昧な希望は終わった。


「はい。分かっておりました」


私は頷いた。


「愛されていなくても、夫婦として領地の役に立てればよいと思っていました」


「リーナ、私は」


「ですが、旦那様は私が何をしていたかもご存じありません」


エルハルト様が口を閉じた。


「私はいつも竜舎にいました。旦那様のおっしゃる通りです。屋敷のことは、ほとんどしておりませんでした」


「そんな意味で言ったのではない」


「では、どんな意味だったのでしょう」


私が尋ねると、エルハルト様は答えられなかった。


「フェルンの管理記録は竜舎の奥の棚にあります。夜間の魔力変化、鎮静詠唱、北東国境との反応もまとめてあります。後任の方にお渡しください」


「後任?」


「はい。私は今日で竜舎の管理も退きます」


遠くで、何かが砕ける音がした。


続いて、竜の咆哮。


屋敷の窓が震え、シルヴィア様が悲鳴を上げた。


「フェルンか?」


エルハルト様が椅子を蹴るように立ち上がる。


廊下の向こうから、使用人の叫び声が重なった。


「竜舎の扉が――!」


「フェルン様が外へ出られました!」


エルハルト様は執務室を飛び出した。


私も後を追う。


玄関広間を抜け、前庭へ出ると、銀灰色の巨体が馬車の前に座り込んでいた。


私が用意していた馬車だった。


フェルンは翼を畳み、前庭の石畳に爪を立てている。


怒っているわけではない。


行かせない、と言っているようだった。


「フェルン!」


エルハルト様が叫んだ。


「戻れ!」


フェルンは動かなかった。


「戻れと言っている!」


竜は、エルハルト様を見なかった。


その目は、私だけを見ていた。


竜騎士たちが槍を持って集まってくる。


使用人たちは柱の陰に隠れ、シルヴィア様は青ざめた顔で立ち尽くしていた。


私は一歩、前に出た。


「フェルン」


フェルンは、私の前で首を下げた。


前庭のざわめきが止まる。


誰かが小さく、「まさか」と呟いた。


竜が頭を下げる。


それは、ただ懐いている仕草ではない。


古い竜が相手を認めた時にだけ見せる姿勢だと、文献にはあった。


本当に見る日が来るとは思っていなかった。


「私は行くの」


フェルンは動かない。


「あなたはここに残るのよ」


フェルンは、さらに首を低くした。


まるで、背に乗れと言うように。


その時、屋敷の門の外が騒がしくなった。


王宮の紋章をつけた騎士が、馬から飛び降りる。


「辺境伯閣下!」


「今は取り込み中だ」


「北東結界が揺れています」


その一言で、エルハルト様の顔から色が引いた。


「規模は」


「昨夜から拡大。王宮結界局が、こちらの竜舎記録を要求しています」


「竜舎記録?」


騎士はそこで、私を見た。


「記録者は、リーナ・エルヴェルト様で間違いありませんか」


前庭の視線が、一斉にこちらへ向いた。


エルハルト様も、ゆっくり私を見る。


「リーナ」


私は答えなかった。


答える前に、もう一台の馬車が門をくぐってきた。


王宮結界局の紋章。


降りてきたのは、白髪混じりの女性だった。


彼女は前庭に座るフェルンを見て、眉を上げる。


「……ずいぶん分かりやすいことになっていますね」


王宮騎士が頭を下げた。


「アガサ研究官」


アガサ様と呼ばれた女性は、私の前まで歩いてきた。


「あなたがリーナ様?」


「はい」


「三年間、フェルン殿の夜間魔力を記録していたのは」


「私です」


「鎮静詠唱も?」


「はい」


「毎晩?」


「ほとんどは。安定している日は、記録だけの日もありました」


アガサ様は、そこで少し黙った。


それから、竜騎士たちを見た。


「記録帳は」


誰もすぐには動かなかった。


「竜舎の奥の棚です」


私が言うと、若い竜騎士が慌てて走っていった。


しばらくして運ばれてきた帳面は、前庭の机に置かれた。


表紙の端は煤け、角は何度も開いたせいで丸くなっている。


アガサ様は数ページめくった。


炎の色。


鱗の熱。


北東の方角。


月齢。


国境結界の反応。


詠唱の効果。


異常時の処置。


ページをめくる音だけが、やけに大きかった。


「誰ですか」


アガサ様が低く言った。


「これを、奥方の趣味だと言ったのは」


誰も答えなかった。


エルハルト様も。


