第1章 忘却【1】
会社をクビになった。
俺のミスではない。それは確かなのに。
周りはいつだって見て見ぬふりをしていた。
それなのに、いまさらになって。
なんて無為な世界なんだろう。こんな世界、嫌いだ。
もういい。嫌な仕事を続けたおかげで貯金はある。
しばらく、小説を書いて自分の世界に閉じこもろう。
――……ん? あれ?
小説投稿サイトを見てみると、作品数がひとつ、減っていた。
――どの作品だ……?
作品一覧を上から下へ何度も行ったり来たりする。
――なんでだ……? 何が消えたか、思い出せない……。
【招待状が届きました】
「うわっ!」
突如として目の前に現れたポップアップ広告に、思わず声が出る。
すぐに平静を取り戻して「閉じる」を探す。
おかしい。どこにも「閉じる」も「×」も表示されていない。
首を傾げる俺を嘲笑うように、また別のポップアップが表示された。
【世界王があなたのために贈り物をご用意なさいました】
【あなたを、こことは違う世界へ送ることが可能になりました】
なんだ、それ。いま流行りの異世界転移か?
【あなたのすべてを捨て、新しいあなたになりますか?】
すべてを捨て……それも、悪くないかもしれないな。
――……あれ?
ぐにゃりと視界が歪む。頭がくらくらする。
――まずい、飲みすぎたらしい……。水を……。
立ち上がった途端、足から力が抜けた。
バランスを崩して倒れ、頬が冷たい床に打ち付けられる。
――ああ……なんだか、眠い……。
【目を閉じて。そう、ゆっくりと】
【あなたの愛すべき世界へ】
【おやすみなさい、――】
[悪役神官の忘却~記憶の消去は異世界転生の贈り物です~]
ふ、と目が覚める。二日酔いを覚悟していた頭は大人しく、ふわふわとした微睡の中、二度寝の女神が微笑んでいる。
だが、のんびり寝ているわけにはいかないようだった。
見上げた先、いつもなら少し汚れた天井が見えるはずの場所。
そこに、違和感があった。
(なんだ、あれ……て、天蓋……?)
貴族ものをよく書いていたのでわかる。あれは天蓋。お高いベッドに付いているあれだ。
信じられないものを目撃した気分で起き上がると、やはり俺が寝ているのはあの狭く小汚いベッドではなかった。
ふかふかの布団。通販番組で見たことがある。高級羽毛布団というやつだ、これ。
驚きの手触り。滑らかな肌触りが心地良い眠りを保証する……。
いや、実際に触ったことはないのだが。
ぐるりと室内を見回す。すぐそばにある窓は美しい模様のカーテンで閉ざされている。俺の部屋のカーテンは適当に選んだ焦げ茶の遮光カーテンだったはず。
さらに視線を巡らせる。ベッドのそばには緻密な細工が施されたタンスと、高級そうに見える机に椅子。反対側にはこれまた木目の綺麗なタンスが置かれていた。
これは、あれだ。異世界転生だ。間違いない。
立ち上がろうと布団の中から体を出す。身に着けていたのはもちろん、着古したぼろぼろのジャージ――ではなく、肌触りの良いワンピースタイプの寝間着だった。
(脚、ほっそ……。すべすべな肌だな……女性なのかな)
自分の脚をひと撫でして立ち上がる。さりげなく……そう、さりげなく――誰に言い訳しているのかはわからないが――胸元に触る。どうやら男のようだ。
がっかりしているのではない。女性だったら困る。それだけの話だ。
そばに鏡台があることに気付き、覗き込む。映る自分は、やはり自分ではなかった。
色素の薄い浅葱色の髪。いわゆるワンレンという髪型だ。それと、垂れ気味の糸目。細身で……美形だ。驚くほどの。
(なんか見覚えがある気がするな……)
鏡に近付いて“自分”の顔を見つめていると、なんとなく思い付いたことがあった。
あの、ポップアップ広告。
(あなたの愛すべき世界……もしかして、自分の作品の世界?)
【ご明察】
「うわっ!」
不意に頭の中に響いた無機質な声。辺りを見回しても、自分の他には誰もいない。
俺の間抜けな声は、静まり返った室内で反響して消える。
静まり返った室内。そう、室内は静まり返っているのだ。
それなのに、声が聞こえる。
【ここはあなたの創った世界です】
これは、頭の中に直接、語りかけるタイプの声らしい。つまり俺にだけ聞こえるということだ。
(そうなのか……。でも、どの世界だ?)
もう一度、鏡の中の自分を見つめる。
驚くほどの美形が俺を見つめ返す。
何が悲しくて野郎と見つめ合わなければならないのか。
見ようによっては美女に見えるか……?
いやいや、何を変態みたいなことを。
だが、よく見なければならない。
(確かに見覚えがある……が……誰だったか、思い出せない……)
つくづくと見ても思い出せない。何か、脳内の記憶領域のような部分に蓋をされたような感覚。自分で塞いだのか、誰かに塞がれたのか。




