第十三章 持たざる者の時間
電子音が、翔太の聴覚を支配していた。
「ピッ」
バーコードリーダーが読み取る、無機質な肯定音。それが三秒に一回のペースで繰り返される。
ベイエリアにある巨大物流センター。窓のない巨大なコンクリートの箱の中で、翔太は歩き続けていた。
ハンディ端末の画面に、指示が表示される。
『レーンB-42、棚3段目、商品コード8821、数量1』
翔太はカートを押し、指定された場所へ向かう。棚にあるのは、高級オーガニックドッグフード、2kg入り、四千八百円。
翔太の時給は千百五十円だ。
深夜手当を含めても千四百円強。この犬の餌一袋を買うために、彼は三時間半、歩き続けなければならない。
商品をピックアップし、カゴに入れ、リーダーをかざす。
「ピッ」
完了。次。
『レーンC-15、美顔器、数量1』
思考は許されない。ただ、端末の指示に従って肉体を移動させるだけの装置。
このフロアだけで、百人近い人間が働いているはずだった。だが、私語は厳禁だ。聞こえるのは、台車の車輪が転がる音と、スニーカーが床を擦る音、そして絶え間ない電子音だけ。
彼らは互いに名前を知らない。ただ、背中に貼られたゼッケンの番号でのみ識別される。
翔太は「No.408」だった。
深夜二時。魔の時間帯。
眠気が、物理的な重量を持って瞼にのしかかる。
昨日は大学の講義の後、レポートを書き、三時間の仮眠をとってここに来た。明日の朝、シフトが終われば、そのまま一限の英語必修に向かわなければならない。
カフェイン錠剤を飲みすぎて、胃が焼け付くように痛い。心臓が早鐘を打っているのに、脳だけが泥の中に沈んでいるような奇妙な解離感覚。
隣のレーンで、白髪の男性がよろめいたのが見えた。六十代だろうか。日雇い派遣の常連だ。
彼は棚に手をついて身体を支え、荒い息を吐いていた。
誰も助けに行かない。
助ければ、自分のピッキングレート(作業速度)が落ちるからだ。レートが基準を下回れば、次のシフト希望が通らなくなる。
システムは、労働者同士の連帯さえも「非効率」として削ぎ落とすように設計されていた。
男性は数秒後、何事もなかったかのように再び台車を押し始めた。
翔太もまた、視線を自分の端末に戻した。
『レーンD-08、ビジネス書「勝者の時間管理術」、数量1』
吐き気がした。
***
同時刻、千代田区のオフィスビル。
北沢啓介は、青白いブルーライトに照らされていた。
彼が勤める「フューチャレクト」は、先月、大手通信企業の傘下に入った。それに伴い、社内システムの「統合と最適化」が命じられた。
啓介のモニターに映っているのは、新しい業務管理ツールのダッシュボードだ。
社員一人ひとりのPC操作ログ、メールの送受信数、在席時間、そして会議中の発言頻度までもがAIによって解析され、スコア化されている。
「……ひどいな、これ」
隣の席で、志村が低い声で呻いた。
画面には、ある若手社員のデータが表示されている。
『マウス移動距離:低下傾向』『非アクティブ時間:15%増加』『推奨アクション:面談による指導、または契約更新の見直し』
人間が、ただのパラメータの集合体として処理されている。
「俺たちがやっているのは、管理じゃない。監視だ」
啓介は乾いた声で言った。
かつて証券アナリストだった頃、啓介は企業の「効率化」を推奨する立場だった。数字が改善されれば株価は上がる。それは善だった。
だが今、その刃は自分たちの喉元に突きつけられている。
このツールを導入・運用するのが、啓介たち「システム管理部」の仕事だった。自分たちの手で、同僚たちの首を絞める縄を編んでいる。
「北沢さん、これ見てください」
志村が指差したログには、深夜二時であるにもかかわらず、VPN経由で社内サーバーにアクセスしている社員の記録が数件あった。
サービス残業だ。
