9. 『託された彼』
牛悪鬼がここに襲いにきていない理由。集落の者たちがこんなにも命を取り留めている現状。
被害はさほど大きくはない、という事実。
それはつまり、
「今も誰か戦ってんのか?」
突然の老人の発言に対して、アルトは追認する様に言葉を投げた。
「………」
疑問の目を向けられた老人はコクリと首を縦にふる。
それにアルトは「本当なのか?」と驚き混じりに目を見開かせ、
「あと二体牛悪鬼はいるはず。そいつらが今ここに襲いにきてないってことは奴らと戦っている人が?二体相手だぞ?」
「…いかにも、じゃ。彼女はこの集落一番の刀の使い手よ。炎が最も燃え上がっているところがあったじゃろう?」
「………あぁ」
老人の言葉にアルトはコクリと首肯する。
屋根から集落の現状を見渡した時。遠目に見ただけだったが、明らかに他の場とは違い凄まじく炎上している箇所があった。生きるものを寄せつけないとでも言うような、そんな印象さえ受ける業火が。
「まさか、その刀使いはそこで?」
「そうじゃ。彼女は一人牛悪鬼に立ち向かい村の者たちを逃した。炎を壁にし、怪物たちを退けさせての」
「炎を壁にって、無理やり過ぎるだろ」
「少し奔放な子なんじゃ。おそらくそこが戦いの場。リーネルは今も黒き怪物たちと対峙していて…」
そこまで告げると白髭の老人はアルトへ寂然な目つきを向けた。
リーネル、とは大方この老人オーベウが言う孫娘のことだろう。そして、今も牛悪鬼と戦っている女性。
「そなた、牛悪鬼を倒したと言っておったが、それは真か?もしそうならば、リーネルの元へ救援に行って欲しい。彼女が強いとはいえ、やはり心配せざるを得ない」
リーネルを案じるオーベウの言。それは身内として当然で、祖父として孫娘を心配しているのがよくわかる声音だった。同時にいくら強いと言えリーネルに牛悪鬼を任してしまっている己の不甲斐なさも垣間見えて。
「わしが奴らと戦っても塵のように殺されるだろう。もう老いぼれなためリーネルの元へ行こうが力になれん。じゃが、そなたならリーネルの力になれるかと…」
「……行くよ」
「……」
オーベウの頼みの言葉にアルトは食い気味でそううなづく。
「そなた…」
彼の力ある瞳を向けられ、老人オーベウは思わずシワのある目を丸くさせた。
そのはずそれは願ってもない、言葉で、
「その言葉は…娘の元へ行ってくれると、捉えて良いかと?」
「つか、行って欲しいって言うが元より俺は行くつもりだ。炎が一番燃え上がってらところだろ?一回見たし、分かりやすい」
アルトは高らかにそう言い告げた。
今も女性が戦っている。戦況は変わらず拮抗状態らしい。
ならば、アルトがその場に行かないわけがなくて。
「かたじけない。」
「いいって、……つっても一人で相手してんのか」
老人の頭を下げた姿に応じ、アルトはその場から赤くぼやける村の方を見遣りポツリとそう呟く。
リーネルという女性、村の者たちを逃し一人で二体と戦うとは相当な手練れの刀使いだろう。
はたしてどれほどの武の心の持ち主なのか。
「いや、まあ行きゃ分かるか。」
一言、そうこぼし、アルトは行く方向へ強く目を向ける。片手に短刀を握りしめると、
「そんじゃ、俺は行ってくるよ。一番炎が上がってるとこだろ?」
そこから踵を返し、足を進めようとするアルト。向かう先は最も炎上している場だ。
けれども、
「かたじけない、くれぐれも気をつけて。とは言いたいのじゃが」
ふいに、白髭を摩りつつ老人オーベウはアルトへと口を出した。
行く気満々だったアルト。だが待ったをかけるような老人の言に「…?」と不可解な表情を浮かべる。
怪訝そうに前方から顔を振り向いて、
「なんだ?めちゃくちゃ今出発しようとしてんだが」
「そなた、その眼は大丈夫なのか?細かなことは知らぬが、見るだけでも痛苦さを感じさせるのじゃが」
「ん?ああ、これか。………そんなに酷いことなってるか?」
「うむ」
話す者たちに度々言われ、憂慮されるアルトの左眼。けれども彼らが告げるのも仕方ないというもので、血に染まったその左眼の見た目は悲惨な状態だ。
しかしアルトは泰然としたようにひらひらと手を振ると、
「そんな気に留めなくていい。痛みはひいてるし、世話ねえよ。急がないとだし、もう行くぞ?」
「そうか、痛みはひいてるか。そなたがそういうのなら良いのじゃが…しかし、」
「平気だ、平気。じゃ」
オーベウの心がかりの目線に「大丈夫だ」と言葉を残す。
そのままアルトはグッと地を踏み込み、勢いよく木々の中へと瞬く間に駆け抜けて行った。
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「…………」
