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  作者: SF
19/23

19.寒九の雨

寒の入り(小寒)から9日後に降る雨。豊年の兆しとされている。

ハッと意識を取り戻すと、見知らぬ場所にいた。

半分視界が奪われ、白い壁、緑のソフトビニールカバーの椅子、非常口案内灯が目に映る。時々白衣を着た看護師たちが行き交っていた。

ここは病院の待合室であり、自分は連れて来られたのだと気づいた。


「豊高・・・・・?」


死角から声がした。そちらを見ると母親が涙を目にいっぱい溜めていた。


「あ、うん・・・・・」


豊高が半分呆けたままで答えると、母親はポロポロ涙を零した。


「え、何、なにがあったの?」


涙交じりに母親が話すには、豊高が父親に殴られた後、目は開いていても焦点が合わず呼び掛けに答えなかったことにパニックになり、思わず救急車を呼んだことを伝えられた。応急手当てをし一晩様子を見るためベッドの空きを探していた処だった。心療内科に診てもらう予定もあったという。

そんな大事になっていたとは露知らず、豊高はただただ気恥ずかしかった。

帰り際、看護師と医師に、母親は深く頭を下げていた。豊高は医師と看護師の顔をとても見られなかった。

しかし、心療内科の医師に話があると呼ばれた。医師は、30代後半の男性であり、スポーツでもやっていたのか浅黒い肌をしていた。


「お母さんは話さなかったけど、それはどう見ても殴られた跡だよ」


豊高は息を呑んだ。思わず医師の顔をまじまじと見る。


「誰にやられたかは無理に聞かないけど、きちんと自分の身を守るんだよ。誰かに頼ってもいいし、逃げ出してもいいから。僕も候補に入れておいて」


医師はそう言って名刺を渡した。豊高はこくこくと頷いた。

お母さんによろしく、と言い残し、医師は朧な蛍光灯の灯りが光る廊下に、靴音を響かせながら去った。名刺を持つ手が震えた。


ーーーー三村真紀


みむらまさき、とふりがながふってあった。

豊高は、その名前を何度も目でなぞる。母親の恋人の名前を、たった今、初めて知った。


帰りはタクシーで帰宅した。デジタル時計を見れば深夜3時を回っていた。


「明日、学校休みなさいね」


豊高は小さくうん、と呟く。車の窓に流されていくネオンをぼんやり眺めていた。


「・・・・・なんで、父さん、あんな怒ってたの?」


母親は唇を噛む。ふるふると瞳が揺れていた。


「・・・・・今日、豊高のお友達来てたでしょ?」

「まさか、それで?」

「部屋に連れ込んで何をしていたんだって。でも、知らないって答えたら・・・・・」

「・・・・・頭おかしいよ・・・・」


豊高は怒りを通り越し呆れた。


「うん、本当に、おかしい。なんだか・・・・・」


声が冷たく、細くなっていく。幽霊のように虚ろな母親の横顔にぞくりとした。自分の母親のものではない気がした。


「もう、逃げようか・・・・・豊高」

「・・・・・・・どこに?」

「・・・・・・・・」

「・・・・・ねえ、どこに?」


それ以上、何も言えなかった。

母親の目は遠く離れた処を目指しており、心は豊高の傍にないことは明白だった。

帰宅しても、父親はいなかったが、豊高も母親も、それには一切触れなかった。

自室に入ると、乱れたシーツや布団が床にずり落ちていた。現実に起こったことなのだと自覚する。

再び横になると、僅かに石蕗の匂いが残っていた。瞼を閉じると、石蕗の暖かな眼差しが思い出される。心に温かさが灯るが、目の前に迫る拳がフラッシュバックし背筋が冷たくなる。

