第十二章 歯車と歯茎
痛みは、古びたアパートの住人のように、予告もなく居座り始めた。
右下の奥歯。最初は冷たい水が少ししみる程度だった。それが次第に、咀嚼のたびに走る鈍い衝撃へと変わり、今では脈打つような熱を持って、西村真理の意識の底にへばりついている。
朝六時。真理は洗面所の鏡の前で、口を開けた。
蛍光灯の青白い光が、四十五歳になった自分の顔を容赦なく照らし出す。目尻の皺、乾燥して粉を吹いた頬、そして少し下がった歯茎。
痛む奥歯は、銀色の詰め物の下で黒ずんでいるように見えた。
「……まだ、大丈夫」
真理は誰に言うでもなく呟き、市販の鎮痛剤を二錠、掌に出した。
本来なら一回二錠、一日三回まで。だが最近は、四時間おきに飲まないと痛みがぶり返す。
薬を水で流し込み、胃の中で溶けるのを待つ。薬効が血流に乗り、痛覚を麻痺させるまでの三十分間が、彼女にとっての一日の始まりだった。
歯科医に行けばいいことはわかっている。だが、先月の翔太の大学入学に伴う出費で、予備費は底をついていた。
保険診療でも、初診料とレントゲン、処置を含めれば三千円は飛ぶ。もし「被せ物を新しく作り直す」と言われれば、一万円コースだ。
今の西村家にとって、一万円は翔太の半月分の食費であり、真理自身の生命維持装置だった。
彼女は鏡の中の自分に「笑って」と命じた。
口角を上げる。ひきつった笑顔。
今日の仕事は、駅ビルの催事場での販売補助だ。立ち仕事、八時間。求められるのは「明るい笑顔」と「丁寧な声掛け」。
痛みを隠し、老いを化粧で塗り込め、彼女は「元気なスタッフ」という衣装を纏って家を出る。
***
昼休憩は四十五分。
真理はバックヤードのパイプ椅子に座り、持参したパンを齧っていた。フランスパンのサンドイッチ。昨日の夜、スーパーの見切り品で半額だったものだ。
硬いパンの皮を噛み切ろうとした、その時だった。
――ガリッ。
嫌な音が頭蓋骨に響いた。
同時に、口の中にジャリジャリとした異物の感触が広がる。
痛みは遅れてやってきた。鋭利なナイフで歯茎を直接刺されたような激痛。
「っ……!」
真理は口元を押さえ、呻き声を飲み込んだ。
恐る恐る、口から出したものをティッシュの上に広げる。
銀色の詰め物。そして、それにくっついて剥がれた、白く欠けた自分の一部。
血の味がした。
舌先で患部を探ると、大きな穴が空き、鋭く尖ったエナメル質の残骸が舌を傷つけた。
痛い。涙が出るほど痛い。
だが、真理の脳裏を最初に過ったのは、「痛い」という感情ではなかった。
(……いくらかかる?)
電卓が頭の中で弾かれる。
詰め物が取れただけなら、付け直せば済むかもしれない。だが、歯自体が割れている。抜歯か? ブリッジか? まさか、インプラントなんて言われたら?
バックヤードの隅で、若いアルバイトの女の子がスマホを見ながら笑っていた。彼女の口元から覗く歯は、真珠のように白く、整然と並んでいる。
矯正された歯列。定期的なホワイトニング。それは、親から与えられた「見えない資産」だ。
真理はティッシュに包んだ自分の歯の欠片を、汚物のようにポケットにねじ込んだ。
休憩終了のチャイムが鳴る。
真理はロキソニンを追加で一錠飲み込み、鏡の前で血のついた唇を拭った。
「いらっしゃいませ!」
売り場に戻った彼女の声は、明るかった。だが、マスクの下で、彼女の表情筋は痛みに耐えるために硬直していた。
***
三日後、痛みに耐えきれず、真理は近所の歯科医院の自動ドアをくぐった。
清潔すぎるほどの待合室。アロマの香り。ウォーターサーバーのコポコポという音。
予約外での受診だったため、一時間以上待たされた。
診察台に座ると、若い歯科医が無表情にレントゲン写真を見上げた。
「あー……これは、もう残せませんね」
宣告は早かった。
「根っこが割れてます。中で化膿もしてる。もっと早く来れば、神経の処置だけで済んだかもしれませんが」
医師の言葉には、非難の色が混じっていた。なぜ放置したのか。なぜ自分の体をメンテナンスしないのか。
真理は「すみません」と小さく謝った。
自分を責める言葉しか出てこない。金がなかったから、時間がなかったから、とは言えなかった。それは「自己管理ができない人間」の言い訳に聞こえるからだ。
