第1章 忘却【9】
マーヤは使用人でもあまり使用しないという裏通路を使って俺を部屋から出してくれた。なんでそんな通路があるのかと訊くと、もとは暗殺者から隠れて逃げるための通路だと教えてくれた。昔は暗殺が当たり前に横行していたため、古い貴族の家には大抵、こういった裏通路が存在しているらしい。
そんな設定、盛り込んだかな……。まあ、この世界がひとつの世界として自立しているなら、俺の想像外の設定があってもおかしくないか。
二階の書籍室は裏の通路から入ることができた。書籍室に逃げ込めば安全、ということか。
「あたしはここで待っていますので、どうぞお好きなようにご覧になってください」
マーヤは表の出入口の前に立つ。もし誰か来たら、俺のことを隠してくれるのだろう。どうやら、この書籍室も本来、俺が出歩ける場所ではないらしい。
俺はとりあえず身長より高い本棚を見上げた。そこでようやく気付く。
(おかしい……。俺はこの世界の人間のはずなのに、ひとつも文字が読めない)
背表紙に書かれた文字が一切、読めないのだ。司祭長ともなれば、高位の教育を受けたはず。それなのに、なぜ読めないんだ。
そもそも、異世界転生の定石で言えば、知らない文字なのになぜか読めるとか、なぜか日本語に変換されるとか、そういうことがあるんじゃないのか? というか、この世界を創ったのは俺なんだよな。それなのになんで読めないんだ?
もしかして、俺が記憶を失ったことも関係しているのか? それとも、世界王が俺に何かを思い出させないようにしている、とか……?
(ナビ、俺の能力を改変して、文字を読めるようにしてくれ)
【不可能です。司祭長の能力を改変すれば、魔力が失われる可能性があります】
それは一大事だ。司祭長という高位の肩書きと、あの旦那様の言葉。この髪色に表れる膨大な魔力が失われれば、俺はただなんの価値もない人間に成り果ててしまう。ここから逃げられたとしても、その後にも大きく影響するはずだ。もしかしたら教団に戻ることも難しくなるかもしれない。
(だが、文字が読めないのでは祈祷もできない)
俺は無意識にそう考えていた。これはフランの記憶による言葉なのかもしれない。確かに、司祭は神に祈りを捧げる存在だ。司祭長が祈祷をできなくなるなんて、とんでもない問題なんじゃなかろうか。
【問題ありません。司祭長の祈祷は王家の者のみに行われるもので、一般の参拝者には位の低い司祭が割り当てられます】
(だが、いずれ問題になるだろ。司祭長が文字も読めないんじゃ、司祭としての仕事もできなくなるだろ?)
【位の低い司祭に任せれば問題ありません。司祭長はそれだけの権限を持っているのです】
損な状況を押し付けられたもんだ。前世の俺だったらどうしてただろうな。
前世の俺。遠いところにいるもうひとりの自分のような感覚だ。それだけ、俺の魂のようなものがフランに定着し始めているのかもしれない。
それにしても、王太子以外は同性と結婚するとかBLゲームかよ。
……BLゲーム……? いや、いやいや……そんなまさか……。
もしこの世界がBLゲームを題材とした世界だとしたら、俺はまさに悪役にぴったりじゃないか? 司祭長という高位の立場。膨大な魔力を示す特殊な髪色。そしてこの美貌……。
いやいやいや、そんなまさか……な。
自分で自分のことを「美貌」なんて言う日が来るなんて、誰が想像できただろうか。
状況的に考えて、主人公である可能性は低いと思う。どんなBLゲームかはわからないが、主人公のパラメータが最初から高いのでは面白味がなくなる。主人公も多くの場合では地位が低い状態から始まるはずだ。もともと高位の存在であれば、BLゲームの醍醐味である「身分差」が生まれなくなってしまう。なにより、司祭長という肩書きが悪役っぽいじゃないか?
しかし、記憶喪失ってのがなんとも。俺は素のまま悪役を演じる自信はないのだが……。いや、悪役を演じちゃ駄目じゃないか? 悪役になったら破滅するじゃないか。まあ、シナリオの強制力があるなら、記憶を失ったままでも悪役になってしまうのかもしれないが。
俺は本でこの世界のことを知るのを諦め、マーヤのもとに戻った。あまりに戻りが早かったため、マーヤは不思議そうに首を傾げる。
「もうよろしいのですか?」
「うん。あまりに本が多いから、探すのに時間がかかってしまいそうでね」
俺は文字が読めないことがバレないよう祈りながら微笑んで見せる。司祭長が文字を読めないなんて、想像もできないだろうが。
「しかし、あの部屋にいてもやることはなさそうだね」
「それでしたら、本を何冊か持って行かれてはいかがでしょう。数冊くらいだったら気付かれませんよ」
それはその通りだ。これだけ本が詰め込まれているのだ。そもそも、この書籍室に訪れる者がいるかと考えると甚だ疑問だが。
「それなら、国史と教団に関する本を選んでほしい。きっとマーヤならどの本がいいかわかるのではない?」
俺は記憶喪失を利用することにした。記憶喪失であれば、この国のことも教団のことも覚えていなくても不自然ではないだろう。あの部屋に戻ったら、どうにか文字を解読する時間が取れるかもしれない。
「わかりました。では僭越ながら、あたしが選んで来ますね」
マーヤは意気揚々と本棚のあいだに入り込んで行く。この世界に関するヒントになる物があるといいのだが、俺の記憶喪失がどの程度のものなのか、マーヤが理解しているだろうか。
俺の記憶がないこと、それから文字が読めないこと。これには世界王のなんらかの力が働いているとしか思えない。せめてマーヤが選んだ本で情報を得られるといいのだが。