同じ日に起こった出来事とは思えなかった。


豊高は浅い眠りの中で夢を見た。

茶色いくるくる頭の幼い少年が、母親の手を引き何かわめいている。困り顔の母親の側に父親が寄ってきて、少年をひょいと肩車した。

少年は弾けるように笑い、若い母親は困ったような笑みを浮かべた。

親子は笑いながら歩いていく。

白い日差しが強くなる。

笑い声を残し、その後ろ姿が白く霞んで消えていく。


目が覚めると、ひどく寒かった。布団は跳ね除けられ、身体が凍りついたように冷たく、ガタガタ震えていた。

そして、胸に穴が空いたような喪失感を抱えていた。

なにか大切な夢を見ていたような気がしたが、忘れてしまった。


次の日は、一日中部屋に閉じこもっていた。この世に一人きりな気分だった。

石蕗からメールが入っており、他愛もない内容だったが息を吹き返したような心地だった。しかし、石蕗と話すことが何故か躊躇われ、返信はしなかった。

ベッドから降りる気がせず、身体がマットレスに根を張ったように動かない。

何度か部屋の外から声を掛けられた気がするが、ひたすら微睡みと倦怠感の中を彷徨っていた。


目が覚めると、窓から光が差し込んでいた。

眠っていたらしい。あの日から、学校は休んでいた。

家の中にいるのは嫌だった。中学生の時に戻ってしまいそうだった。

しかし、出歩くことも憚られた。

救急車が呼ばれたことは近隣の住民に知れ渡っているだろう。平日の昼間に歩き回ることで、また噂の的にさらされることになる。

豊高は、部屋から出ることができなかった。母親は、何も言ってこなかった。何と言えばいいのかわからなかったかも知れない。豊高の世界は閉じていく。


部屋に閉じこもって一週間ほど過ぎた。

家の中だけで生活しているためその感覚すら正しいのかわからなかった。もうどうでもいいと思うと同時に、早くなんとかしなければ、と逸る思いもあった。

どうにもできないまま、冬休みに入った。終業式は、出席しなかった。終業式があったということ、また、石蕗が部活を辞める日であることを思い出したのは、通知表とプリントが家に届けられてからだった。その程度のことだったのだろうか、と情けなさや悔しさ、苛立ちが沸く。


プリントを届けに来た担任の教師は、家庭が大変そうだが頑張れ、としか言わなかった。

豊高は成績表やプリントの中身も見ずに、キッチンの机の上に放置した。両親には何も言われなかったため、それだけの成績は取れているようだった。

石蕗からはメールが頻繁に届き、クリスマスや正月といった歳時記を伝え、辛うじて豊高を外界に繋げていた。

母親とも父親とも話さず、ただ部屋の前に着替えや食事の用意が置かれているだけだった。

豊高はそれを見るたび、なんて情けないのだろう、と思うと同時に、数日経てばそれが当たり前のように思えてきてしまうことが恐ろしかった。


母親と久しぶりに話したのは、元旦の翌日だった。

ドア越しに、弱々しいノック音が部屋に転がり込んできた。豊高は起きていたが無視をする。


「豊高、お友達・・・・・」


豊高は、まさか、とドアに目をやった。扉越しに何やら男の声と母親の声が聞こえ、ガチャガチャとドアノブが揺れたかと思うと、


「おう、立花!」


とドアが開け放たれた。


「センパイ・・・・・」


コートを着た私服の石蕗はむっつりと不機嫌そうな表情だった。豊高は怒っているのでは、と気が気でなかった。


「覚悟しろ!遊びに行くぞ!」

「は、えっ?」

「3分間だけ待ってやる!出来ないってんならダチ呼んでここで麻雀な!」

「え、ええ!?」

「はい、あと2分!」


居座られるのは困る、と咄嗟に思い、また、よく分からない焦燥感に駆られ、モノトーンのプリントのシャツにジーンズ、ダウンジャケットを引っ掛け、石蕗と共にバタバタと家を出たのであった。