「で、抜歯になりますが、その後の処置どうします?」
医師はタブレット端末を操作し、メニューを表示させた。
•インプラント(自費):一本 350,000円〜
•セラミックブリッジ(自費):120,000円〜
•部分入れ歯(保険):5,000円程度
•ブリッジ(保険):銀歯使用、両隣の健康な歯を削る必要あり
「ここは笑うと見える位置ですからね。インプラントが一番自然ですが」
三十五万円。翔太の前期授業料の半分に近い。
「……いえ、保険でお願いします」
真理の声は掠れていた。
「ブリッジだと、両隣の健康な歯も削ることになりますよ? 銀色になりますし」
「……構いません。保険で、できる範囲で」
医師は微かにため息をついたように見えた。
「わかりました。じゃあ、今日は抜歯と消毒だけしますね」
麻酔の注射を打たれる間、真理は目を閉じていた。
治療用ライトの光が瞼を透かして、視界を赤く染める。
口を開けっ放しにされ、唾液吸引機のズズズという音が耳元で響く。
まな板の上の鯉。あるいは、修理工場に持ち込まれたポンコツ車。
人間としての尊厳が、消毒液の匂いと共に揮発していく気がした。
かつて、自分がまだ二十代だった頃、歯のことなんて気にしたこともなかった。
毎日の歯磨きさえしていれば、白さは保てると信じていた。
だが、貧困は時間を奪う。定期検診に行く時間、丁寧にフロスをする精神的な余裕、質の良い歯ブラシや歯磨き粉を選ぶ選択肢。
それらが少しずつ削ぎ落とされ、十年、二十年と積み重なった結果が、今のこの口の中だ。
ガリガリ、という骨を削る振動が頭に響く。
歯が抜かれる瞬間、真理は自分の体の一部が、また一つ金に換算できないゴミとして捨てられるのを感じた。
***
会計は三千八百円だった。
財布の中身を確認し、真理は次回の予約を一ヶ月先に入れた。本当は来週と言われたが、「仕事が忙しいので」と嘘をついた。来月の給料日まで、治療費を捻出できないからだ。
麻酔が切れてくると、抜歯した跡がズキズキと痛み出した。
マスクをして、駅前のスーパーに寄る。
本当は柔らかいものが食べたかった。豆腐や、レトルトのお粥。
だが、カゴに入れたのは、特売の豚コマ肉と、もやし、そして翔太の好きな冷凍餃子だった。
自分は噛めなくても、息子には肉を食べさせなければならない。翔太は今、脳を使っている。カロリーが必要だ。
帰宅すると、翔太はまだ帰っていなかった。深夜バイトだろう。
真理は台所に立ち、片手で頬を押さえながら料理を始めた。
抜歯した穴に血が滲む。鉄の味が口の中に充満する。
ふと、シンクの鏡に映った自分の顔を見た。
右頬が少し腫れている。
口を開けると、そこには黒い穴があった。
来週、ブリッジを入れるまでは、この穴が開いたままだ。そして入ったとしても、そこには鈍く光る銀色の金属が収まる。
笑えば、銀歯が見える。
接客業で、銀歯が見える笑顔はどう評価されるのだろうか。
貧しさが可視化される。
服はユニクロで清潔感を装える。髪も自分で染めれば誤魔化せる。
だが、歯だけは。
歯だけは、その人が歩んできた生活の履歴書そのものだった。
「……ただいま」
玄関のドアが開き、翔太が帰ってきた。
真理は慌ててマスクをつけた。
「おかえり。ご飯、すぐできるから」
「うん。……母さん、風邪?」
翔太がマスク姿の真理を見て聞いた。
「ううん、ちょっと喉が乾燥してて。予防よ、予防」
真理は背中を向けて答えた。
息子に心配をかけたくなかった。
そして何より、自分の口の中にある「崩壊」を見られたくなかった。
母親は強くあるべきだ。少なくとも、息子の前では。
翔太が椅子に座り、参考書を開く音がする。
真理はフライパンを振った。餃子の焼ける音と匂いが、台所に広がる。
ズキリ、と傷口が痛んだ。
それは、真理の体の中で回る、錆びついた歯車が軋む音のようだった。
油が切れている。部品が摩耗している。それでも、この機械は止まることを許されない。
真理はマスクの下で唇を噛み締め、痛みをエネルギーに変えるように、強く菜箸を握りしめた。




