39. 『無心と』
「…あ、………え…」
か細くとても小さな音が静寂なその場に響いた。
ふと、最初はその木霊した音が何の音か気づけなかった。一瞬、頭が白痴状態となり、次いで全身が硬直する。
その場で立ち止まり、無意識に一回掠れた呼吸をした。
それによりなんと無しに脳内が働いて先ほどの木霊した音は自分が発したものなのだと理解が及ぶ。
それから、今この瞳の中に映し出されているものに考えが至った。目前に広がっている光景と、今足元にいる人物に、いや、足元にあるそれにアルトはただ目を向けた。
「……カーク」
それは、一人の騎士だった。身には鎧を装っており、腰には長剣を携えている立派な騎士。
それはアルトの知人であり、幾たびも言葉を交わした騎士兵だ。
「………カーク」
そんな騎士が今、アルトの足元で腹部に大穴を開けており、口腔から鮮血を溢して転げ落ちていた。
なぜ死んでいるのか、なんてそれは愚問の問いかけだ。
一目見るだけで分かる、なんの間違えようも無い。彼は殺されているのだと。
無下に、陰湿に、粗雑に、無茶苦茶にカークという名の騎士は命が失われている。
「……………」
友人の亡骸を見下ろして、アルトは再び脳内が真っ白に染まった。現状に理解ができないのか、それとも理解したくないのか、兎にも角にも今は頭の中で何かがポッカリと失った。
「考える」という機能を自然と放棄することができていた。
「…………あ、」
知人の死体から顔を上げ見慣れた王城の入り口に視界を広げる。
すると、思いの外そこには何人もの死体が粗雑に放置してあるのがわかった。
塀の上には左足の無い兵士の死体が、池の中には鎧を砕かれ首から上が無い騎士の死体が、王城の壁際には胸部を張り裂けられた兵士の死体が。
どれもこれもアルトの見知った人物だ。ここで共に過ごした騎士団にいた者たちだ。
「イクート、……カルメ、……ケルハ…」
そこにいる者の名を呼んでも声を返してくれるものはいない。沈黙と、生の失った姿だけがそこにある。
「…ア、ル………」
「…………」
すると、ふいに後ろから小さくこちらに声がした。
呼び掛けようとして、言い淀んだようなその声音。それは今も後ろにいる彼女のものだと分かった。
その案ずるような、慮るような彼女の小さく告げた声はアルトを思ってのことだろう。けれども、今のアルトにかける言葉など分からなくて、彼女は口を開くのを躊躇ったみたいであって。
「………リーネル」
「…………っ」
低く、重く、その場に捨てるようにアルトは後ろにいるリーネルへと口を開く。その場に佇んだまま彼女に振り向きはしない。ただ、前にある凄惨な光景を瞳に映し出しながらアルトは掠れた声音で彼女にそれだけ言葉を吐いた。
後ろにいる彼女が今はどんな表情をしているのかは分からない。だが、息が詰まったような音を発したことは分かった。
「……誰か、生きてる人がいないか、探してくれないか?」
血の気の失せた、生気の無い嗄れた声音でアルトはリーネルへと空虚げにそう告げる。
「……う、ん。…………アルトは?」
すると、なけなしの小さな儚い声音で彼女はそう聞き返してきた。
そんな、後ろにいる彼女の返答はとてもか細いものであり、心なしか声音は震えていた。どうやら、彼女もこの劣悪な惨状を前にして動揺を隠しきれていないようだった。
そりゃそうだ、目前で人が何人も死んでいるのだ。
惨たらしく酷悪に苛虐に殺されているのだ。こんなのを、こんな光景を前にしてしまっては、
「……………俺は」
リーネルの言葉にアルトは虚な様でそう告げる。
何か言葉を告げようと思った。彼女に対してなけなしの言葉でも言おうとした。
けれども、今はそれ以上に口を紡ぐことができなかった。
今はもう、自分以外の人にかまっていられる余裕がなかった。
「…………っ!」
「アルッ……!」
まともに声を発さずにアルトは無心にただ足を動かした。何も考えず、顔を引きつらせながらただ必死に前へと走った。血だらけの前庭を走り抜け、何度も通った王城の扉へ向かって駆けた。
こちらに向けられた彼女の最後の声は自分を引き止めようとしたようにも思える。必死さが分かる張りのあった声音だったし、もしかしたら彼女は自分に向けて手を伸ばしていたのかもしれない。
けれどもアルトはそれを全て顧みず、ただ一心不乱に血塗られた王城の中へと駆け抜けた。
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「リーク、……ハイゼ、……エクア」
城の中を進んで行く度に、アルトは人名を言い続ける。走って走って走りながら、アルトは名前を口にして、言葉にして、告げ続けた。
その名前はアルトが王城内を走っている最中に、今視界に入った者たちの名だ。
その名前は、アルトが今つぶさに告げている名は、王城内で死体となっている者たちの名だった。
「…ヘルエト、クロー、……グート」
進んで、進んで、進んで行き、次々に死体が視界に入る。
城の玄関に、階段に、廊下に、様々な方法で殺された騎士兵の死体が数多く転げ落ちていた。
「ニハ…、グウィ……、ネド……」
綺麗な床が血みどろで赤く変色していた。廊下の絨毯が瓦礫だらけになっており、その中に潰された人の腕があった。壁面がほぼ崩れ落ちており、下半身が生き埋めになって意識を失っている騎士兵の死骸があった。
「ヨーモン……、エリー……、テネ…」