アルトが戦地へと向かった後にはミナとその母親セシルと老人オーベウと集落の人々が残されていた。
その場から戦地へ向かった彼の後を皆は静観していて、
「お兄ちゃん、無理してる」
「ん?」
すると、アルトがその場から去った刹那、唐突にミナがそう呟いた。
娘の言葉にセシルは「ミナ?」と、眼を向けると、
「お兄ちゃん、眼をものすごい痛がってた。今はひいてるって言ってたけど、でも痛い時は本当に辛そうで」
アルトの左眼が痛みを発症した瞬間をミナは知っている。とてつもなく魘されて、苦しんで、激痛に耐えかねていたあの一時を。再び、彼があの苦しみを味わってしまうのはミナにとって望んではいないことであり、
「あたし、心配……で」
「そうか、やはり彼は無理を」
自分の衣服をギュッと固く握り締めながら震える声音でミナはそう言う。
オーベウはそれを聞くや、アルトの駆けて行った森の方へシワを寄せながら目を向けた。
彼の姿はもう見えない。
異常ないと、戦えると豪語していた彼だったがやはり虚勢を張っていたのだろう。ミナの呟きから察するにやはり眼には何かしらの重傷を負っている。力強く見えた少年だったが彼だって心身共にギリギリなのだ。
「…どうか」
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特に広くもない森を抜け、集落の端まで戻ったとみるや、地を蹴って上空へと跳ぶ。
「っと。あそこだな」
タンっと焦げた建物の上へ降り立ち、屋根から目を細め、アルトは一人そう呟いた。
遠目に見える業火、その炎の燃えようは未だ変わっていないと見える。今から向かうその戦場に黒き異形の怪物とそれらと対峙する女性がいて、
「これ、もういらねえな。」
そう言い放つと同時にアルトは自分の眼を覆っていた止血用の布をバッと外した。
「んん、うん。大丈夫だ、痛くねえ。」
軽く眼をパチパチと瞬かせ、状態を確かめる。
血まで流れ出た激痛の連鎖が引き起こった左眼。地に這いつくばるほどの痛みだったのだが、今は特段その症候はない。
体感的には、普通の眼の状態だ。
「いや、違和感はあるか」
自身の右眼と左眼を比較し、アルトは一人口ずさんだ。
双方の眼の状態だが今は特段異常は無い。しかし感覚的に考えると今自分の元に付いているこの左眼には違和感を感じざるを得なかった。
感覚というのか感触というのかとにかくこの左眼は何か違うと思えるのだ。
自分の眼ではないような触感で、左眼だけ己の体の一部ではないとも思えてしまうような。
「それに」
アルトは自身の左眼に手を添える。今はまるっきり痛覚はないので触っても全く痛くはない。血涙が流れ出たせいもあり、血液が少し固まりベトリとした感触だけがそこにはある。
あれだけ痛がり苦しんだというのに今は何ともないというのはそれはそれで妙な感じしかしないが。
しかしそれよりもこの左眼には怪訝さを思わせる事があって、
「牛悪鬼と戦ったとき、あいつが急に苦しんだのは多分、この眼…だよな?」
己の左眼に意識を向け、アルトはそう呟いた。
集落内、あたりで家々が燃えている中での牛悪鬼との戦闘。
その最中、奴がミナを掴み上げ咀嚼しようとした瞬間だ。突然、黒き怪物はいきなり苦しみだし、地に突っ伏しもがきはじめた、あの奇怪な行為。
アルトはその時の異様な光景を俯瞰的に思い出す。
「無意識だったから気付けなかった。けど」
あの時は何がなんだか分からずじまいだったが、
「たしかに左眼に何かあった」
今考えてみれば、あの瞬間に左眼が熱くなったのを覚えている。
アルトが怒りをあらわにしたと同時にこの眼が呼応したとでもいうような。
何かしらの力が湧き出るように、溢れるように。
見方を変えれば、この左眼自身が牛悪鬼を睨めつけたような。
力の奔流をこの左眼が独断でやったような感じがした。
「何なんだ?」
アルトは怪訝な表情で呟いた。
それはただの独り言でもあり、自身の左眼そのものに対して向けた問いかけ。
もちろん、それに応じられる言葉はない。
「もしかして………。いや……まあ、いい、行くか」
思い馳せるのを止め、アルトは前方へと意識を向けた。手にした布を左眼に添えゴシゴシとこびりついていた血を拭いとり、無駄な汚れを消す。
布は赤く染まっており、もう衣服としての素材の原型をとどめてはいない。赤く汚れてしまったもう使えない布の切れ端をアルトは炎へとかざした。
「あんがとな」
布をくれた小さな女の子に対し礼を言い、アルトは行く先へと目をやった。
炎上している家々は未だ健在、最も燃えゆる戦地は相変わらずの業火を見せている。
「………っ!」
短刀を握り締めながら、双方の眼で前を見据える。力強く足を踏み込み、アルトは戦火の場へと飛んだ。