3回目
※ ※ ※
「あれ、高見沢先輩」
キキッと耳に痛い音と共に通り過ぎようとした自転車が停まる。
「家こっちのほうじゃなかったですよね」
「え………と」
思い出せずにいるらしい遙都に、少年がこれみよがしに脱力して見せる。
「貴島純。図書委員会で顔あわせてますよ?」
「ごめん」
「まぁ、いいんですけどね」
基本的に遙都はひとの顔と名前を覚えるのが苦手だ。だから、こういうことが起こる。
ひとの目を見て話すのが苦手だからかもしれない。
ぼんやりとフォーカスをぼやかすので、顔を覚えられないのだろう。
わかっているのなら改めればいいのだが、苦手意識は消えなかったりする。
「で、先輩こっちに用があったんですか?」
「高村先生に、絵のモデル頼まれてて」
「高村せんせ………ね」
(あの中年モラトリアムか)
一見植物的な印象を受ける高村美術教師を思い出す。しかし、純が高村に抱く印象は、実は擬態している肉食の生きもの――なのだった。時々、瞳の奥に何か気味の悪い光がぞろりと動くような気がしてならない。しかし、それらは、あくまでも純の勝手なイメージに過ぎないのだ。
「ああ、そういえば、先輩とは親戚だって聞いた記憶が」
「そう。祖母と、高村先生のお祖父さんが兄弟なんだ」
なんとなく説明してしまい口をつぐむ遙都に、
「でも、高村せんせ、送ってくれなかったんですか。あんな死体が見つかったばかりだってーのに」
「それは、ちがう」
「え」
「送ってくれるって言ったんだけど、昼前だし、辞退したんだ」
「昼前だからって、安全とは限らないんですけどね」
「そうか?」
「そーですよ。ほら、この道を通るってことは、森の前を通るってことなんですよ。例の停留所のすぐそば。で、ですね。この道は、はっきり言って細いし暗い。でしょ?」
森の道は、車2台がようやくすれ違えるくらいの道だ。
森の反対側には、崩れかけた漆喰壁の廃虚が取り壊されもせずに放置されている。
夜通るのは、ご免被りたいような道なのだった。
けれど、今は、昼。
「そんな暗すぎないと思うけどなぁ」
明るさからすれば、遙都にとっては楽な道だったりする。
「なら、人通りが少ない」
「それは」
「もし、その辺から変質者なりチカンなりが出てきて、引っ張られたら? 自転車ならともかく、先輩逃げる自信、ある?」
「痴漢って、オレ、男だし」
「今や痴漢の被害者に男女別なんかナンセンスですって。で、先輩は、体力に自信は?」
「……ない」
「でしょ?!」
にっこりと、我が意を得たとばかりに純が笑う。
「だから、僕が送ってあげましょう」
遙都の瞳が丸く瞠らかれる。そうして、一瞬後には、吹き出していた。
ひとしきり笑っていた遙都だったが、
「じゃあ頼もうか」
と、純に向かって頭を下げたのである。
毎日送り迎えをしようか――と、純は提案した。それは、気が重い。だから、断ったのだが。
それでも、純は偶然と説明しながら、送ってくれる。
偶然ではないと、三日も続けばいくら遙都でも、想像がつく。
純が喋り、遙都がそれに相槌を打つ。
話題が豊富な純のお喋りは楽しい。だから、悪いなと思いながらも、遙都は断るタイミングを逸していた。
そうして――――
ほどなく、純の危惧は現実のものになった。
いつもよりも帰りが遅くなったその日、さすがに純の姿は無かった。
遙都がその場に立ち竦む。
崩れかけた漆喰壁と森の間の道でのこと。
にやにやといやらしく笑う少年がふたり、遙都の前と後ろに立ち、道を遮った。
遙都が進む方向に、わざとらしく移動しては行く手を阻む。
心臓が痛いくらい縮んでいる。
思考が硬直して、目だけがただ逃れる道を求めて揺らぐ。
たった一箇所、逃げ場がある。
あるのだ。
ただ、躊躇してしまうだけで。
このままここにこうしていても、救いがあるかどうかわからない。
それくらいなら、自分で逃げたほうがマシだろう。
多分。
覆いかぶさってくる少年。
荒い息。
他人の熱。
(イヤだ!)
