第1章 忘却【3】
さて、とクォルツ老医師は優しい瞳で俺の顔を覗き込む。
「ご自分の名前はわかりますかな」
先ほどの嫌な部類の貴族の男とは正反対に、クォルツ老医師は穏やかだ。急激に心が癒されるのを感じる。
残念ながらいまは覚えていないが、俺のじいちゃんがこんな雰囲気の人だったのかもしれないな。
「フランと呼ばれていましたが、私には……」
自然とそんな口調で話していた。「私」なんて仕事でも言ったことないぞ。まあ、それも覚えていないので「たぶん」としか言えないが。記憶はなくとも、このフランという人間に染みついたものらしい。
もしかしたら、フランも貴族なのかもしれない。それも、先ほどの――まあそれはいい。いまはクォルツ老医師の診察に集中しよう。
「ご自分の姓を思い出せますかな」
少し考えたあと、俺は首を振った。
フランという人間になり、まだ何分も経っていない。それでも、意識を“フラン”に集中させれば何か思い出せるのではないかと考えたのだ。
結果は実に残念なものだった。
「ここがどこかわかりますかな」
俺は辺りを見回す。この部屋だけで上流階級の家の屋敷だということはわかるが、ここが「どこ」であるかはわからず、また首を振った。
「なぜ眠っていたか、わかりますかな」
俺はまた首を振る。それは俺が訊きたい。なぜ俺は眠り、ここで目を覚ましたのか。先ほどの侍女の反応から考えるに、もしかしたら数日、眠っていたのかもしれない。
「ふむ。随分と強い衝撃を受けたようですね。ただの一過性のものであればよいのですが」
強い衝撃。クォルツ老医師は、なぜフランがここで目を覚ましたかを知っているのだ。
それもそうか。あの貴族の男を「旦那様」と呼んでいた。この家のことも、フランのことも知っている。あの旦那様が、フランに何をしたのかも。
果たして、クォルツ老医師はどちらの味方なのだろう。それによっては、慎重になる必要があるだろう。
「あの……どうして私は眠っていたのですか?」
探るように問いかけた俺に、ふむ、とクォルツ老医師は髭の中で呟く。
「それは体調が良くなってから説明をお受けになったほうがよろしいでしょう」
なかなかに隙のない老医師だ。彼から情報を引き出すのは諦めたほうがいい。そう悟った俺の膝を、クォルツ老医師は優しく叩いた。
「まだしばらくは安静になさってください。無理に記憶を取り戻そうとなさらないよう」
よっこいしょ、と立ち上がったクォルツ老医師は腰を叩く。杖をついて歩き出すと、先ほどの侍女が見計らったように部屋に戻って来た。一瞬だけ目配せのように俺を見たあと、クォルツ老医師に寄り添ってまた出て行った。
さて……参ったね。せっかく異世界転生なんて貴重な体験をしているというのに、何も憶えていないとは。
ただ、自分の人生に辟易としていたことだけは覚えている。だから、躊躇いなくあの人生を捨てた。ポップアップ広告に誘われて。
この異世界転生は、世界王からの贈り物。
いや、そもそも世界王ってなんだ? 名前からして、世界の王、なのだろう。問題は「どこの」世界か。もしかしたら、すべての、パラレルワールドも含めた世界の王、なんてこともあり得るのだろうか。
「世界王って、どこの世界の王?」
【すべての世界を統べる王にあらせられます】
「すべての世界って……本当にすべて?」
【本当にすべて、です】
ナビの言うことが当てになるのかどうかわからない。俺は世界王なる王に心当たりはないし、そもそもこのナビ自体も摩訶不思議なシステムだ。とは言え、異世界転生という不可思議な現象に巻き込まれたいま、当てになるものなどないのかもしれない。