「これは管理記録です。しかも、王宮側の補修判断とかなり一致している。偶然ではありません」


竜騎士の一人が、槍を下ろした。


「では、奥様が……」


「少なくとも、国境結界の維持に使える記録を三年間出し続けていた、ということです」


エルハルト様が、記録帳を見つめていた。


「私は……知らなかった」


その声は、前より小さかった。


私は彼を見た。


「申し上げました」


エルハルト様の顔が強張る。


「何度か、申し上げました。フェルンの魔力の乱れは、国境の魔脈と関係があるかもしれないと」


彼は口を開いた。


けれど、言葉は出なかった。


覚えているのだろう。


あるいは、今、ようやく思い出したのだろう。


「旦那様はおっしゃいました。魔術の細かい話は分からない。フェルンが落ち着いているなら、それでいい、と」


エルハルト様は目を伏せた。


シルヴィア様が、柱のそばで震える声を出した。


「私……奥様は、竜舎の方が落ち着く方なのだと」


シルヴィア様は、そこで言葉を止めた。


「だから、私がここにいても、奥様はあまりお気になさらないと……そう聞いていました」


責める気にはなれなかった。


彼女は、エルハルト様の見ていた私しか知らなかったのだ。


アガサ様は帳面を閉じた。


「リーナ様。あなたには王宮で事情を説明していただきます」


「私が、ですか」


「ええ。フェルン殿も、あなたから離すべきではないでしょう。少なくとも今は」


フェルンが低く喉を鳴らした。


まるで、その通りだと言うように。


エルハルト様が一歩近づく。


「リーナ」


フェルンの喉が、低く震えた。


私は鼻先に手を置いた。


「大丈夫」


音が少しだけ弱まる。


それを見て、エルハルト様の表情が歪んだ。


彼にも、ようやく分かったのだろう。


この竜が誰の声を聞くのか。


誰の手で落ち着くのか。


「離縁届は、考え直してくれないか」


私は少し黙った。


欲しかった言葉ではあった。


でも、欲しかった時に欲しかった形で届かなかったものは、もう別のものになっている。


「そのままにしてください」


「リーナ」


「フェルンの件は、引き継ぎます。国境結界のことも、王宮の方々と確認します」


私は焦げた手袋の指先を握った。


「ですが、辺境伯夫人としてこの屋敷に残ることはできません」


エルハルト様は、何も言わなかった。


言えなかったのだと思う。


アガサ様が、書類を一枚差し出した。


「これは仮の申請書です。王宮登録竜使いとして扱えるかは審査になりますが、少なくとも今日からの記録には、あなたの名前が必要です」


「私の名前が」


「ええ。今までの記録にも、本来なら必要でした」


アガサ様は帳面の端を指で押さえた。


「この量を、奥方の手慰みとして処理するのは無理です」


エルハルト様が顔を上げる。


「どういう意味だ」


「王宮に上げます。慰労金になるか、未払い報酬になるか、あるいは辺境伯家の管理不備として扱われるかは法務局の判断です」


そこで彼女は、初めてエルハルト様を見た。


「閣下にも、書類は回ります」


エルハルト様は、何も言えなかった。


私は書類を受け取った。


署名欄に、少し迷ってから名前を書く。


リーナ・クライス。


結婚前の名前。


その文字を書いた瞬間、手袋の下の指先が少し震えた。


フェルンが喉を鳴らす。


満足そうな音だった。


その日のうちに、私は辺境伯夫人の部屋へ戻り、必要なものだけをまとめた。


ドレスはほとんど置いていく。


宝石もいらない。


持っていくのは、詠唱書と記録帳の写し、使い慣れた手袋、それから母の形見の小さな護符だけ。


部屋を出る時、使用人たちが廊下に並んでいた。


誰も、何を言えばいいのか分からない顔をしている。


その中で、年配の侍女ミラが一人、深く頭を下げた。


「奥様。存じ上げず、申し訳ございませんでした」


私は首を振った。


「あなたたちが悪いわけではありません」


「でも、毎朝、奥様の手袋が焦げていたのを見ておりました」


ミラの声が震える。


「気づくべきでした」


私は少しだけ笑った。


「替えを出してくれていたでしょう」


ミラが顔を上げる。


「助かっていたわ。ありがとう」


その瞬間、ミラは唇を引き結び、涙をこぼした。


「では、次に誰かの手袋が焦げていたら、声をかけてあげて」