公式にはPCは二十時に強制シャットダウンされる。だが、彼らは個人の端末から裏口を使って入り込み、仕事をしている。そうしなければ、ノルマが終わらないからだ。
システムは、その「不正アクセス」も検知し、アラートを上げている。
『セキュリティ違反の可能性あり。警告メールを送信しますか?』
送信ボタンを押せば、彼らは処分されるかもしれない。押さなければ、啓介が「管理不行き届き」で減点される。
啓介はマウスを握る手に力を込めた。
画面の中のカーソルが、断頭台の刃のように見えた。
かつて翔太に言った言葉が、ブーメランのように戻ってくる。
『世界は、誰かが設計した階段だ』
今、啓介はその階段の、踏み板の裏側に張り付いたガムのような存在だった。上に行くこともできず、ただ、誰かの靴底に踏みつけられながら、へばりついている。
***
朝五時半。
倉庫の外に出ると、空は白み始めていた。
湾岸エリアの朝は、海風が湿っていて重い。トラックの排気ガスと潮の匂いが混ざった、独特の都市の体臭。
翔太はロッカーから出したリュックを背負い、送迎バスの列に並んだ。
列に並ぶ全員が、魂を抜かれたような目をしている。誰も言葉を発しない。
スマホを見ると、大学の友人グループのLINEが動いていた。
『昨日の飲み、マジでウケたww』
『また行こうぜ、次はオールで』
深夜二時のスタンプ。彼らが酒を飲んで笑っていた時間、翔太はドッグフードを運んでいた。
同じ二十代の時間が、こうも違う通貨として消費されるのか。
バスに乗り込み、一番奥の席に座る。
隣には、作業中に倒れかけたあの白髪の男性が座った。
彼はポケットから、潰れたあんパンを取り出して齧っていた。
「……学生さんか?」
突然、しわがれた声で話しかけられた。
「……はい」
「そうか。勉強、頑張んなよ」
男性はそれだけ言うと、窓の外に目をやった。
「俺みたいに、時間を切り売りするだけのジジイになったら、おしまいだからな」
自虐的な笑い。だが、その目は笑っていなかった。
翔太は返す言葉が見つからなかった。
自分は、本当に「おしまい」にならないと言い切れるだろうか。
今、自分は未来のために時間を投資しているつもりだ。だが、今のこの疲労は、確実に脳のパフォーマンスを奪っている。
講義中に襲ってくる強烈な睡魔。集中力の欠如。記憶の定着率の低下。
金を稼ぐために時間を売り、その結果、学ぶための質が低下する。
本末転倒なサイクルの中で、翔太は摩耗していく。
***
都心へ向かう電車の中。
ラッシュアワーが始まろうとしていた。
翔太は参考書を開こうとしたが、指に力が入らなかった。
吊り革に掴まったまま、意識が飛びそうになる。
目の前の座席には、綺麗にスーツを着こなしたビジネスマンが座り、タブレットで日経新聞を読んでいた。
その指先は滑らかで、爪は整えられている。
翔太の手を見る。
ダンボールの粉で乾燥し、あちこちに小さな切り傷がある。爪の間には黒い汚れが残っていた。どれだけ洗っても落ちない、労働の染み。
ふと、電車の窓ガラスに、自分の顔が映った。
目の下に濃いクマがあり、肌は荒れ、髪は湿気でうねっている。
十九歳。人生で一番輝いているはずの季節。
だが、そこに映っているのは、若者ではなく、ただの「疲れた労働力」だった。
電車が大きく揺れる。
翔太は膝から崩れ落ちそうになり、慌ててドアの手すりにしがみついた。
参考書が手から滑り落ち、床に開いたまま落ちた。
『Opportunity Cost(機会費用)』という単語が、太字で記されていた。
何かを選択することで、失われる別の価値。
翔太が今、失っているものは何だ?
青春か? 健康か? それとも、もっと根源的な「人間としての尊厳」か?
誰も拾ってはくれなかった。
翔太は舌打ちしたくなるような惨めさを噛み殺し、自分で本を拾い上げた。
ページが少し、濡れた靴の跡で汚れていた。
【第十三章 完】