ぞっと立ち竦みかける自分を叱りつけて、遙都が駆け出す。
遙都が救いを求めたのは、森だった。
深い、森。
この森のどこかで、被害者は殺されたのだ。
そういう噂だった。
けれど、もう、ここしか道はない。
突っ切ってしまえば、人通りの多い場所に出る。
あんなことがある前は、通り抜けられる場所だったのだ。
散歩に来るひとだとていたくらいで。
だから、大丈夫。
自分で自分に言い聞かせて、遙都は森の中に駆け込んだ。
昼だというのに、欝蒼と暗い森。
重なりあった木の葉や枝。
かすかな隙間からこぼれ落ちる琥珀色の光。
それだけが、今が昼間なのだと教えていた。
腕や足を木の枝や切り株に引っ掛け、どれだけ転んだだろう。
靴すらももう履いていない。
どこで脱げてしまったのか。
Tシャツのあちこちにカギ裂きができている。
「っ!!」
心臓が跳ね上る。
蜘蛛の巣が顔にかかったのだ。
蜘蛛がスーッと下りてゆくのが目の隅にとまる。
しかし、今はそれどころではない。
わかってはいる。
わかってはいるのだが、苦手なものはしようがない。
背後に迫る、少年の足音。
(逃げろ)
でも………と、躊躇してしまう。
それどころではないのに。
嫌がるからだを無理に動かす。
とっくに方向感覚などなくなっていた。
ただ、逃げなければならないことだけが、遙都を急きたてる。
蜘蛛の巣の感触をどこかに追いやって、遙都は逃げた。
荒い息。
息が苦しい。
足が、痛い。重い。
自分の髪の毛の動きさえ煩わしい。
どれくらい逃げているのか。
目の前が霞んでくる。
ザザザザザ………。
迫る追跡者の足音。
「あっ」
木の根に足を取られ、遙都はその場に倒れた。
痛みを感じる間もなかった。
意識がぶれる。
気がつけば、二本の足。
背後に、もう二本あるのだろう。
ハッハッハッ。
息。
「The game is over」
「ちょこまかとよく逃げたよな」
しゃがみこんだ一人が、遙都の前髪を手荒に鷲掴みにする。
仰向かせた遙都の引きつる顔を覗き込み、
「さて、と。お楽しみはこれからだよな」
ケラケラと、笑う。
「ッ」
何がお楽しみなのか。
「誰か―――」
そんなことは、確かめるまでもない。
「誰かっ!」
だから、遙都は藻掻く。
「いやだっ」
不様だろうと、なんだろうと、かまわない。
「やめろっ」
ふたりの言うお楽しみなど、遙都にとっては少しも楽しくないのだから。
「いいかげんおとなしくなりゃいいのに」
頬に痛みが弾けた。
「バカだなぁ。これが、楽しいんじゃないかよ」
ケラケラケラ……。
キチガイじみた笑い声。
ビリッ。
Tシャツの襟が破れる。
「あ…あ、あ…………」
首を振る遙都を、ふたりは見下ろし、嘲う。
そうして再び遙都に伸ばしかけた腕が、ぴたりと止まった。
「うわあっ」
絶叫は、少年の口から迸った。
あまりのことにその場にへたり込んだ少年と、宙に持ち上げられたもう一人の少年。
足が、ばたばたと空を蹴る。
信じられない光景だった。
少年をぶら下げている一本の腕。
遙都は、茫然と、それを見ていた。
遙都の視界で、ぶら下げられている少年が、宙を舞う。
グシャッ!
グエッ!!
何かが砕けたような音がした。
そうして、カエルの悲鳴のような声。
もう一人の少年が、立ち上がろうと藻掻く。
中腰になった少年の足が、砕ける。
その襟首を掴み、無造作に放り投げる。
再び、少年のくぐもった悲鳴。
黒々とした、ひとのシルエット。
瞳だけが、赤く輝いている。
ひとならざる、そのまなざし。
ぞくりと背筋を這い上がったのは、本能的な恐怖だった。
次は自分の番なのだ――と、警鐘が鳴り響く。
(ああ、あ…………)
しりもちをついたままと言う情けない格好で、じりじりと後退さる。
首をずたずたに裂かれて死んでいた、女性。
母のように、自分も、殺されてしまうのだ。
こんな、運命だったのか。
(これが、オレの、運命………)
クッ…………
何故だかおかしかった。
クックッ……
悲しくて、怖くて、可笑しくて。
涙までもがこみあげてくる。
近づいて来る黒いシルエットが、涙に歪む。
それを最後に、遙都の意識は失われた。