ミラは何度も頷いた。


玄関前には、フェルンが待っていた。


大きな翼を畳み、前庭に伏せている。


その姿は、初めて会った夜の荒れ狂う竜とはまるで違っていた。


エルハルト様もそこにいた。


彼は、私に近づこうとして、途中で足を止めた。


「リーナ」


「はい」


「君を愛していなかったと言ったことを、今さら取り消す資格はない」


私は黙って聞いた。


「私は……フェルンが落ち着いているなら、それでいいと思っていた」


エルハルト様は、記録帳から目を離さなかった。


「領地のことも、竜のことも、回っているなら問題ないと。君がそこにいることも……そういうものだと」


そこで言葉が切れた。


「違ったのだな」


私は答えなかった。


違ったのだと、今さら私が教える必要はなかった。


エルハルト様は苦しそうに笑った。


「フェルンを頼む」


「はい」


「領地も、可能なら」


「仕事としてなら」


私がそう言うと、彼は目を伏せた。


「そうか」


それ以上、言葉は続かなかった。


続かなくてよかった。


アガサ様が軽く手を叩いた。


「さて、リーナ様。北東結界の確認へ向かいます。初仕事です」


「はい」


「馬車にしますか? それとも」


フェルンが翼を広げた。


風が前庭を駆け抜ける。


使用人たちが声を上げ、竜騎士たちが慌てて後ずさる。


フェルンは首を低く下げた。


乗れ。


そう言っている。


私は思わず笑ってしまった。


「本当に、私と来るの?」


フェルンは、当然だと言うように喉を鳴らした。


フェルンの首に手をかけると、竜は少しだけ身を低くした。


私が登りやすいように。


鱗の隙間に、黒く焦げた布の繊維が一本、引っかかっていた。


いつの夜のものだろう。


私はそれを取ろうとして、やめた。


「……行きましょう」


フェルンは、待っていたように翼を広げた。


背に乗ると、地上が遠くなった。


屋敷が小さく見える。


竜舎も。

庭も。

毎朝、焦げた手袋を外していた、あの洗面台の窓も。


エルハルト様が、前庭で頭を下げている。

シルヴィア様も、柱の陰でこちらを見ていた。


私はもう、そこへ戻らない。


フェルンが翼を打った。


身体が空へ持ち上がる。


風が、まともに顔へぶつかった。


涙が出た。


感動ではなく、たぶん風のせいだ。


フェルンの鱗を掴む指に力が入る。


怖い。


でも、下りたいとは思わなかった。


北東の空が、わずかに青く揺れている。


フェルンが知らせ続けていたものだ。


「行きましょう、フェルン」


フェルンが高く鳴いた。


屋敷の窓が、またびりびりと震える。


三年前と同じ音だった。


けれど今度は、少しも怖くなかった。

最後までお読みいただきありがとうございます。


フェルンがリーナを選んでくれてよかった、

リーナには幸せになってほしい、

と思っていただけましたら、評価・ブックマーク・いいねなどで応援していただけると嬉しいです。


新しい短編も投稿しました。


『「声が大きくて淑女らしくない」と婚約破棄されたので、百年に一人の声を買われて竜騎士団の号令係になりました』


今回は、「声が大きい」と言われて婚約破棄された令嬢が、その声を必要としてくれる場所に出会うお話です。


リーナとはまた少し違うタイプの主人公ですが、

こちらも「否定されたものが、ちゃんと力になる」お話になっています。


よろしければ、読んでいただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
言い方は悪いけど辺境伯家で飼われていた竜なんですよね? 代々引き継がれているとしたら前任者はいるのか、竜の主人にどんな役目があるのか、その辺りの説明が皆無で記録の重要性についても辺境伯家側が理解してい…
守護竜がなんなのかこれまでどうだったのか、異変が起こったのは当代が無能なだけなのかという点の説明が足りないし何故そんなのと婚姻する羽目になったのか説明すべき。
内容以前に一言ずつの改行がポエム臭すぎてつらい。ポエマーになろうじゃなくて小説家になろうなんだからまず小説としての形を整えてほしい。 リーナが来る前の担当者はどうしたの・・・? しかも辺境伯夫人が結…
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