表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傘の値段  作者: 未世遙輝
エピソード2
12/25

第十二章 歯車と歯茎


 痛みは、古びたアパートの住人のように、予告もなく居座り始めた。

 右下の奥歯。最初は冷たい水が少ししみる程度だった。それが次第に、咀嚼のたびに走る鈍い衝撃へと変わり、今では脈打つような熱を持って、西村真理の意識の底にへばりついている。

 朝六時。真理は洗面所の鏡の前で、口を開けた。

 蛍光灯の青白い光が、四十五歳になった自分の顔を容赦なく照らし出す。目尻の皺、乾燥して粉を吹いた頬、そして少し下がった歯茎。

 痛む奥歯は、銀色の詰め物の下で黒ずんでいるように見えた。

「……まだ、大丈夫」

 真理は誰に言うでもなく呟き、市販の鎮痛剤を二錠、掌に出した。

 本来なら一回二錠、一日三回まで。だが最近は、四時間おきに飲まないと痛みがぶり返す。

 薬を水で流し込み、胃の中で溶けるのを待つ。薬効が血流に乗り、痛覚を麻痺させるまでの三十分間が、彼女にとっての一日の始まりだった。

 歯科医に行けばいいことはわかっている。だが、先月の翔太の大学入学に伴う出費で、予備費は底をついていた。

 保険診療でも、初診料とレントゲン、処置を含めれば三千円は飛ぶ。もし「被せ物を新しく作り直す」と言われれば、一万円コースだ。

 今の西村家にとって、一万円は翔太の半月分の食費であり、真理自身の生命維持装置だった。

 彼女は鏡の中の自分に「笑って」と命じた。

 口角を上げる。ひきつった笑顔。

 今日の仕事は、駅ビルの催事場での販売補助だ。立ち仕事、八時間。求められるのは「明るい笑顔」と「丁寧な声掛け」。

 痛みを隠し、老いを化粧で塗り込め、彼女は「元気なスタッフ」という衣装を纏って家を出る。

***

 昼休憩は四十五分。

 真理はバックヤードのパイプ椅子に座り、持参したパンを齧っていた。フランスパンのサンドイッチ。昨日の夜、スーパーの見切り品で半額だったものだ。

 硬いパンの皮を噛み切ろうとした、その時だった。

 ――ガリッ。

 嫌な音が頭蓋骨に響いた。

 同時に、口の中にジャリジャリとした異物の感触が広がる。

 痛みは遅れてやってきた。鋭利なナイフで歯茎を直接刺されたような激痛。

「っ……!」

 真理は口元を押さえ、呻き声を飲み込んだ。

 恐る恐る、口から出したものをティッシュの上に広げる。

 銀色の詰め物。そして、それにくっついて剥がれた、白く欠けた自分の一部。

 血の味がした。

 舌先で患部を探ると、大きな穴が空き、鋭く尖ったエナメル質の残骸が舌を傷つけた。

 痛い。涙が出るほど痛い。

 だが、真理の脳裏を最初に過ったのは、「痛い」という感情ではなかった。

(……いくらかかる?)

 電卓が頭の中で弾かれる。

 詰め物が取れただけなら、付け直せば済むかもしれない。だが、歯自体が割れている。抜歯か? ブリッジか? まさか、インプラントなんて言われたら?

