敗残兵、剣闘士になる 031 身近な死
チロの5回戦が終わった
地方都市での興行なのでマリディアーン(剣闘士として二流以下)の仕合にチロ(新人、出始め)が出ているが普通はじっくり訓練してから出るのが普通なんだそうだ
「また来るぞ」
「流石に他のところに行くんじゃないか?」
「いや1箇所空いてるが他2箇所は無理だろうな」
「じゃあ準備しようか」
煮ていたメスと鈎、針を取り出して冷やしお湯の追加を頼む
お湯は衛兵さんに言えば専用の人が追加してくれるというナイスなサービスがあるので重宝している
グラウクスの読み通り一人運ばれてきた、初めての敗者だ
「意識はあるか?」
「ある」
消えそうなほどの声だ
金の短髪だ、髪の毛が使えない
体は細身、傷は左肩の方から胸をバッサリ切られているが血はあまり出ていない
「左腕は動くか?」
「痛くて動かせない」
「そうか、感覚はどうだ、触ってわかるか」
「そこ!痺れる」
二の腕に痺れがあるらしい
内側も外側も胸筋神経がやられている可能性があるが腫れて膨れた筋線維の間を掻き分けて繋げるにはかなり無理がある
選択は任せるしかないな
「神経が2本ないし3本切れてる可能性がある
繋ぐことを優先すれば胸の筋肉が腐る可能性がある
神経放っておいて筋肉を繋いでも神経が効かなくて動きが治らない可能性もある
どうしたい?選べ!」
「神経は確実に繋げるのか?」
「かなり難しいだろう、時間がかかるのは間違いない
繋いでも動きは戻らない可能性がある」
「どっちもどっちかよ
筋肉を繋いだ場合は?」
「筋肉を繋げば筋肉は生きる、他の神経が代理をしてくれれば上手く動かせるかもしれん、ただし痺れは高確率で残る」
「くっそ、筋肉を繋いでくれ神経が見つかれば縫ってくれ」
「分かった、使える毛がないから絹の糸を使う、そのうち溶けるから心配するな
ただし使ったぶんだけ請求する、いいな?」
「仕方ない」
「よしやるぞ」
アルコールと例の薬を少量だけ飲ませて眠らせる
筋線維を縫うのは難しいので筋内腱を縫って補強程度に筋を縫いつける
塩水で洗った際に一本だけ神経を発見、恐らく内側胸筋神経だが一応神経鞘を縫い繋いでおく
最後は筋膜を縫い付けて一部癒着させて皮膚を閉じた
できるだけ出血点は焼いておいたので壊死するほどの出血は出ないだろう
あとは細かい傷しかなかったので洗って終了だ
衛兵に治療終了を伝える頃に勝者が来たがそっちのほうが重症そうだ
右肩右胸両足に刺創がある、恐らく槍だろう、出血も多くまだ止まってない
顔色もあまり良くないし呼吸もややひっ迫しているように見える
奥の部屋に案内されたが大丈夫かどうか心配だ
せっかく勝ったのに死んだんじゃ元も子もない
「首突っ込むなよ」
「分かってるよ、行ったところで治療道具が足りないんだ、どうしようもない」
「そうなのか」
「ああ、多分槍の先が肺までいってる
外傷性気胸って言って肺がパンクして潰れてるのさ、多分胸膜の中で出血もしてる
肋骨の間に管入れて血を出しつつ漏れた空気を出すのに管の先を水に入れるんだ
それができてから胸の傷から処置を始める、出血が多くなりすぎると止まらなくなるから神経云々よりも血管と傷を塞ぐことが優先になる
はっきり言って人材も技術も物品も足りないんだ」
「管ならあるぞ」
グラウクスがみせてくれたのは青銅製の細いパイプだ、長さは50センチくらいあり胸腔に入れるには難儀だが出来なくはなさそうだ
「みんな持ってるのか?」
「恐らくはね」
「使えるかは別ってことか」
沈黙が流れる
「肺はどのくらいで治るんだ?」
「3・4日、もっとかかるときもあるし治らないこともある
傷の大きさと膨らみ具合によるのさ
片肺でも生きられなくはないが仕合は無理だろうな」
「そんなにかかるのか、その間患者は?」
「動けない、飯が食えるかどうか、咳をしたらまた出血するし中の傷が広がるかもしれん」
「そりゃ無理だ、こんな硬いとこに寝てるなんてだめだろう」
「カヒームはよく寝てたな」
「あれは凄いよな」
その後、胸の傷を塞いだグラディアトルを迎えに来たムサイ男たちに状態を説明して返した
数十分後、奥の部屋に運ばれた勝者が目を閉じたまま物言わぬ体となって運び出されていくのを部屋の入口から見送ることとなった
