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The Double Feed〜潜入先のボスに気に入られました。なお、正体がバレたら即死です〜  作者: 幻翠仁


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第6話「完璧な証拠」



 雨はまだ降り続いていた。フロントガラスを叩く無数の雨粒が、ワイパーの往復運動によって機械的に掻き消されていく。消えたと思えば、次の瞬間にはまた降り積もり、黒い夜の景色を滲ませた。


 ボストン南部へ向かう州間高速道路。

 深夜だった。道路脇を流れる街灯の光が、濡れたアスファルトへ細長く反射し、まるで途切れない光の帯のように続いている。遠くを走る大型トラックのテールランプが赤い点となって雨幕の向こうへ消えた。


 エンジン音だけが一定のリズムで車内を満たしている。

 サリヴァン海運が用意した黒いSUV。運転席にはレイがいた。

 片手でハンドルを握りながら前方を見据えている。計器盤の淡い光が横顔を照らし、くすんだ金髪の輪郭を浮かび上がらせていた。


 助手席には男がいる。案内役。名はマーティンと言っていた。

 三十代半ば。短く刈り込まれた黒髪。顎には薄い無精髭。黒いジャケットの下から覗く首筋には古い傷跡が走っていた。組織の人間らしい顔だった。善人にも悪人にも見える。つまり、生き残るのが上手い顔だ。


 だが、その表情は最初から険しい。理由は単純だった。

 レイが気に入らないのだ。それも隠そうとすらしていない。倉庫を出てから既に一時間近く経っているが、会話らしい会話はほとんどなかった。


 マーティンは助手席で腕を組み、窓の外を眺めている。

 レイも話しかけない。


 互いに相手へ興味がないように見えた。

 だが、実際には逆だった。興味があり過ぎる。だから黙っている。相手の出方を見ている。沈黙という名の探り合いだった。


「十年か」


 レイは前方を見据えたまま口を開いた。

 唐突な言葉。マーティンが僅かに眉を動かす。


「あ?」

「グレアム・アーチボルド。十年、働いてたんだろ」


 ワイパーが規則的に雨を払う。

 フロントガラスの向こうでは、無数の雨粒がヘッドライトの光を受けて白く瞬きながら流れていく。濡れた路面は黒い鏡のようだった。対向車線を走るトレーラーのライトが一瞬だけ車内を照らし、そして闇の向こうへ消える。

 

「……それがどうした」

「別に。ただ、十年も働いてた人間を切るんだなと思っただけだ」


 雨音が続く。

 車内へ沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのはマーティンだった。


「切ったんじゃねぇ。裏切ったのはアイツだ」


 低い声。

 先ほどまでの無関心とは少し違う響きだった。


 レイは答えない。

 肯定もしない。否定もしない。ただ聞く。だからこそ人は喋る。

 マーティンは舌打ちした。


「……真面目な男だったんだ。酒もほとんど飲まねぇし、博打もしねぇ。ヤクにも手を付けねぇ。それに加え、時間にも正確だった」


 窓の外を見ながら言う。

 街灯の光が流れるたび、その横顔が明滅した。僅かに口元が歪んでいる。皮肉でも楽しさでもない。何処か疲れたような笑みだった。


「娘の話ばっかしてやがったな。その娘が大学へ入った時なんか一週間くらい浮かれてたくらいなんだぜ……」


 カチリ、と小さな音が鳴った。

 レイがウィンカーを出す。橙色の点滅が計器盤へ淡く反射し、車内の陰影を僅かに揺らした。サイドミラーへ視線を流す。後方を走るセダンのヘッドライトが雨粒の向こうで滲んでいる。レイはハンドルをゆっくりと切った。