石蕗に連れて来られたのは近所の神社だった。元旦の翌日でも人がごった返している。屋台が並びトウモロコシや焼そばの香ばしい匂いや、綿あめの甘い香りが充満している。

豊高は人混みの中を、石蕗に手を引かれながら本堂に向かった。お互い指先は冷え切っていたが、触れ合う手の平が温かい。


「・・・・・・いいんですか?」


豊高は繋がれた手を見る。


「なにが?」


石蕗はキョトンとした顔で振り向いた。豊高は咄嗟に目を背け


「その、受験勉強、とか・・・・・」


と言葉を濁した。


「合格祈願くらい見逃してくれ」

「ああ、なるほど」

「てかさあ、立花までホント勘弁してくれよ。親がただでさえうるさくってさぁ」


石蕗がため息を吐く。


「じゃ、なんで俺なんスか?」

「ダチは、勉強だって・・・あと里帰りとか・・・・・」

「吉野先輩は?」


石蕗の背中が、一瞬強張る。


「・・・・・大学の準備で忙しいって。一人暮らしするんだって」

「・・・ふうん」


不穏な空気が漂い、失言したことに感付く。それ以上踏み込むことは止めた。たまたま目に入ったもので話題をそらす。


「センパイ、おみくじとか信じる派ですか?」

「お、やるか?」

「いや、後でも」

「いいじゃん。引こうぜ」


テントに御籤と行書体で書かれ、その下の長机に木箱が並んでいた。アルバイトの学生らしき女性が巫女装束で受け付けをしている。


「2つ」


石蕗は女性に向け、ピースサインの形を作った。


「俺のはいいです」

「いいんだよ」


石蕗は小銭を木箱に入れ、御神籤を引く。一つは豊高に渡した。豊高は小吉、石蕗は吉であった。


「ま、こんなもんだよな」


石蕗は苦笑いする。


「俺のもセンパイが引きましたけどね」


豊高はいつもの癖で、若干生意気に言う。


「ああ?普通のでよかったじゃん」

「凶でも逆にレアでしたよ」

「だぁー!ホントかわいくねえよなあ!」


そう言いながらも、石蕗は楽しそうに笑っていた。


「いいっスよ、俺男なんで」


どこかで聞いたようなやりとりに、豊高の顔も綻ぶ。

騒がしい人混みの中、2人の笑い声がはじけて混ざり合った。


豊高が心地よい倦怠感を携えて帰宅すると、母親が駆け寄って来た。

豊高の名前を呼びかけたが、憑き物が落ちたような彼の表情を見て、言葉を詰まらせる。そして、すこし微笑んだ。心なしか目が潤んでいる。


「・・・・・楽しかった?」


豊高は面食らい、にやけるのを抑えながら頷く。


「・・・・・いいお友達ができて、よかったわね」


豊高は不機嫌な顔を装いながら


「・・・・・センパイだし」


と小さく返した。


「・・・・・ご飯食べる?」

「食べる」

「・・・・・お雑煮だけど・・・」

「食べる」


豊高は靴を脱ぎ、マフラーとジャケットを脱ぎながら母親と台所へ入っていった。室内は暖房で暖められている。鰹だしの匂いがふわふわと漂っていた。

そして母親と席につく。豊高は、久しぶりに、家族と食事をした。

それから、冬休みは大半を自宅で過ごしたが、焦燥感や心が閉じて行く感覚はなくゆったりと過ごした。


始業式の日は、他の生徒と同じように憂鬱を引きずって登校した。ただただ肌を刺すような冷気が頬を赤く染め息を白くする。しかし冷たく澄んだ空気は身体の中を洗い流し、新しい出来事が始まる予感を感じさせた。

教室の壁には学年の便りが張り替えられており、各部活の部長からコメントが載せられていた。

当然石蕗のものもあり、あの快活な石蕗から想像もつかないほど硬い文章だった。豊高は流石3年生だと感心する。

ホームルームの時に気付いたが、赤松の席は空白だった。体調を崩したのか、旅行中なのか、不登校に陥ったのか、豊高には推測するしか術がなく、またそこまで関心が湧かなかった。

担任は豊高を見つけると、ほっとしたような顔を見せた。しかし、それだけだった。声をかけられることすらなかった。単に問題が一つ解決したと取ったらしい。今まで嫌がらせに見て見ぬ振りをしてきた担任に、期待などこれっぽっちもしていなかったが。

あっけないほど早くホームルームと始業式は終わり、帰り際、廊下ですれ違った男性教諭に声をかけられる。


「ちょっと、職員室に来てくれないか?」


豊高は首を傾げる。見覚えはあるが、どのような接点があったか思い出せない。

職員室について行くと、


「おめでとう」


とにこやかに、検定の合格通知を渡された。ここで初めて、この男性教諭が、コンピュータ部の顧問だったことを思い出した。


「がんばったじゃないか。幽霊部員だったくせに」


豊高は目を丸くする。

大勢いる中の一人だとしか捉われていないと思っていた。小さくありがとうございます、と呟く。

自分を見ていてくれる者がいたのだと、胸がいっぱいになった。


周りにいる者は、皆敵だった。

だが、自分の見えないところに、そうでない者もいることに、豊高は気づき始めていく。





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