残り2つの部屋からはまだ治療済みの患者が出てこない、大丈夫だろうか?心配だ
「これからまだあと2仕合分あるが引き受けることになるのか?」
「恐らくは」
「長い一日になりそうだ」
消毒は忘れず行っているがメスの切れ味が少々心許なくなってきた
数分後過熱していた観客の歓声が大歓声に変わった
「来るな」
「大変そうだな」
グラウクスと話していると敗者が運ばれてきたが奥の部屋にも自分たちの部屋にも入らず、まだ患者がいるであろう部屋に入っていった
「受け持ちか?」
「だろうな」
廊下をみると血の跡が無い、出血はしてないみたいだ
「勝ったほうが来るかどうかだな」
「だな」
勝者は来なかった、恐らく大怪我はしていないんだろう
また1時間、治療談義をしていると向かいと奥から2人のグラディアトルが出ていった、歩きを見る限りそんなに重症な感じじゃなかったようだ
また歓声が起こりマリディアーンの最後の仕合が終わったようだ
「来ると思うか?」
「どうかな順番的には向かいの部屋だろうな」
「じゃあ勝者がくるかどうかだな」
なんて算段をしていると敗者が運び込まれた
目立った外傷がない、兜をかぶったままだ
意識が無い、呼吸が浅い
目のところに銅貨1枚分くらいしか穴が開いていないので何がどうなっているか見当がつかない
「兜を外そう」
顎に止めている革紐を取ろうとしたらもう取れている
「挟まったのか、引っ張り取るしかねえな
多分だが頭の骨が折れてる、脳にも損傷があるかもしれない、勿論出血もしているだろうからメスと塩水の準備も頼む」
「おう」
兜を力まかせに、だがなるべくまっすぐ引く
尻もちをつきながらなんとか脱がせると直ぐ現状を見る
チリチリの黒い短髪、髭は四角く口を囲うアラブ系の顔だ
左の前頭部から目の上まで骨が折れているのか腫れてパンパンになっている
骨を辿っていくと髪の生え際くらいまで折れているようだ
「内出血を開放しよう、大出血だ
脳の圧迫が心配だが出血点わかるかどうかだな」
「塩水も大量にあるぞ」
「ありがとう」
メスの先が当たってすぐ血が吹き出す、飛び散ると嫌なので兜で押さえさせてもらった
ドロドロと血が流れ落ちるところを塩水で洗浄、切れている動脈を一本発見し指で圧迫して止血した
「グラウクス焼けるか?」
「お、おう」
ちょっと手を震えさせながらも動脈を軽く焼いて止血した、一時的なので絹糸で結紮し二重で止血すると目に見えて出血が減った
血を洗い流しながら微小な出血点はどんどん焼いていく
前頭骨の割れた骨は取り出す、陥没した部分もヤットコで取り出し脳を包む硬膜を露出させる
「中も出血してるな、脳は初めてだ
先ずは硬膜だ、この下に溜まってる分には大丈夫なんだがどうかな」
メスで小さい穴を開ける、また血が吹き出すと思っていたので兜で受け止めた
硬膜の下からの出血が止まらないし崩れたアン肝みたいな脳実質も出てきてしまっている
「脳も中の動脈もやられてる、これは無理だ」
「どうする?」
「どうもこうもな、衛兵に伝えよう」
硬膜を焼いて塞ぐが絹糸をコヨって硬膜から出しておき額の傷も縫合してキレイにするが絹糸は出しておき血が溜まらないようにドレナージしたままにしておいた
衛兵に現状報告、上役を呼んでもらった
数分後、ちょっといい服とトーガを纏った人が来て現状を見た
「ダメか?」
「脳も一部流れ出てきた、できる限りの止血はしたが脳の中まで焼くわけにはいかず血で脳が圧迫されないようにだけはしてある」
「生き残る可能性は?」
「ほぼ0だ」
「治療を止めていい、随分とキレイにしてもらったんだ十分だろう
縫い口をみるだけでもいい腕だ、こんなところで振るう腕じゃないだろうに」
「期待に添えずすみません」
「そういう世界だ、やるだけやってもらえて良かっただろう」
そう言い残して出ていかれた
数分後、呼吸が止まった
グラウクスが衛兵に伝えると白頭巾の二人が遺体を取りに来て大きな麻袋みたいなものに包んで連れて行った
軽く目を閉じ頭を下げて祖先神となった彼の者に礼を捧げた
グラウクスは両手を組んで黙祷を捧げていた
「死を目の前にするのは辛いものだな」
「そうだな」
どんよりしているのも何なので二人で上位の剣闘士の仕合までの間に治療所を掃除して清めておくことにした