 SUVが滑るように車線を移る。

 タイヤが雨を切り裂き、水飛沫が白く弾けた。再びハンドルを戻す。エンジン音は変わらない。ワイパーだけが規則正しく往復していた。


「そんな男が裏切ったわけか」

「あぁ。だから余計にタチが悪い」


 吐き捨てるような声。

 怒りというより失望の色が強かった。信じていた人間に裏切られた者だけが持つ感情。レイはハンドルを握る指先へ僅かに力を込めた。


 金の問題ではない。

 組織が怒っている理由はそこではない。グレアムは信用されていた。だから傷が深い。裏切りは敵から受けるより味方から受ける方が痛いのだ。


「最後に見たのはいつだ」


 自然な流れで尋ねる。

 マーティンは警戒しなかった。


「三週間前だ」

「様子はどうだった」

「普通だったさ。これと言って裏切るような素振りも見せなかった」


 マーティンは鼻を鳴らした。

 だが、その直後だった。ふと何かを思い出したように眉が動いた。腕を組み直し、助手席へ深く身を沈める。黒いジャケットが擦れる乾いた音が、車内へ小さく響いた。やがて右足を左膝へ乗せるように組み、窓の外へ視線を流す。街灯の光が流れるたび、その横顔が明滅した。


「……そういや。あの失踪騒ぎの少し前だったか」


 独り言のような声だった。

 レイは反応しない。前方を見たまま運転を続ける。


「アイツ、妙なこと言ってたな。娘が帰省したら連れて行きたい店があるとか何とか。サウスボストンの港近くにあるシーフードレストランでな……何度も名前を聞かされたから覚えちまった」

「気に入ってたのか」

「さぁな。だが、休みの日になると時々あの辺へ行ってたらしい」


 レイは数秒だけ考えた。

 雨粒がフロントガラスを叩く。

 ワイパーがそれを払い、また新しい雨が視界を覆う。


「その店へ行く。そのシーフードレストランまで案内を頼む」

「好きにしろ。おれはお前の案内役だからな。仕事はしてやる」


 会話が途切れる。車内へ再び雨音とエンジン音だけが戻った。

 数十秒ほどの沈黙。レイは前方へ視線を向けたまま口を開く。


「お前は本当に裏切ったと思うか」

「なんだ。ジェイド様の調査結果にケチ付ける気か?」


 マーティンは小さく鼻を鳴らした。

 言葉には棘があった。試すような響きでもある。


「質問しただけだ」


 その返答に、マーティンは舌打ちした。

 窓の外へ視線を戻す。

 街灯の光が流れ、濡れたガラスへ白い筋を描いた。


「……知らねぇよ」

 ぶっきらぼうな声だった。

 だが、その後に続く言葉は少しだけ重かった。


「正直、おれだって未だに信じられねぇ。まさかあのグレアムが、って気持ちはある。だが証拠は揃ってんだ。貨物情報へアクセスした記録。外部との接触履歴。失踪のタイミング。全部が犯人はグレアムだって言ってんだよ」


 諦めたような声音だった。

 信じたくない。だが、否定もできない。そんな声だった。


「――証拠、か。俺は実際に見てみないと信じない人間でな。具体的な資料、持ってるんだろ。その完璧な証拠とやらを見せてくれ」


 マーティンはすぐには答えなかった。

 雨音だけが車内を満たしている。フロントガラスを叩く無数の雨粒。ワイパーがそれを払い、ヘッドライトに照らされた黒い路面が一瞬だけ鮮明になる。そしてまた雨が降り積もり、景色は滲んだ。


 やがてマーティンは小さく舌打ちした。


「……用意はしてある」


 黒いジャケットの内ポケットへ手を差し入れる。

 革が擦れる音。取り出したのは分厚い茶封筒だった。何度も開閉されたのか角が潰れている。表面には雨で滲んだ指紋のような汚れが残っていた。


「ジェイド様から渡されてる。必要なら見せろってな」


 そう言って膝の上へ放る。

 封筒が助手席へ落ち、小さく音を立てた。

 レイは視線を前方から外さない。ただ小さく肩をすくめた。


「開けてくれ。この通り手が離せない」

「あ? 便利屋じゃねぇんだぞ」

「案内役だろ」


 マーティンが顔をしかめる。

 数秒の沈黙。やがてマーティンは盛大なため息を吐いた。


「クソが」


 悪態をつきながら茶封筒を拾い上げる。

 分厚い封筒だった。膝の上へ置くと、それだけでずしりとした重みが伝わってくる。マーティンは親指で封の折り返し部分を起こした。乾いた紙の擦れる音がした。指先を差し込み、中身を引き抜く。


