敗残兵、剣闘士になる 032 解放奴隷
チロ達が戦う日中の血闘が終わり、日が落ち始めてから後半の3試合が行われる
名の知れた上位の剣闘士達の戦いは人気も技の冴えも良く観客の興奮も凄まじい
「始まったのかな」
「そうだな」
チロの仕合も盛り上がっては居たがそれは真剣になってから且つ最後の方だけだ
パロス同士の闘いの熱狂は想像以上だ
地響きのような歓声と悲鳴、怒号が入り混じりまるで甲子園のようだ
「凄いな」
「それが今日は3仕合もあるんだ、眠れないぜ?」
「はあ、凄いねえ」
鳴り止まない歓声と地を伝う振動が何もしていないのに興奮を誘う
少しでも冷静になるために脳の構造、腹の中の構造をグラウクスに教えていく
構造が分かったら損傷度に合わせて治療の優先順位を指導する
一際大きい歓声が上がると拍手の音が聞こえてきた
「終わったな」
「今回は来ないよ」
「受け持ちか?」
「二人共な、2仕合目の1人がメディケの居ないルドゥスのところだ」
「メディケが居ないってのは結構不利だな」
「そうさ、ハルゲニスのルドゥスにも昔は居たが随分と歳がいってて数年前に死んだきりで空いてたのさ
マツオはハルゲニスからしても皆からしても儲けものだと思うぜ」
「そうか?もっと腕のいいのは居るだろう?」
「そういうのは今はダナウ川の戦線に連れていかれてるよ」
「なるほどな、戦争中か」
戦争の余波はこんなところにも出ていた
一刻も早く止めて帰ってきて欲しいものだ
グラウクスの予想通り1組目はどちらもこの部屋には来なかった
2組目が終わると敗者は向かいの部屋に入って治療が開始された
十数分後、勝者を担当することになった
グラウクスは言っていたメディケの居ないルドゥスの人間だ
アフリカ系で坊主頭、肩の筋肉はもう一つずつ頭があるかのように大きく胸板も厚い
一見すると怪我が分からない
「お疲れ様でした
痛むのはどこですか?」
「左腕だ」
「見ますね」
差し出された左腕は大根2本分は余裕で有りそうだ
一見すると腕は何ともないが触って気付いた
左肘の外側側副靭帯が効いておらず一部骨の外れたようなしこりがある
「剥離骨折だな」
「折れているだろう?」
「そうだな、放っておいても治るぞ」
「さっき木剣を貰ったんだ、これでやっと引退できるんだ
しっかり直して置きたい」
「ならやろうか」
「グラウクス、靭帯の修復だ
骨に穴開けるのはあるか?」
「有るよ」
出てきたのは錐だった
「痛み止めはするか?」
「耐えてみせるさ」
「無理になったら言えよ」
「おう!」
うつ伏せに寝てもらい肘を曲げたまま下へ垂らすようにベッドの端に下ろしてもらう
肘を軽く曲げた状態で肘の外側やや後ろ側を切開、頭に脂汗を掻きながらも歯を食いしばって耐える
開けてよく見てみると上腕骨の外側上顆の下の方が欠けたように外れているが完全ではなく一部の剥離だった
上腕骨の欠けた部分に穴を開けて外れた骨片を埋め込み絹糸を引っ掛けて近くの骨膜と筋膜を一部剥がして引っ張り外れないように蓋にして整復する
微細な出血は焼いて止めてしまう
ついでに気付いてしまったものがある
「普段左手痺れないか?小指と薬指あたり」
「その2本は力が入りにくいな」
「やっぱりか、そっちもやっておくか?」
「治るのか?」
「神経の通り道に骨が盛り上がってきていて圧迫されてるんだ。神経の通り道を変えてみて、神経の痛み具合次第だがそのままか少し良くなる可能性が高い
神経の中の部分が潰れてしまっていると段々悪くなるのでやっても変わらない」
「ダメになってればやってもやらなくても変わらないか
いい状態なら今のうちにやれば治る可能性があるということだな?」
「そうだ」
「やってくれ」
「おう」
肘の骨折部を触る際に反対側も触れたのだがその時の違和感があった
肘部管(肘が当たると痺れるところ)という神経の通る骨の溝があるのだがやけに盛り上がっていたのだ、それだけなら見逃すが最終的な決め手は尺側手根伸筋の異常な痩せと筋張るほどの緊張だった
「じゃあ肘の内側も切るぞ」
「やってくれ」
切開するのは4センチ程度、肘部管はすぐに露出可能、蓋になっている靭帯をカットして肘を伸ばし一部剥離してから骨を乗り越えて外側へずらして終了、さっさと出血を止めて皮膚を縫って閉創
「終わったぞ」
「早いな」
「仕事はきっちりさせてもらった」
「ありがとよ
じゃあもう会うことはないと思うがいいメディケに巡り会えたことは覚えておくよ」
「なるべく腕を布で吊っておけ
20日は左手で物を持つな、重たいものも30日は開けてからにしてくれよ」
「分かった、ありがとう」
「お疲れ様でした」
笑顔で手を上げて出ていった
「グラウクス、聞いてもいいか?」
「なんだ?」
「木剣貰うとなんかあるのか?」
「知らないのか?
グラディアトルから解放されるんだ、自由人の権利が得られる」
「なるほど〜」
「でも自由市民じゃなくてな飽くまでも解放奴隷なんだよ
選挙権もない、土地も持てない、仕事は出来るが生活の保証がないんだ」
「それの何が悪いんだ?別の国に来たんなら普通だろ?問答無用で殺されないだけ良いじゃないか」
「全く、マツオはどんな国から来たんだ」
「そうだな刃物使って2000年以上戦争し続けて、他の国に難癖つけて侵略して講和の使者の首だけ送り返すような国かな」
「怖いな」
「だろ?市民権があるだけで十分さ」
「それから考えれば十分かもな」
バカ話をしながら3仕合目の終わりを迎え、怪我人を診ることなく仕事を終えた
待機所へ手術道具を持って戻ると苦い顔のイフラースが居た
「やっかいな仕事だ、ハルゲニスに呼ばれている
道具はグラウクスに任せてマツオだけ来い」
「はい」
道具をお願いしてイフラースの後について歩く
イフラースの背中から嫌な感じが漂うのを間近で感じ、本音では引き返して逃げたかった