 バックヤードの隅で、若いアルバイトの女の子がスマホを見ながら笑っていた。彼女の口元から覗く歯は、真珠のように白く、整然と並んでいる。

 矯正された歯列。定期的なホワイトニング。それは、親から与えられた「見えない資産」だ。

 真理はティッシュに包んだ自分の歯の欠片を、汚物のようにポケットにねじ込んだ。

 休憩終了のチャイムが鳴る。

 真理はロキソニンを追加で一錠飲み込み、鏡の前で血のついた唇を拭った。

「いらっしゃいませ!」

 売り場に戻った彼女の声は、明るかった。だが、マスクの下で、彼女の表情筋は痛みに耐えるために硬直していた。

***

 三日後、痛みに耐えきれず、真理は近所の歯科医院の自動ドアをくぐった。

 清潔すぎるほどの待合室。アロマの香り。ウォーターサーバーのコポコポという音。

 予約外での受診だったため、一時間以上待たされた。

 診察台に座ると、若い歯科医が無表情にレントゲン写真を見上げた。

「あー……これは、もう残せませんね」

 宣告は早かった。

「根っこが割れてます。中で化膿もしてる。もっと早く来れば、神経の処置だけで済んだかもしれませんが」

 医師の言葉には、非難の色が混じっていた。なぜ放置したのか。なぜ自分の体をメンテナンスしないのか。

 真理は「すみません」と小さく謝った。

 自分を責める言葉しか出てこない。金がなかったから、時間がなかったから、とは言えなかった。それは「自己管理ができない人間」の言い訳に聞こえるからだ。

「で、抜歯になりますが、その後の処置どうします?」

 医師はタブレット端末を操作し、メニューを表示させた。

 •インプラント(自費):一本 350,000円〜

 •セラミックブリッジ(自費):120,000円〜

 •部分入れ歯(保険):5,000円程度

 •ブリッジ(保険):銀歯使用、両隣の健康な歯を削る必要あり

「ここは笑うと見える位置ですからね。インプラントが一番自然ですが」

 三十五万円。翔太の前期授業料の半分に近い。

「……いえ、保険でお願いします」

 真理の声は掠れていた。

「ブリッジだと、両隣の健康な歯も削ることになりますよ? 銀色になりますし」

「……構いません。保険で、できる範囲で」

 医師は微かにため息をついたように見えた。

「わかりました。じゃあ、今日は抜歯と消毒だけしますね」

 麻酔の注射を打たれる間、真理は目を閉じていた。

 治療用ライトの光が瞼を透かして、視界を赤く染める。

 口を開けっ放しにされ、唾液吸引機のズズズという音が耳元で響く。

 まな板の上の鯉。あるいは、修理工場に持ち込まれたポンコツ車。

 人間としての尊厳が、消毒液の匂いと共に揮発していく気がした。

 かつて、自分がまだ二十代だった頃、歯のことなんて気にしたこともなかった。

 毎日の歯磨きさえしていれば、白さは保てると信じていた。

 だが、貧困は時間を奪う。定期検診に行く時間、丁寧にフロスをする精神的な余裕、質の良い歯ブラシや歯磨き粉を選ぶ選択肢。

 それらが少しずつ削ぎ落とされ、十年、二十年と積み重なった結果が、今のこの口の中だ。

 ガリガリ、という骨を削る振動が頭に響く。

 歯が抜かれる瞬間、真理は自分の体の一部が、また一つ金に換算できないゴミとして捨てられるのを感じた。

***

 会計は三千八百円だった。

 財布の中身を確認し、真理は次回の予約を一ヶ月先に入れた。本当は来週と言われたが、「仕事が忙しいので」と嘘をついた。来月の給料日まで、治療費を捻出できないからだ。

 麻酔が切れてくると、抜歯した跡がズキズキと痛み出した。

 マスクをして、駅前のスーパーに寄る。

 本当は柔らかいものが食べたかった。豆腐や、レトルトのお粥。

 だが、カゴに入れたのは、特売の豚コマ肉と、もやし、そして翔太の好きな冷凍餃子だった。

 自分は噛めなくても、息子には肉を食べさせなければならない。翔太は今、脳を使っている。カロリーが必要だ。

 帰宅すると、翔太はまだ帰っていなかった。深夜バイトだろう。

 真理は台所に立ち、片手で頬を押さえながら料理を始めた。

 抜歯した穴に血が滲む。鉄の味が口の中に充満する。

 ふと、シンクの鏡に映った自分の顔を見た。

 右頬が少し腫れている。

 口を開けると、そこには黒い穴があった。

 来週、ブリッジを入れるまでは、この穴が開いたままだ。そして入ったとしても、そこには鈍く光る銀色の金属が収まる。

 笑えば、銀歯が見える。

 接客業で、銀歯が見える笑顔はどう評価されるのだろうか。

 貧しさが可視化される。

 服はユニクロで清潔感を装える。髪も自分で染めれば誤魔化せる。

 だが、歯だけは。

 歯だけは、その人が歩んできた生活の履歴書そのものだった。

「……ただいま」

 玄関のドアが開き、翔太が帰ってきた。

 真理は慌ててマスクをつけた。

「おかえり。ご飯、すぐできるから」

「うん。……母さん、風邪?」

 翔太がマスク姿の真理を見て聞いた。

「ううん、ちょっと喉が乾燥してて。予防よ、予防」

 真理は背中を向けて答えた。

 息子に心配をかけたくなかった。

 そして何より、自分の口の中にある「崩壊」を見られたくなかった。

 母親は強くあるべきだ。少なくとも、息子の前では。

 翔太が椅子に座り、参考書を開く音がする。

 真理はフライパンを振った。餃子の焼ける音と匂いが、台所に広がる。

 ズキリ、と傷口が痛んだ。

 それは、真理の体の中で回る、錆びついた歯車が軋む音のようだった。

 油が切れている。部品が摩耗している。それでも、この機械は止まることを許されない。

 真理はマスクの下で唇を噛み締め、痛みをエネルギーに変えるように、強く菜箸を握りしめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