 分厚い資料の束だった。

 数枚どころではない。報告書。写真。通話記録。銀行口座の出入金履歴らしき書類。監視カメラの静止画。白い紙束が助手席の上へ広がる。走行中の車が小さな段差を越えるたび、紙の端が微かに震えた。


 マーティンは一番上の資料をめくる。クリップで留められた書類の表紙には赤字で《内部調査報告書》と印字されていた。


 ジェイドらしいと思った。

 感情ではなく記録。憶測ではなく証拠。誰かを疑う時も、誰かを始末する時も、あの男はまず事実を積み上げる。


 マーティンは紙をめくった。

 パラパラという音が狭い車内へ響く。


「アクセス記録はここだ」


 指先が一枚の資料を叩く。

 表には日時が並んでいる。貨物情報サーバーへの接続履歴。数字と時刻が整然と並び、その中の数行だけが赤線で囲まれていた。


「失われた貨物の情報にアクセスした記録だ。調べた結果、このタイミングでデータを見てたのはグレアムだけだった」


 レイは横目で資料を見る。

 視線は一瞬だった。

 だが、その一瞬で内容を読み取るように青い瞳が細くなる。


 次のページが捲られる。

 監視カメラの静止画だった。港湾地区の駐車場。深夜。街灯の白い光が濡れたアスファルトを照らしている。写真の中央には二人の男が写っていた。一人はグレアム。もう一人はフードを深く被った人物だった。


「これが接触相手だ」

 マーティンが資料を指先で叩く。


「撮影されたのは貨物襲撃の二日前。場所は港の東側にある駐車場だ」


 レイは何も言わない。

 ただ横目で写真を見る。車内へ雨音が響く。ワイパーが一定のリズムで往復する。その間にもレイの視線は写真の上を滑っていた。


 男の立ち位置。街灯の角度。地面へ落ちる影。そして写真の輪郭。

 不意にレイの眉が僅かに動いた。


「どうした」


 マーティンが訝しげに言う。レイは答えない。

 写真をもう一度見る。荒い画像だった。元の解像度が低いのか、引き伸ばされたのか。輪郭は全体的にぼやけている。だが、グレアムの肩口だけが妙だった。周囲のノイズと混ざっているはずの輪郭だけが、妙に浮いて見える。本来なら画像全体へ均一に現れるはずのノイズ。だが、その部分だけ質が違った。まるで別の画像を貼り付けた後に圧縮したような。そんな、ほんの僅かな違和感。普通の人間なら見逃す程度の差だった。だが、レイは見逃さなかった。


「その写真、原本か?」


 静かな声だった。

 マーティンが眉をひそめる。


「監視カメラから直接抜いたデータなのかと聞いてる」

「そう聞いてるが」


 レイは数秒黙った。

 ヘッドライトが前方の雨粒を白く照らす。

 視界の向こうで道路標識が流れていった。


「……妙だな」

「何がだ」


 マーティンの声が少し低くなる。

 レイは写真から目を離さなかった。


「確信はない」

 そう前置きしてから続ける。


「ただ、この写真だけ妙にノイズの乗り方が違う」


 車内へ沈黙が落ちた。

 マーティンが写真を注意深く見下ろす。だが彼には違いが分からない。ただの荒い監視画像にしか見えていなかった。


「お前、何が言いてぇ」

「まだ何も。ただ……完璧な証拠ほど、杜撰な証拠はない」


 雨音が強くなる。フロントガラスを叩く雨粒が一段と激しさを増した。

 マーティンは黙ったまま視線を落とした。その横顔には僅かな苛立ちと、説明できない不安が浮かんでいた。


「……くだらねぇ。完璧な証拠ほど杜撰な証拠はない、だと? アイツが犯人だろうが、違かろうが、今更何が変わるってんだよ」


 車内へ重い沈黙が落ちた。

 レイは何も返さなかった。雨が降っている。ワイパーが往復する。そして、その隙間を埋めるようにエンジンの低い唸りだけが車内へ満ちていた。まるで答えの代わりだった。誰も何も言わない。だがSUVだけは、黒い夜の中を止まることなく走り続けていた。


