第1章 忘却【5】
朝食を取って来ます、と侍女が下がって行くと、クリス青年とふたりきりになった。正直、ふたりきりにしないでくれ、と侍女を引き留めたかった。それも叶わず、厳しい視線が俺を鋭く突き刺す。この表情を見るに、クリスはフランのことを良く思っていないのかもしれない。
どうしたものかと俺が曖昧に微笑んだまま黙っていると、先に口を開いたのはクリスだった。
「これまでの教団の黒い噂を帳消しにするために記憶を失ったふりをしているのですか?」
まさに敵意むき出し、といった表情だ。せっかくのイケメンが台無しである。
しかし俺には、そんなことに構っている暇はない。
「教団……黒い噂……?」
司祭長と言うからには、何かしらの宗教で高い地位にいるということだ。おそらくフランが所属するのが「教団」だろう。だが「黒い噂」については首を傾げざるを得ない。
「フラン殿が司祭長になったのは、前任の司祭長の罪を帳消しにするためだと推測されている」
その前任の黒い噂がフランにも引き継がれているということか。それともフラン自身にも黒い噂があるのだろうか。とは言え、宗教というものは常に何かしら良くない噂が流れるものだ。
「はて……では、あの旦那様はなぜ私をここに?」
おそらく、俺は誘拐されてここに来た。つまり何か目的があるということだ。フランの記憶がない以上、それは訊いてみなければわからない。
「あなたが神官だからです。父は神官の有用性に魅了されている」
この答えは、あの旦那様が俺をここに誘拐しているという証明のように思えた。クリスにもそれはわかっているだろうが、教団と呼ばれた場所が俺の所属先なのだとしたら、誘拐したと認めざるを得ないだろう。
「ですが、司祭長ともなると、教団の方たちが私を探しているのではありませんか?」
先ほど鏡で見た限りでは、おそらくフランは二十代、前半か半ばくらいだろう。若くとも司祭長の肩書きを得ているなら、それだけの力が俺にはあるということだ。そんな者が誘拐されて、教団が黙っているはずはない。
「そうでしょうね。うちだけではありません。この国すべての民が疑われているでしょう」
それも誘拐であると認める発言になるのだが、クリスはそのことを隠している必要はないと思っているのかもしれない。どう見たって、誘拐されたことは確かだからな。取り繕ったって意味がないと思っているのだろう。実直な青年だ。俺とは正反対。
「見つかったら無事では済まないでしょう。そういうわけで、しばらくはこの部屋に滞在してもらうことになります」
では、と短く言ってクリスは部屋をあとにする。
……あれ? 監視は?
居心地の悪さから解放されたのはいいのだが、あの旦那様の目的としては、俺の動きを制限するためにクリスに監視を命じたのだと思っていた。とは言っても、俺としては監視がいなくなって心底から安堵していた。
ひとりになった俺は思考を巡らせる。司祭長を誘拐、軟禁……。果たしてどの作品の設定なのだろうか。
ひとつだけ思い出せない作品がある。転生する直前、作品一覧から消えていた作品。
きっとあれだろう。せっかく自分の創った世界に来たのに何も思い出せないのは、作品一覧から消えたからだと推測される。そんな単純な話で済むかと言えば怪しいところだが。
なぜ思い出せない。この世界のことも、前世の自分のことも。
「なあ、俺が記憶を失うことで、何か世界王に利があるってことなのか?」
【何もお答えできません。世界王については、私は何も】
相変わらず機械的な返答だ。俺のために用意されたシステム。だが、俺の質問にはほとんどまともに答えてくれない。ほんと、なんのためのシステムなんだか。
「自分の創った世界なのに、何も憶えていないんじゃどうにもできない」
【あなたはただこの世界を楽しむだけでいいのです。それが世界王のお望みです】
「だから、何も憶えていないんじゃ楽しむどころじゃないんだ」
【ここにはあなたの望みを叶えるものがあります。魔法を使ってみたかったでしょう?】
まるで子どもを諭すような言い方なのが気になるが、それはその通りだ。魔法はすべてのオタクの夢だろう。誰しも一度は試したことがあるはずだ。
……俺だけじゃないよな。
「それはそうだが、こんな幽閉された状態じゃどうにもならないだろ」
【これはいずれ解決します。時間の問題です】
きっとそれもその通りだ。教団において、司祭長の存在は大きい。教団員がいまも血眼になって探し回っているはずだ。そうでなければ、俺は本当に終わってしまう。あの旦那様に利用されるだけ利用され、きっと消耗してしまうだろう。
【この屋敷では魔法を使わぬようお気を付けください】
「何か仕掛けてあるんだな。まあそうか。魔法が使えれば逃げ放題だからな」
用意周到、とはこのことだ。魔法を使えば逃げられる。それがわかっているから、何かしら仕掛けてあるのだ。だが、ナビがなければそれを知らずに魔法を試していた可能性がある。完璧に用意周到とは言えないようだ。