城内を走り抜けながらつぶさに人名を告げていく。次々と視界に映し出された仲間の名前をアルトは口を開いて言い続ける。
溢すようにして言い続けたその名に答えてくれるものは誰もいなかった。返ってくるのは沈黙のみ。
瞳を歪ませ、唾を飛ばし、アルトは速度を落とさずただ一心不乱に王城内を走り続けた。
皆、死体となっていた。走れば走るほど死骸が目に映り込んだ。城の中のそこら中に、アルトの仲間たちが全員命を引き取って転がり落ちていた。
「………………」
………………。
「………………」
………………。
「………………」
………………。
「………………」
………………………………………………。
ただ、無を取り繕った。
正気なら、吐き気がしたかもしれない。呼吸が途切れたかもしれない。駆けていた足が止まってそこで倒れていたのかもしれない。
尖った岩塊を頭蓋にぶつけたくなったかもしれない。
鋭利な刃物で自身の胸部を刺したくなったかもしれない。
右手と左手で自分の喉元を握りしめていたかもしれない。
耐えきれず、自分で自分を殺したくなったかもしれない。
虚無に覆われたか、喪失感に覆われたか、陰鬱に心を苛まれたか。
そうなっても、おかしくなかった。今の、この状況は、この現状は、目の前に広がっている瓦礫と血と死骸に包まれた光景は人間をおかしくさせるのに十分な場所だ。
「…………」
数多の人の亡骸を通り抜け、ただ走ることだけに没入していた。
走ることで延々と景色を移り変えた。前に広がる血に染まった情景を間断なく移し替えていった。
立ち止まってしまったら、壊れてしまうと思った。仲間の死骸の真っ只中で佇んでしまったら、自分が何をするのか想像することができなかった。
だから、今はただただ走った。走って、走って、今向かうべき先へと走り続けた。
城内の鮮血に染められた廊下を進み、瓦礫によって崩壊しかけている階段を上る。
進んで、走って、上って、駆けて、死体だらけの王城内を一心不乱に邁進する。
ただ走った。日夜過ごしたその城の中をただ走った。何度も通った廊下を駆けた。何回も見た部屋を通り過ぎた。
赤く変わり果てた、その崩壊し尽くされた内装を移動し続け、身体が苦しくなるまで血反吐を吐くほど地を駆けて。
そしてついに、アルトはその場へと辿り着いた。
「………玉座の、間」
息を荒げ、総身が疲弊し、手足が痛烈な悲鳴を上げている中、アルトはそこで佇みただそう一言声をこぼす。
その国の王と妃が居座っていると言われている場所だ。壮大な扉で閉められたその部屋は国王としての堂々たる風格が伺える。
必死こいて目指した先、そこは、アルトの父と母がいる場所だ。
イルエス王国の第一王子という肩書きを持つアルトはこの国の王を父としてその妃を母として生まれ育った。
この扉の先はその父と母がいるとされている場所で、
「………ぁ、っ?」
途端、アルトの視界の中にある人物の姿が映り込んだ。
大扉の下付近、そこに新たな人影がある。
それは、アルトが最も親しく言葉を交わしていた者で、アルトが最も尊敬の念を持っていた人物だ。
「セグム、…師匠?」
王国の中でも最高にして最強の騎士、アルトの恩師でもあるセグム・ルロストの姿がそこにはあった。
驚き混じりの掠れた声音で、その騎士の名を告げてアルトは弱々しい足取りで彼の近くへと寄る。
玉座の間の大扉の下付近、そこに背をもたれながら彼は息を引き取っていた。
死してなお刀を握りしめている様は騎士としての高尚さが見受けられる。
瞳を閉じ、力を無くしたその騎士は、静かに眠るようにこの世から別れを告げていて、
「………」
この光景は何なのだろうか、今目の前にあるこれは一体何を見せられているのだろうか。
恩師が亡骸となっている。多くの仲間たちが死骸となっている。
生きている者は一人もおらず、全てが死人へと成り果てている。
何か、分からない感情が胸の内に蔓延り始めた。
つまびらかでないその情のあらわれ、それは怒りだろうか、悲しみだろうか、空虚感なのだろうか。
嘆きか、苦しみか、絶望か、虚無か、憤怒か、憎悪か。
たくさんの仲間の死骸を通り越して、見渡して、今この心の底から生まれ出たこの感情はなんと言い表せばよいのだろうか。
「………」
一言も、言葉を発さずにアルトはただそこに立ち上がり、前にただ目を向けていた。
体に力が出ないように思えた。とは言え、今はたんに、この先に意識を向けるべきなのだと思えた。
目指していた場所、その前に辿り着きアルトは扉の前で佇む。
この先にいる者がこの惨状を作り出した元凶なのだと、すぐに分かった。この場に着いた時からとても強く、ひしひしと扉の向こうから感じている。
この暗鬱と醸し出されるオーラは嫌でも身に染みて滲み込む。
明らかに違うと思った。今から対峙するこの先にいる存在は単なる敵とはかけ離れた存在だと理解できた。
瞬きも忘れたようになけなしに鋭い眼光を宿す。歯が自然と軋む。総身の毛が逆立っていく。
無意識に固く握りしめていた拳を前に掲げ、目前の扉に手をかけた。
腕に力を込め、仰々しい扉を開ける。
圧倒的な重圧の向こう側、そこにいる禍々しいオーラを醸し出している存在と対面し、
「…あぁ?」
こちらに向かってかけられた第一声の言葉は人のような声音だった。
扉を開けた向こう側、玉座の間にいたのは禍々しい黒をその身に宿した、たった一人の少年だった。