「……次の出口だ」

 不意にマーティンが窓の外を見たまま口を開いた。

 レイは視線だけを向ける。


「出口?」

「路肩へ寄せろ」


 短い言葉だった。

 理由は説明しない。だが、その声音には妙な硬さがあった。

 レイは何も聞かなかった。


 カチリ、とウィンカーを出す。橙色の点滅が雨に濡れた車内を断続的に照らした。SUVは速度を落とす。タイヤが溜まった雨水を切り裂きながらゆっくりと右へ寄っていく。やがて白線の外側へ滑り込み、路肩へ静かに停車した。


 エンジンは動いたままだった。ワイパーだけが規則正しく往復している。

 マーティンは何も言わない。膝の上に広げていた資料を乱暴にまとめると、そのままダッシュボードへ放り投げた。紙束が滑り、乾いた音を立てる。


「おい」

 レイが呼ぶ。


 だが返事はない。

 マーティンは既にシートベルトを外していた。バックルの外れる金属音。続いて助手席のドアが押し開かれる。冷たい雨風が一気に車内へ流れ込んだ。


 濡れたアスファルトの匂い。遠くを走る車のタイヤ音。

 夜気は鋭く冷たかった。マーティンはそのまま外へ降りる。黒いジャケットが瞬く間に雨を吸った。そしてドアを閉める。鈍い音が響いた。数歩だけ離れたあと、不意に振り返る。中指で窓ガラスを二度、三度と叩いた。


 雨音の中でもはっきり聞こえる音だった。

 レイは小さく眉を上げる。運転席のスイッチへ指を伸ばした。モーター音。窓ガラスがゆっくりと下がる。冷たい雨粒が数滴、車内へ吹き込んだ。


「何だ」


 マーティンは道路の先を顎で示した。

 雨幕の向こう。

 街灯が途切れた先に、港湾地区へ続く道が伸びている。


「このまま真っすぐ行け。十分も走れば目的のレストランに着く。おれは別件がある……案内はここまでだ。あとは自分で何とかしろ」


 レイは片眉を上げた。

 数秒だけ相手を見る。

 だが、特に引き留めようとはしなかった。


「ああ」


 返事はそれだけだった。

 マーティンは小さく鼻を鳴らす。だが立ち去ろうとはしない。何かを言いかけているようだった。拳を握り。そして開く。雨が額を伝って落ちる。


 やがて彼は視線を逸らした。

 横顔が街灯の光に照らされる。そこに浮かんでいたのは、苛立ちではなかった。怒りでもない。もっと重い何か。諦めにも似た苦悶だった。


「……お前がグレアムの無実を証明しようが、それに意味はねぇ。だが、やりたいんなら勝手にやれよ。じゃあな」


 それだけだった。マーティンは背を向ける。

 黒い背中が雨の中へ溶けていく。街灯の下を通るたび輪郭が浮かび、次の瞬間には再び闇へ沈む。やがてその姿は雨幕の向こうへ消えた。


 レイはしばらく動かなかった。

 窓を閉める。外界の音が遮断され、再び車内にはエンジン音だけが残った。


「意味はない、か」


 小さく呟く。

 その言葉だけが妙に引っ掛かっていた。無実を証明しても意味がない。まるで結果を知っている人間の言い方だった。レイは数秒だけ考える。


 そしてウィンカーを出した。

 橙色の光が雨粒を照らす。ハンドルを切る。黒いSUVは再び路肩を離れ、濡れた夜の道路へ滑り出した。雨はまだ降り続いていた。



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